茸クリスマス
理逸とスミレとモーヴ号の子どもたちが大境にやってきて、一年以上が経過した。
文化風俗も大分異なるこの地での生活はメンバーにとって、色々と刺激的であった。南古野のように慈雨の会の規模は大きくなく、むしろ旧来の三大宗教が幅をきかせており。プラント労働だけで生活できる層が非常に多く、南古野より中流層が多い。
その代わりに中~上流はすべて献金や賄賂で企業連合と繋がっており、南古野よりはるかに根深い癒着構造は『貢献度』なる非公開の指標を産みだしている。これによって月に一度は個人名義の水道免税券が発行されるらしい。世も末だ。
属した組織《公団》はストリートチルドレンが主体となっている組織で、これまた子どもが少なく抑圧されがちな南古野では考えられないものだった。どうも、労働力確保の政策としてここの企業連合が出生率が上向くよう補助金やら裏取引を重ねたのが原因らしい。
ともあれ、《公団》の中核を担う三人組、コウケツと花林と唯に与することで態勢を整えたスミレは次に加賀田から教えられた苦楽暗句というバーで元・多企業軍所属の戦場帰りたちに接触。機構調律師としての能力および南古野での経験により獲得した『脳髄に巣食う人格破壊微機を取り除く』技で彼らが多企業軍に仕掛けられ、表立って統治区内の組織に関われない要因だった支配を解除した。
これにより恩を売って有能な戦場帰りたちを《公団》に引き入れたスミレは水面下で大境を牛耳る四つの巨大派閥を出し抜く『叩頭事件』『三鬼の霍乱』『切り通し事件』『パイプカット事件』を引き起こし、組織としての資金力と行動力統率力でとうとう五大派閥のひとつとして『公団』を認めさせるに至る。
なんだかんだ、短かったようで長かったが……と、現在の《公団》が所有するビルの執務室で理逸は思う。
走りつづけてきた日々もようやく落ち着き、束の間の平穏が訪れた。
「などと、考えているのかね?」
労働区画が南古野のプラントと比較にならないほど大きく、高所にはだいたい黒煙が吹き荒れている景色──そんな、大境の街を窓辺から眺めていたところ、背後から話しかけられた。
理逸が嫌そうな顔をして振り向くと、銀縁の眼鏡型機構越しにこちらを見る、にんまりと笑みを浮かべた加賀田が居る。
南古野での最終戦で喪った腕は代わりに機構の義手が取り付けられており、その姿は理逸のかつての友である織架の姿を想起させる。
というか再会したときにデリカシー皆無に本人が「才原織架に似ているだろう? 同型の腕だ」と口にした。マジでひとの心がわからない奴だとあらためて思った。
「ひとのモノローグを勝手に語るな、加賀田」
「だが当たらずも遠からずだと思うのだぜ。表情からしてな」
「……まあな。窓辺に立っても、もうこの縄張りでは狙撃されねえし」
言いつつ理逸は窓をこんこんとノックする。
《公団》をここまで押し上げる過程では、組織の中枢を担うと思われる年配組の人間(理逸、加賀田、元多企業軍の面々)がわりと敵対派閥に狙われたのだ。五大派閥にカウントされるようになってからは、もうまるで狙われなくなったが。
「そうしてアンニュイな貌で立っていると、キミの義姉がそうしていたのを思い出すのだぜ」
「ああ、義姉貴はよく組合ビルの窓辺で煙草吸ってたな」
「どうせ《固定》で防御しながらだろう?」
「そうだよ。『常に固定で壁をつくって煙草吸っていたら、狙撃してきた馬鹿の弾道がよく見えたので軌道を逆に追って捕えてそいつから背後組織ごと一網打尽にできた』って前に言ってた」
そもそもライフルの類もほぼない南古野で、狙撃など当たる確率はほぼないのだが。念には念を入れるのが、どの街でも生き残るコツだ。実際、理逸が立つこの場のガラスも強化ガラスに入れ替えてある。
加賀田は手を打ち鳴らして(がしゃがしゃと耳障りだ)呵々大笑した。
「さすがの女傑エピソードだ。いまごろはどうしているのだろうかね」
「さあ。そのうち、顔を見にいけりゃと思ってるけど」
「そうかそうか」
「なんだよ。なんか言いたげだな」
「いやなに? そもそもこの部屋を訪れた理由を思いだしたのでな」
芝居がかった仕草で右腕を胸に引きつけ、形式上はコウケツ・花林・唯の相談役として《公団》のNo.5に収まっている理逸(No.4はスミレだ)に対して一応部下の立ち位置を取る加賀田は仕事の話を持ってきた。
「まだしばらく帰郷は難しいのだぜ、相談役。トラブル発生だ」
「発生してないときがないだろこの街」
「それは然り。ともあれ、これを見て欲しい」
懐から取り出したのはちいさなパッケだ。なかには乾燥した、白い植物片と思しきものがある。
「なんだこれ」
「茸だ」
「食えるけど毒があるやつとか?」
「その程度なら問題はなかったのだが」
加賀田は眼鏡を外し、おもむろに理逸に差し出してきた。どうやら眼鏡型機構で撮影録画した映像を見ろということらしい。
なんとなく嫌な予感がしながら、理逸は眼鏡をかけた。
路地裏に踏み入っていく加賀田の視点だ(異様に画面の揺れが少ない。軍仕込みの歩き方のせいだろう)。
やがて足元には、なにやらカラフルな赤と緑の包み紙が見えてきた。破れているそれを辿る。角を曲がる。
人間が倒れていた。
そばには空っぽの箱。……いや、拡張済みの視界が箱内部の表面をズームする。白い粉末のようなものがこびりついていた。
加賀田の視線が倒れた人間──若い男だ──に向く。胸の上下動が浅いこと、負傷や病状がないかを確認する視線の動き。頭部を打ったらしく男が血を流しているのを見つける。
彼を襲った人間が周囲に居る可能性を探ってか、加賀田はぐるりと一周見回してもう一度男に近づく。
「しっかりしたまえ。起きられるか」
「う……」
男は頭を押さえた。掌を見て、怪訝な顔をする。
「どうした?」
「い、いや……う、頭が痛い……ところで、あなたは?」
「医者だ。顔を確認させたまえ」
加賀田が顔を確認する。男の、口の端になにかを見る。
「茸……」
口の端から突き出ているのは笠を広げた小指の爪ほどのサイズの茸だ。呑み込み損ねたそれが、付着している。
もう一度足元の箱に視線がいく。「東陽支援社」と記載されているカラフルな箱。
その直後、男はもだえ苦しみ始めた。激しく嘔吐し、やがてそこには血が混じる。
ほどなくして、彼は死んだようだった。加賀田が舌打ちする。
そしてすーっとその場から立ち去るところで映像は途切れた。
「男がこの箱を受け取る現場を、数名が目撃していた。どうやら箱はこの時期をわびしく暮らす者へ向けた支援配給物資らしい。中身は食事と飲料、要は簡易版炊き出しだな。東陽は福祉団体というやつだ」
「この時期、ってなんだ。いまってなにか特別なシーズンだっけ?」
「やれやれ三大宗教に疎いのはこの元・日邦の人間の良いところでもあり悪いところでもあるが。たかだか百年弱でこうまで風習が廃れるものなのか」
「もったいぶるな。なんて風習なんだよ」
「クリスマスだ。三大宗教がここでは強いのをお忘れかね?」
なんか聞いたことはある、気がする。理逸にとってはその程度の理解だが、その宗派の者にとっては非常に重要な行事だそうだ。
そして日邦はべつにその宗派の人間が多くはないが、この行事に関しては並々ならぬ熱意で一大イベントとして盛り上げていた。らしい。
「なんで宗派の人間でもないのに盛り上がるんだよ……」
「祭とハレを定義づけられればなんでも良い国家だったのさ。ともあれ、私はあとから使いの者をやって、箱の内側にあった粉末──胞子を確認したよ」
「そこに茸が入ってたのか?」
眼鏡を返しつつ理逸が言えば、加賀田は眉根を吊り上げて肯定する。
「Fungus Felicitatis……幸福キノコだそうだ。食うと一時間ほどで幻覚作用が現れて脳内麻薬でハッピーになる。合成麻薬でもないのになかなか効果は強力らしいし、人間に寄生して胞子をまいて増えるようだ。どうも犯人はこのクリスマス休暇をハッピーに過ごしてもらおうと、支援配給物資に紛れ込ませた様子」
「また、《虎枝商会》の茸馬鹿か……」
この大乾燥時代に湿度を要する茸というものに魅せられた異常な女・北斗杏。彼女は茸の研究のため大境に移り住んできた変わり者で、たびたびその研究成果による事件を引き起こしているのだが茸が麻薬としてカネになるので五大派閥のひとつ・虎枝商会に迎えられて庇護下にある。
「で、食うとこの映像のように死ぬのか。その茸」
「代謝されにくい成分なのでね。一本目でハッピーになるが効果が切れたころに意識を失い、一度倒れる。下手すれば死ぬ。そして、丈夫な奴でも二本も食えば六時間後にはお陀仏さ。もっとも、機構運用者で複数器官を強化拡張できる者なら、代謝促進で排出できるが……ああ、私もあの場で少し胞子を吸っただろうから念のため代謝促進している」
「やりすぎるなよ、お前結構寿命減らしてんだから」
「私自身が死ににくい個体なのか試せる機会さ」
にやっと笑って平然とそんなことを言うのだった。死を恐れないというより、恐れる資格がないと思っている目だった。
「まあ、ともあれ。対処はしなくちゃならねえな……一本食っても生きてる連中、まだ食わずにとっておいてる連中を助けないとな。茸馬鹿は捕まったのか?」
「それが当人も食べたらしくてね。いま絶賛トリップ中だ。『街並みがクリスマスっぽくなくなった~』とかよくわからないうわごとを言ってたそうだが」
「馬鹿が極まってる……。じゃあ対処法も訊き出せねえのかよ」
「一応、本人も二本食うとだいたい死ぬ認識はあったのか、箱には基本一本ずつしか入れなかったそうだが。すでに食ってる奴はおそらく禁断症状でもう一本を求めて徘徊しているのだぜ。また、一本で死なないのは大方、成人の場合だ。子どもの場合は体格体重の小ささで成分がよく回る。ほぼ死ぬだろうな」
「あーくそ。箱のこれ以上の流出含め、ゾンビみてえになった連中も止めねえとだな」
「見分けはつかんよ。多幸感は三時間ほどで切れて、その後は多少バッドに入っていてもさして常人と変わりない。茸食ったか? と直接聞けば『当局になにか疑われている』と思い、食った事実を隠すだろうしな」
大境での貢献度は普段の行動でも加算・減算される。より正確には、献金と賄賂でのみ加算になり、それ以外は当局に不都合なこと・迷惑なことで減算される。この場合は街の風紀を乱したわけなので、濫用者はまちがいなく減算路線だ。なお北斗はもう貢献度がマイナスに至っており月に一度水道局にカネを納めているらしい。意外にも一度も支払いが遅れたことはないようだ。
「じゃ、どうやって探せばいいんだろう」
「こういうときの我らがブレインではないのかね?」
「俺が朝出てくるときに、あんま今日は調子よくなさそうだったんだよ」
《公団》が拠点としているこのビルの取得以前にアジトにしていたちいさなアパートを、いまは理逸とスミレの住まいとしている。南古野での戦い以降、張り詰めた糸が切れてしまったスミレは浮き沈みが激しく、そんななかでも《公団》をここまで育て上げたのだ。モーヴ号の仲間と、理逸を生かすために。
「だからあんま頼りたくはないんだよな……」
「子どもが被害に遭いそうな事例を黙っている方が、あの嬢ちゃんは怒るだろう」
「それもそうだけどよ」
「箱の流通は私の仲間がなんとかする、私が解毒処理や応急処置の組織は集める。キミらもすべきことをしたまえ」
すいっと部屋を出ていってしまった。理逸はため息をついて、窓から外を見る。
黒煙に覆われた空は、見えづらくて飛びづらい。
「……仕方ない。行くか」
窓を開け放ち、理逸はゴーグルを喉元から引き上げた。南古野の戦いで片側のレンズが割れてしまったときにレンズを片方失くしたままの、兄の形見のゴーグルだ。
地上六階から空に身を躍らせ、『引き寄せ』で舞った。
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加賀田にああ言われて上空から街路を見ると、たしかにどこか賑わっていて騒がしい。クリスマスなる風習が、ここでは強くプッシュされているようだった。
なにやら赤い服を着た人物が、白い大袋を担いで行きかうひとにコソっと小さなものを手渡している。ヤクの取引だろうか。と思ったら、近くにあったデカい木──きちんと緑の葉を茂らせている──の枝に、手渡されたものを飾り付けしている。鈴やら、星やら、光る球体やら。
「なんかこのところ赤い服の人間が多いと思ってたが、あれがこの催しの象徴なのか」
よくよく見ると街中にも飾り付けが多くなっている。先の象徴的人物を想起させるようにか、赤の装飾が多く見受けられるような気がした。ほかにはヒイラギとかいう尖った葉っぱを模した装飾。これらで街が一色、いや二色になっていた。
やがて高い建物が少なくなったので、『引き寄せ』で対象に取ることのできるものがなくなった。理逸はタウンハウスの二階壁面に着し、ゆるやかに地面へ降りる。
ゴーグルを喉元に下げたところで、近くにいた赤服の男が驚いているのが目に入った。
「急に出てきて驚かせて悪かったな。七ツ道……じゃない。俺は《公団》の《蜻蛉》だ」
「あ、ああ……よく知ってますですよ、あんたのこと。なにか、事件ですかい?」
「事件っちゃ事件なんだが。東陽支援社ってやつらの支援配給物資には、関わってないか?」
「その手のやつはうちとは別だなぁ。俺らんトコも、福祉ではあるんですがよ」
男は「むつみホーム」と書かれた腕章を掲げた。福祉行動も貢献度に関わるそうなので、彼らはそういう団体なのだろう。
「クリスマスってぇことで、プレゼント贈ってる感じですぜ」
「そういう風習なのか」
「ご存じない? 身近なひとに日ごろの感謝を伝えたり、気持ちを確かめ合ったりするもんです」
「へえ……」
そんなイベントにハッピー茸を混ぜやがったのか、とますます北斗杏に対してしらけた気分になる理逸だった。だがどうせカネになる人材である以上、多少の灸をすえる程度で見逃されるのだろう。
「よかったら旦那もひとつ、差し上げますんで」
「ありがとう」
「んじゃまだ配る先あるんで、へえ」
白い付け髭の位置を直しつつ(この象徴人物はどうやら老人らしい。長生きした者をかたどることで縁起良くする、ということだろうか)、男は去っていった。
理逸は手の内に残ったちいさな小箱を見て、これには茸が入っていまいなといぶかしむ。
ややあってから箱を開くと、ちいさな焼き菓子が入っていた。
うまそうではある。そう思いつつ箱を閉じて、理逸は住まいへ急いだ。
状態が良くなければ、とりあえず時間を置こうと理逸は思っていた。
スミレは目を覚ましており、ベッドの上で身を起こすと背中を壁につけていた。この癖はまだ抜けない。もしかすると一生、この先も。
紫紺の瞳でじ、とこちらを見据え、スミレはひとつあくびをした。
「ふゎ……なにかぁりましたか」
「いや……少し野暮用で戻っただけだ」
「そぅですか」
要件について訊くことはなく、うつらうつらしている。たぶん、壁を見たまましばらく動きが止まる感じの日なのだろう。一年余りの付き合いで、だいたいスミレの状態は把握している。
昨日は荒れており今朝も調子は悪そうだったため、薬と食事を置いてきたのだが。卓上を見るとどちらもなくなっているので、それで少し上向いたらしい。
理逸は距離を保ったまま、部屋の中に置いていた年明けの会議資料の束を取りに来たふりをした。必要のないそれを持っていく用意を済ませると、スミレの方をまた見やる。動きが止まっており、どうやらなにもできない日のようだった。
無理はさせたくない。理逸はそのまま部屋を出ることにする。
「……なにかゎたしに用事では?」
背後から声をかけられる。ここで明らかに動きを止めるようなそぶりをしてしまう迂闊さは、さすがにこの一年以上の暮らしで理逸から抜け落ちていた。努めて普通に振る舞う。
「ねぇよ。しいて言うなら夕飯をなににするか、訊きたかったくらいだ」
「ぁまり食欲はなぃので。簡単なものでいぃです」
「そうか」
「《公団》でコウケツとカリンとウェイにはぁいましたか? 近頃、顔を出せてぃないので」
「気にしてないよ、全員。お前の事情はわかってる」
「カガタは?」
「まぁべつに、いつも通り「厄介ごとを押し付けられましたね」
するりと差し込まれ、さすがに動きが止まる。スミレは瞳だけこちらを向いて、ふんと鼻から息を抜いた。
「コウケツたち三人の話題になり、ホっとした顔でした。この話題がそのまま進むと思ぃ油断したところにカガタの話を振られ、目が泳ぎましたょ」
そういうスミレの目は、「一年以上のこの付き合いで、ゎからなぃとでも?」と言っていた。観念するしかない。
「……気ぃ遣ったんだよ。お前今日、ダルそうだから」
「要らなぃ御世話です。本当に無理なときは、ぁなたに言ぃますから」
「ああそうかい」
「で、なにがぁったのです」
「あー、じつは」
そこから理逸は茸馬鹿のしでかしたことについて一部始終を話した。とはいえ、潜伏した薬物濫用者を探すのは雲をつかむような話である。
さすがにこれだけの情報ではスミレも対策など難しいだろう、と思った理逸だが、
「ゎかりました。《公団》のメンバーを集めてくださぃ」
我らのブレインには、それだけで十分だったらしい。
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スミレの策は非常に簡単なものだった。
《公団》メンバーに看板を持たせる。そこに書いてあるのは『《公団》幹部への水道局からの貢献度を市民に還元する企画としてプレゼントを配っています』それだけ。
ただし、看板に細工がしてあった。
「緑に塗りたくって、赤字で書く?」
この仕事を請け負った一人ことモーヴ号の『ナンバーズ』でスミレに次いで年長の少年、コーダは訊き返してきた。理逸はなぜこう指示されたかわからないので、とりあえず腕組みして訳知り顔で言う。
「そうだ。スミレからの指示だ」
「これでなにが……ああ、そういうこと」
コーダは理解したらしく、素早く作業に移っていた。なぜなにを問われると思っていた理逸は肩透かしを食らったようでつんのめる。
「理解が早いなおい」
「姉ちゃんと同じで改造されてるからね、おれ。思考力はだいたい同じ、発想力とか瞬発的なのは負けるけど」
「あっそ……で、どういう用途なんだこれ」
「姉ちゃんが察したのは二点。その茸馬鹿さんが言った『街並みがクリスマスっぽくなくなった』。あと茸摂取した男が頭の怪我押さえたときの反応」
そこになにがあるのかわからず、理逸は首をかしげた。コーダは肩をすくめつつ、「錐体細胞って知ってる?」と言った。理逸は「知らないな」と返す。
「網膜にある、色とかを識別する細胞だよ。そもそも色の『感じ』って話だとクオリアとかの話題になるけど」
「それ今回の話題に関係するのか?」
「んーん、あんまり。だからかいつまんで説明すると、目には赤緑青を感じ取る細胞がある。まあ正確には『色』ってものは固定で存在はしなくて構造による光の反射の……」
「それも今回の話題に関係するか?」
「しないね。ごめんね。つい周縁部を廻ってから話をはじめちゃうの、おれたち癖なんだよ」
大元の知識量も思考能力もちがうため仕方のないことだと理解してはいるものの、ちょっぴりその隔絶が寂しい理逸だった。
ともあれ、コーダに先をうながす。彼は語りだす。
「色覚異常ってあるでしょ」
「色の見分けがつかないやつか」
「そんな感じ。アレのなかで、先天的に赤と緑が見分けつきづらいというのがあるワケ。『赤』と『緑』って感覚は赤を感じる細胞と緑を感じる細胞の働きの混ざりあいでつくられるから、どちらかが弱かったり働いてなかったりすると、この見分けがつかなくなるんだよ」
「大変だな」
「まあ今回の話題に直接関係する話じゃないんだけど」
「おい、じゃあなんなんだよいまの」
「ごめんごめん。直接じゃないけど、間接的にかかわるから。まあとにかく『色の認識』が茸摂取者はちがうんじゃないか、ってこと。情報出力側の細胞じゃなく、たぶん入力側の脳の方でってことだけど」
「どういうことだよ?」
「『街並みがクリスマスっぽくなくなった』って言ってたんでしょ? いま街をクリスマスぽくしてるのって、何??」
コーダに言われて、周囲を見渡す。
理逸がさっき上を飛んでいたときに感じたのも、それだ。
「装飾で、赤と緑が……多い。これ、か?」
「正解。おそらくだけど茸摂取者は、赤と緑の区別がつかなくなるんだよ。錐体細胞の方じゃなく、脳の情報受け取りの方に問題が起きるかたちで」
そこまで言われてやっと理逸も理解する。
この看板は、これに反応する人間は区別がつく=茸を摂取していないと判断がつく。看板を見て怪訝な顔をする、読みづらそうに目を細めるといった反応をする人間は赤緑の区別がつかない=茸摂取者の可能性がある。ということか。
「カガタさんが頭打ったひとを見たときも、頭押さえたのにそのあとの反応にぶかったんでしょ? それって『掌についた負傷の血が赤か緑か判別つかなくて』、血かどうかわからなかったってことじゃない」
「ああ……」
解き明かされれば、その通りである。
実際にこの看板を持って通りに出てみれば、反応で茸摂取者は一目瞭然であった。
こうして、今回もブレインであるスミレの助言によって理逸たち《公団》はことなきを得た。そういう次第である。
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という顛末を、暗くなってきて家に戻った理逸は話した。
クッションを抱いて背を壁にもたせかけるスミレは一件落着したことを聞き、「そぅですか」と気の無い返事である。表情も、薄い。
昼に、あの短い助言でも頭はフルに活動させてかなり疲労させたのだろう。わかっているから、理逸は静かに寝床を勧める。
「……今日はもう休むか。肉圓買ってきてあるから、これ食って寝ろ」
「めずらしぃ。気が利きますね」
「食い物でしかねぎらってやれない自分に自分でちょっと自己嫌悪だけどな」
「至らなさを自己申告しても慰めてはぁげませんよ」
「慰めは要らねえけど採点はもうちょい甘くしてくれ」
「……まぁ。なにもしなぃょりは、好評かなと」
「ほう。高評価か」
そう聞き取った理逸は安堵して、買ってきた肉圓の入った携帯ジャーを温め直す。
ただスミレはなにか不満だったらしく、手元のクッションを投げつけてきた。どういう反応なのかわからず理逸は「なんだよ。もう評価が落ちたか」と訊いて、全力の「ぇえ」を食らった。一年以上も共に暮らしているのに相変わらずなにもわからない。
まあ、でも。
わからないことをわかり合おうとしていく。
そう決めたから、共にいるのだ。
「お前からは辛口評価ばっかで、気が滅入るよ。これ食って少しは点数上げてくれ」
言いつつ、理逸はむつみホームなる福祉団体の男からもらったプレゼントボックスを投げる。
クッションがなくなって手のあいたスミレはぱっとこれをキャッチし、驚いた顔で理逸を見る。
「プレゼント、ですか」
「焼き菓子だ。うまそうだったぞ」
「贈り物を先に開けて見るとは……ぃじ汚ぃですね」
「そこまで言わなくてもいいだろ。なんだ、気に入らねえのかよ」
「消耗品はぁんまり」
「なんでだよ」
「事実しか残らなぃからです」
なんのこっちゃと思う理逸だが、ややあって、スミレが口にしたことの意味に気付く。
事実ではなく……物が、欲しいのだろう。
自分が──稀薄になってしまっているから。理逸が『兄のゴーグル』という重石を必要としたように、スミレもいまは己をこの世に結び付けるよすがを必要としているのかもしれない。
理逸は少し、考えて。
「ゴーグルのレンズ、いい加減入れ替えようと思ってるんだ」
片側をあけたまま。できるだけ兄にもらったままにしていた喉元のそれを指さす。
「片側をさ。色変えて、ブラウンにするつもりなんだ。でも一枚だけの発注ってあんま業者も受けてくれないだろ? だから二枚頼む。んでそのうちの一枚、お前が持っててくれよ」
これを以て、プレゼントとする。
スミレからするとまるで役に立たない、なんの意味もない贈り物。
でも、理逸にとってのそれは……
「はぁ。ゎたしはスペァの携帯役ですか」
「嫌な言い方すんなよ」
「ゎかりましたよ。持てとぃうなら持ちましょう」
「嫌々過ぎるだろ」
「ィヤとは言ってぃませんが」
「態度に出てんだよ」
にらみ合い、向けられる、スミレのまなざし。
彼女のその紫紺の色は実験によるもので、元はブラウンの瞳だったと聞いている。
だったら、彼女の素であるその目に。その色に。
己の行く先を見据えてもらうのは、ひとつ彼女をこの世に留める重石になるのではないかと思ったのだ。
果たして、最終的に。
「……ィヤでは、なぃですょ。ほんとうに」
そこだけは力を込めて、スミレはそっと微笑んだ。




