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黒衣の王女  作者: 時満
本編
9/24

約束

 隠れ里へと帰還する道程は、行きとは違って酷くゆっくりと、そして酷く静かだった。

 沈黙が破られたのは、隠れ里に着き、いよいよ最期の時と少女が跪いた時だった。

「何か、何か死ぬ前に望みは無いのか!? 何でも良い、言え!」

 少年は、追いつめられた子犬のように泣きそうな顔で怒鳴った。見かねた騎士の一人が駆け寄る。

「殿下、お辛いのであれば私が代わりに……」

「うるさい! お前は俺を王家に生まれた者としての覚悟も持たぬと侮るのか!」

「し、失礼いたしましたっ」

 激高する少年に騎士は弾かれたように謝罪して下がる。

 少年は大きく深呼吸して、先程よりは少し落ち着きを取り戻した声で再び尋ねる。

「……王女としてではなく、お前自身の、ただの貧相な小娘としての望みはないのか?」

 ただの貧相な小娘。言葉は悪いが、少年の思いが少女の瞳を戸惑いに揺らした。




 森の夕暮れは、平野に比べて早い。まだレギスの町は夕日で染まっている頃だろうが、隠れ里は既に夜の静寂に包まれていた。その静寂を震わせ、ハープの旋律が響く。古典の一つ、神々を讃える古謡を元にした曲は星々の煌めきのように美しく、そしてどこか哀切な響きを抱く。

 少女の表情は、王女としての型にはめられたそれではなく、心からハープを弾くのを愛し、楽しんでいるただの少女のものだった。少女の細い指先から溢れ出る音楽は、少年が聞いたどんな演奏よりも心を震わせた。少女にとって、乳母に施される教育の内で心から楽しみ、愛したのはハープだけだった。

 ハープの音色は、そのまま少女の心だった。何も自由にならない少女の、唯一自由な心で、少女は好きだった曲を次々と奏でる。

 一心に、心のままに。

 陰気な喪服に押し込められた貧相な体の奥に、これほどに鮮やかで素晴らしい心が隠れているなどと、少年は思いもしなかった。

 表情が薄く、人形のようだと思っていた少女。悲惨な環境で、心を殺した哀れな少女。そう少年は思っていた。だから罪悪感に苛まれ、少女に何かしたかった。少女に何が何でも何かしてやりたかったのは、望みを言わせたかったのは、罪悪感を軽くしたかったからだ。

 だが、少女の心は決して死んでいなかった。それどころか、その無理矢理被せられた王女の顔の下に誰よりも鮮やかで豊かな心を育んでいた。

 少年は、己の罪悪感を軽減する為に少女を振り回してしまったことを恥じた。少女は、自分の意志で“王女”であるのだと、少年は悟った。


 演奏が終わっても、少女も、少年も、騎士達も、しばらく誰も声を上げなかった。

 素晴らしい演奏の余韻を壊すのは酷い冒涜に思えたし、奇跡のようなハープの名手の命を惜しみたかったのかも知れない。

 だが、そういつまでも時を引き延ばすわけにはいかなかった。

 少年は渋る騎士に席を外させ、少女と二人きりで向かい合った。

「最後に……思い切り弾けて満足ですわ。ありがとうございました」

「……もう、望みはないのか?」

 途方に暮れたように再び問いかける少年に、少女は少し困ったように眉尻を下げた。

「では……あなたのお名前を教えて下さいませ」

「……エバルト。エバルト・セネガ・ディンドリオンだ」

 今更ながら少年は名乗っていなかったことに気付いた。何をやっているんだと自己嫌悪に顔が歪む。

「ありがとうございます、エバルト様。あなたは、わたくしの名を初めて呼んで下さった方です。誰もがわたくしを姫様と呼び、名を呼ぶ事はありませんでしたから」

 名を呼ばれない人生とは、一体どんなものだろう。少年はどう答えたら良いか分からず、黙り込んだ。もう、少年はどうしたらいいか分からなかった。この少女を失いたく無い。命を奪いたく無い。だが、国のためには生かしてはおけない。相反する思いが胸に渦巻いて、少年は身動きが出来なかった。

 そんな少年の前に、少女は静かに跪く。

「さあ、騎士様がたもやきもきしておいででしょう」

「お前は……お前は立派な王女だ。俺はお前を殺したくない」

 押し殺した少年の声に、少女は目を見張る。それからゆっくりと頭を振った。

「この狭い檻の中で、わたくしはずっと流されるままに生きて来ました。“王女”として、本当に生きていたわけではありません。でも、今は違います。あなたが来て下さったから。わたくしの名を呼び、魂に命を吹き込んで下さった方。わたくしに意味を与えて下さった方。わたくしの命を惜しみ、心を痛めて下さった優しい方」

「俺は……俺は何もしていない。妄執や欲に取り付かれた者どもから、木偶にされた女一人救えない」

 少女には昨夜会ったばかりだ。だというのに、もうすっかり少年の心に根を張ってしまった。少年の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。

「いいえ、救われましたわ。里の者達とは比べ物にならぬほどに明るい顔をした町の民を見せて下さいました。娘達がお洒落を楽しみ、子供が小遣いで甘い菓子を買い、笑い声が絶えぬ町を。わたくしは、それらの貴い幸せを守る為に消えるのです。誰が知らずとも、あなた様が覚えていて下さる。わたくしの命は、決して無意味に消えるのではない、そう思える幸福を下さいました」

「馬鹿を言うな。死ねばそれで終わりだ、意味など無い」

 少女自身は、庶民が今謳歌している幸せの欠片すらも知らずに死ぬのだ。そのことが少年はどうしても許せなかった。ほたりほたりと、少年の頬を流れ落ちた涙が顎先から雫となって床を打つ。

「いいえ、意味はありますわ。魂は巡るもの。わたくし、来世はきっとこの国の片隅に、庶民として生まれますわ」

「庶民に?」

「はい、もう王女はこりごり。貴族も面倒ですし。少しお休みして生まれ変わる頃合いとしては、次期国王陛下であるエバルト様の治世が可能性が高いと思いますわ」

 表情を崩して、ぎこちなく少女が笑う。つられて少年も歪んだ笑みを浮かべた。

「俺よりも弟の方が賢いぞ。次期国王は弟かも知れん」

「わたくしはエバルト様が良いですわ。色とりどりの綿のドレスも、甘い焼き菓子も、羊肉の串焼きも、本当は全て欲しかったのですもの。来世のわたくしが叶えられるように、賢王になって下さいませ」

「なんだ、やっぱりやせ我慢をしていたのか」

 少女が浮かべた笑みは不格好で、冗談めかしたつもりなのだろうが必死過ぎて酷く滑稽だった。少女の目にもいつの間にか涙が溢れていた。少年もまた、嗚咽に変わりそうな声を必死で振り絞って、少女の冗談に軽口を返した。

 そして、乱暴に手の甲で涙を拭う。

「分かった、約束する。必ず、必ず俺の治世に生まれ変わって来い」

「はい、必ず」

 最早、少女の命は救えない。少女もそれを望まない。少年は、少女の命を背負う覚悟を決めた。

 少年はそれでも剣には手を伸ばさなかった。代わりにシャツの襟元から細い金鎖を引き出す。鎖の先端には金の壺を模した小瓶のペンダントヘッドが付いていた。その壺を外して、少女に渡す。

「……毒だ」

「もしや……“天使の憐憫”でしょうか?」

 それは王族の自害用の毒だ。苦しまず、しかし一滴で確実に眠るように死ねる。

もしもの時は、これを使えと父王に言い含められていたものだった。王族としての尊厳を守り、責務を果たす為の毒だ。少年の妹も持たされている。

「お前は立派な王女だ。斬首は相応しく無い」

 斬首は罪人の処刑のされかただ。

「ありがとうございます」

 少女は静かに栓を引き抜く。一瞬のためらいも無く少女はその中身を呷り、そして床に崩れ落ちた。

 金の小さな壺が床に落ちて澄んだ高い音を立てた。


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