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黒衣の王女  作者: 時満
番外編
24/24

とある侯爵令嬢の生涯(後編)

 十五年という歳月が経っていたが、あの日芽生えた恋心は簡単に大勢の中からその人を探し当てた。エメルダは王宮での舞踏会で遠目にその姿を見つけて舞い上がった。

 とうとうこの日が来たのだと。

 けれど、エメルダの思ったようにはかの人は動いてはくれなかった。

 エメルダの妄想ではエメルダがすぐにかの人を見つけ出したように、かの人も自分を一目見て驚き、美しく素晴らしい貴婦人に成長した自分に跪いて賞賛と愛を捧げるはずだったのに。

 何も起こらなかったことにエメルダは落胆したが、一方で過剰に膨らんでいた甘い夢から醒め、冷静さを取り戻した。

 よくよく考えれば、妹に付き合わされたお子様達のお茶会で出会った幼女のことなど、既に大人に差し掛かっていたかの方の記憶に残るはずがない。

 社交中に一度きりの邂逅を果たした相手など、それこそ数え切れないほどだろう。

 だからエメルダは自分から声を掛けることを決意した。女性から恋を仕掛けるのは淑女としてははしたない振る舞いだが、諦め切れない想いがエメルダを大胆にさせたのだ。

 その日、エメルダと親交のある貴族夫人宅で舞踏会が開催された。

 小規模ではあったが、かの方の母君とも交流のある貴族家での舞踏会だ。かの方が招待に応じたことは夫人からの情報で知っていた。

 エメルダは思い切って夫人に自らの長い片恋を打ち明け、かの方とほんの短い時間で良いので二人きりで言葉を交わせるように取り計らってはくれないかと頼み込んだのだ。

 夫人は色恋話に目の色を変え、快くエメルダの頼みを聞いたのだ。


 一方でアレンは出席した舞踏会で、ホスト側の当主夫人に請われて対面することになった貴婦人を訝しく思った。

 エメルダが予想した通りアレンは彼女のことなど覚えていず、当然態度も余所余所しいものになる。


「貴方様が覚えておられないのも道理でございます。

 わたくしはまだ六つでございましたし、貴方様は妹君に請われての気の進まない子供ばかりのお茶会での出来事でしたから。

 けれども、ただ一度きりのことでも蓮の花咲く池の前で言葉を交わせたことは、わたくしには忘れ得ぬものとなりました。

 蓮の花は淑女の中の淑女のような花であると語って下さったことが、今のわたくしをここまで導いて下さったのです」


 エメルダの話に、アレンはようやく古い記憶をわずかに思い出した。


「そうか、あの時の」


 ファリサエル次期侯爵夫人のことは、中央から距離を置いているアレンの耳にも時折入ってきていた。


 曰く、悪戯で不埒な誘いには一切乗らず、上手な言い回しで相手を不快にさせずに躱してしまう社交に長けた貞女である。

 曰く、その知識は重鎮達も時には舌を巻くほどで、しかし出しゃばることのない一歩も二歩も引いた態度は、これぞ淑女と言わしめるものである。

 曰く、陛下さえ袖にした誇り高い美しさに、心酔するものも少なくない。


 まだ未熟な少年でしかなかった己の、戯れに発した言葉を真摯に受け取ってくれたのだと知ると、アレンもしみじみと感動するものがあった。

 一転して柔らかい笑みを浮かべたアレンに、エメルダもまた高揚する。


「あの日からいつか貴方に相応しい淑女にと、一心に努めて参りました。どうぞ、わたくしを哀れと思って下さいませ」


 アレンが普通の貴族男性であれば、これですっかり落ちていただろう。

 だが、アレンはそうではなかった。

 直前に感動していたからこそ、余計にエメルダの恋の告白は裏切りのように感じられたのだ。

 一瞬虚を突かれたような顔をした後、綺麗に取り繕った顔でアレンは拒絶した。


「申し訳ないが辺境に長くいたせいか、すっかりみやびを解さない朴念仁と成り果てました故。何のことか分かりかねます。

 辺境において淑女とは夫に操を立てるもの、恋に駆け引きにと優雅な遊びに興じるよりも民の明日の糧に心を配るもの。

 そして私はこれからも辺境にて、辺境の淑女たる妻と共に朴念仁の道を往きます」


 これ以上は不愉快と言わんばかりにアレンは部屋を出て行き、取り残されたエメルダは呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。

 エメルダの初恋に、最初から未来など無かったと。どう足掻こうと手に入るものではなかったと。

 何より、アレンの目にあった侮蔑がエメルダをどん底に突き落とした。


 エメルダは失意の内に数日寝込み、その後も癇癪を起こして侍女に八つ当たりをするなど、それまでの彼女からは考えられない暴挙に出ることが多くなった。

 エメルダとアレンの噂は対面の機会を用意してくれた夫人から漏れ、面白可笑しく尾ひれ胸びれを付けて社交界で密かに囁かれるようになった。

 それだけでなく、高嶺の花は案外安いなどと馬鹿な男どもが寄り付くようになったため、社交も控えざるをえない状況になった。そのためエメルダは家に閉じこもり、ますます鬱々とふさぎ込む様になったのだ。

 だが、不幸中の幸いにもアレンが一月もしない内に辺境に戻ったため、噂は程なく下火となる。

 そして、予想外の夫の反応があった。


「君は非の打ち所のない完璧な貴婦人だと思っていたけれど、可愛いところもあるんだね」


 恋も遊びも達者で愛人も何人かいる年上の夫は、飾るには良いがつまらないと思っていた妻の意外な恋と失恋に逆に興味をそそられたようで、エメルダを新しい恋人のように慈しんだ。

 恋に手慣れた夫は女の扱いも上手く、初恋に一途だったエメルダは初めて知る手練手管に耐性もない。その上、手酷い失恋で傷付いた心に優しい言葉は容易に染み込む。

 女としての自信を取り戻させてくれる夫の甘い言葉はエメルダを癒し、立ち直るきっかけになった。

 夫の方も、エメルダの擦れていないもの慣れない初々しい反応を愛しく感じた。

 こうしてエメルダは夫から愛される喜びを教えられ、妻としても女としても満たされた日々は痛みと傷を徐々に過去のものへと変えて行った。


 季節は巡る。

 いつの間にか将軍に昇進していたアレンに第一子が生まれたとの噂を聞いたが、ほんの少し心が波立つだけになる程心が癒えた頃、エメルダは第二子を授かった。

 丁度夫が爵位を継いだのを受けてエメルダも侯爵夫人となり、いよいよ当主夫人として夫と共にファリサエル家を切り盛りしていくのだと思いを新たにした。子宝にも恵まれ、公私ともに非常に充実した幸せの絶頂にいたのだ。

 そんな時、隣国から嫁いだ側妃が身籠もった。エメルダは生まれるであろう王子か王女の乳母として召し上げられることとなった。


 その日の出来事は、まるで悪夢のようだった。

 乳母といはいえ、王家の乳母は高位の貴族夫人であるから乳を差し上げることはない。

 乳母として本格的に仕えるのは姫が二つを数えてからとして、顔合わせのみという話で姫君誕生から約三ヶ月後に王宮に上がった日。

 何の変哲もない、穏やかな春の日であった。

 健やかに寝息を立てる姫と、美しいが華奢でまだほんの少女のような側妃への御目通りは恙無く済んだ。

 

 だが、その後まだ手続きがあるため少し待つように言われた部屋に違和感を覚えた。

 何かがおかしい。

 そう感じつつも、まさかという思いもあった。

 王家の乳母は名誉ある立場である。それを穢すなど、と。

 しかしながら不安は的中し、淡い望みは断ち切られた。

 部屋に現れた国王は、夫に褒美を取らす約束だと言った。

 暴君として知られる国王を前にして、夫が否と言えなかったことは想像に難く無かった。

 エメルダもまた、抵抗することは出来なかった。


 

 そうして悪夢に更に悪夢が襲いかかる。

 夜半のことだった。

 疲れ果て、涙も枯れ果てたエメルダの横には国王が満足げに鼾を立てて寝ていた。

 突然荒々しく扉が開かれ、バタバタと複数の靴音が響いたと思ったら隣で呻き声が上がる。

 何が起こったのか分からず震えるエメルダを、ランプの灯りが照らし出した。

 果たしてそこにいたのは、辺境の地にいる筈の人だった。


「……アレン、様?」

「映えある王家の乳母が、娼婦にまで成り下がったか」


 吐き捨てるように言うと、その男は躊躇いなく既に骸になった国王の首を切り落とした。生ぬるい血がエメルダにも容赦無く掛かる。

 悲鳴も上げられず、恐怖と絶望に瞬きも出来ず、震えるばかりのエメルダは、捨て置かれた。

 文字通り捨て置かれたのだ。

 エメルダは知らなかったが、王の放蕩によって民は追い詰められていた。もはや爆発寸前にまで膨らんだ民の怒りが、この凶行を正当化した。

 国王に恨み骨髄の男たちにとって、その国王の情婦など蹂躙の対象でしかなかった。

 命を奪われなかっただけでも、幸運であっただろう。



 エメルダはどうにか廊下で事切れている侍女から着る物を奪い、身なりを整えた。

 彼女を支えていたのは、僅かに残った乳母の誇りだ。それとなんとしても夫と子供らに会いたいという思いだった。

 生まれたばかりの姫よりも、王子達の方が余程重要であろう。もしかしたらまだ、という希望に縋ってエメルダは暴徒に見つからぬよう、姫の部屋を目指した。

 姫の部屋は、静まり返っていた。

 本来なら居るはずの、姫の世話をする者や乳を与える者もいない。

 手遅れだったかと落胆するが、わずかに猫の子が鳴くような小さな声が聞こえた。

 戸棚に籠に入れられた乳飲み子が隠されていたのだ。その側には、美しい細工の文箱があった。

 中身を確認したエメルダは下着の中にそれを隠し、それから赤子から高価なお包みを剥ぎ、シーツを裂いた布で包んだ。


 エメルダは赤子を我が子と偽り、城に乳を与えるために呼ばれた下級貴族の妻を装ってどうにか城を逃げ出した。エメルダは既に侯爵夫人とは思えないほどに酷い姿であったし、必死で我が子を守ろうとする姿に偽りはないように思われたため、見逃されたのだ。

 だが、そこからは再び悪夢であった。王都の街中はひどい喧騒で、あちこちで武器を手にした暴徒が貴族の屋敷に襲いかかっていた。

 普段徒歩で移動したことのないエメルダは暴徒を避けながら進む途中で迷ってしまい、どうにもならなくなったところで、王室ご用達の高級店の看板に目を留めた。直接の恨みの相手ではなく、屈強な用心棒が何人もいたそこは、民の襲撃をまだ受けていなかった。

 こうして商人の保護を受けたが、情勢が安定するまでは隠れ家から出ないようにときつく言われ、従う他なかった。夫や子供達のことを思うと気も狂わんばかりだったが、手の中にある尊い姫の命がエメルダを支えた。

 

 しかし悪夢は、更なる悪夢を連れて来た。

 民を徒らに苦しめ国を傾けた愚王を誅し、新しい王が立った。

 愚王の手先として多くの貴族が処刑され、その首が晒された。

 その中に、エメルダの夫もいた。

 エメルダの両親も、義理の両親もいた。

 晒された首の中にはなかったが、火事になった屋敷から逃げ遅れて子供達も死んだと聞かされた。

 エメルダに残されたのは、何も知らずに日々泣き、乳を飲む赤子。

 そして、その他全ての感情を塗り潰す憎悪だけだった。



 あの夜以来、エメルダはずっと悪夢の中にいた。

 転がる国王の首が恨めしげにエメルダを見る。

 晒された夫の首が血の涙を流している。

 火に巻かれた子供達の泣き声が聞こえる。

 悪鬼のごときあの男がエメルダを娼婦と蔑み、下賤な男達がエメルダを蹂躙する。

 民がなんだというのだ。

 国がどうだというのだ。

 こんな非道を是とする国など、民など、悪魔と変わらぬ。

 こんなことは間違いだ、そうでなければこの世は地獄ではないか。


 もはやエメルダにとって姫はお守りするべき尊き方ではなく、恨みを晴らすための道具でしかなかった。

 エメルダは男を憎み、色恋を憎み、この世のあり様全てを憎悪した。

 そうして憎み続けた末に病に倒れたエメルダは朦朧とした意識の中で、これで悪夢が終わるのだと死の救済を想った。


 そして、ようやく己の側に佇む哀れな娘を見た。

 泣き叫ぶ我が子の声も、血の涙を流す夫の首も、今はもう聞こえず、見えもせず、己を罵倒する悪鬼の声も聞こえない。


 静かだった。


 悲しみの色さえ見せない娘を見て、エメルダは何の感慨もわかなかった。

 哀れな娘だとは、思った。

 この地獄でまだ生きていかねばならない娘を。

 だがそれは、赤い血を見て赤いと思う以上のものではなかった。

 

 もはや何一つ、エメルダの心を揺さぶるものは無かった。

 憎しみさえも、今は遠い。

 何も、残す言葉など、ありもしない。

 この世の全ては悪夢であり、思いを残す価値などなかった。


 エメルダは、目を閉じた。

 そしてそのまま、全てを無明の闇に委ねたのだった。



前編を書いておきながら、完結するのに大分時間が経ってしまって申し訳ありませんでした。

この結末は本編を書いた時点で決まっていたものではありますが、本編以上に救いの無い内容となりました。

彼女は最後まで高貴なる者の責務を理解しませんでしたが、愚かだったの一言で済ますにはあまりにも哀れな人生であったと思います。

時代に翻弄され、苦しめられた一人の女性の生涯があり、

その上に黒衣の王女が育ち、

さらにその犠牲の上に国が長く栄える種が蒔かれた。

彼女の不幸は、ほんの短い期間でも特別幸せだと思える時間があったことでしょう。

初恋こそ無残に破れはしましたが、彼女は夫と愛し合い子供にも恵まれ、経済的にも不自由しない生活をしていました。

そのような幸福の何一つ無かった王女は、だからこそ潔くほんの僅かに残された己の存在意義に殉じられたのかもしれません。


長いこと続きを待っていてくださった方、ありがとうございました。


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