とある侯爵令嬢の生涯(中編)
蓮の花が見頃を迎えているという池の畔には白い瀟洒な四阿があり、絵画のように美しくエメルダの目に映った。純白の蕾は光を灯した蝋燭のように幻想的に緑の葉の波の上に浮かんでいる。
多くが蕾の中で二つほど開いた花は殊更夢のように美しく感じた。
「どうです?」
「蓮の花は初めて見ました。不思議な花……」
握り拳ほどのその花は、水面に広がる緑の帳のような大きな葉とはまるで別の存在のようにすっくりとまっすぐに首を伸ばし、作り物めいた整った形と質感をしていた。
白い花弁には吹けば散るような儚さはなく、繊細さを持ち合わせていながらしっかりとした安定感があった。
「ここの蓮の花は小さいですが、場所が変わればエメルダ嬢の頭よりも大きな花を咲かせることもあるんですよ」
「まぁ、本当に?」
「ええ。ここの池の水は澄んでいますからね。蓮の花は泥水の濁りが深いほど大きく美しく咲くんです」
「濁っていた方が?」
「不思議ですか?」
面白そうに笑って聞き返すアレンに、エメルダは首を傾げた。
まだ幼い彼女には、綺麗なものは綺麗なものから生まれるというごく単純な因果関係しか想像できなかった。
「アレン様は不思議に思いませんの?」
「私は……初めてその話を聞いた時は気高い花だと思いました。淑女の中の淑女のようだと」
ふ、と遠い目をしてアレンは蓮の花に視線を戻した。見る人が見れば見咎めるだろう張り詰めた顔で。そんなアレンの様子に気付かず、高揚した気持ちでその言葉を胸に刻んだ。
「淑女の中の淑女……」
「ええ。平時は慎ましく、逆境においてはその厳しい環境にも耐え、周囲に染まらずに大輪の花を咲かせる気高い強さ……」
そこで、ハッと我に返ったようにアレンは傍の小さな淑女に微笑みかける。
「エメルダ嬢にはまだ難しい話かもしれませんね」
「そんなこと、ないわ! わたくし、いつか淑女の中の淑女になるもの」
幼い少女の憧れに輝く顔を見て、アレンもまた眩しそうに笑った。
「おお、ならばエメルダ嬢は未来の乳母殿ですね」
「乳母……?」
「淑女の中の淑女というのはお世継ぎの乳母の別称でもあるのですよ。エメルダ嬢にも乳母がいらっしゃるでしょうが、王家の乳母は貴族のそれとは事情が違うのです」
「どんなふうに違うのもなの?」
「王家の乳母というのは、王子王女を立派な人物に育てる為の教師なのです。エメルダ様にも家庭教師はいらっしゃると思いますが、母君からも色々と教わることもおありでしょう?」
「あるわ! お母様はとても刺繍がお上手なの。それからハープも」
「素晴らしい母君をお持ちで、羨ましい限りだ」
誇らしげにするエメルダに大仰にアレンは驚いてみせ、どちらからともなく声を立てて笑いあった。
「王子、王女の場合はご両親は国王陛下と王妃陛下です。お立場上お忙しく、たとえ親子といえども近しく導くことは叶いません。そこで特別な乳母が必要になるのですよ。両陛下からの信頼の厚い、人格、品格、知識、全てにおいて秀でた女性が選ばれ、お世継ぎを育てた乳母殿は“淑女の中の淑女”と呼ばれるのです」
この国では、基本的に側妃に生まれた子供も公には正妃の子として扱われる。側妃は生母であっても我が子の養育に携わることはできない。あくまで側妃は正式な妃ではなく王を慰める花々という扱いであり、たとえ寵愛が厚くとも王の子の養育に口出しすることは固く戒められていた。
そして育った王子達の中で生母を問わず最も優秀な者が世継ぎに選ばれる。それゆえ、世継ぎを育てた乳母は大きな賞賛を受けるのだ。
このときアレンの胸の内は実は皮肉で一杯だったのだが、エメルダには知りようもなかった。
余りにも大きくなり過ぎた乳母の影響力の弊害が、従兄弟である世継ぎの王子に出始めていたのだ。ルガレス王子に兄弟はおらず、実質的に競い合い高め合う機会を失っていた。
乳母の方もそうである。
選ばれた当初はちゃんとした人物であったのだろうが、今はすっかり目を曇らせているらしい。
王宮の外まで醜聞が聞こえているわけではないが、アレンは母から聞いて色々と問題の多い乳母について知っていた。王家から降嫁したアレンの母は、王宮に日参して乳母の専横を戒め、目を光らせている有様だったのだ。今はまだルガレス王子が王太子だから良い。
だが、王女ばかり五人続いた後にようやく生まれた世継ぎだけあって王は王子に甘く、早めに王位を譲る気でいることは周知のことだった。
あれではまともな王になれないと嘆く母の愚痴を聞くにつけ、従兄弟であるアレンが苦言を呈することも度々あった。だが、甘やかされて育った王子はアレンをうるさがるだけで、一向に取り合おうとはしながった。
上手く機能している時は良いが、上手く機能しなかった時の弊害が大き過ぎる。
アレンの両親も含め、良識ある貴族達は王家の乳母の制度の見直しを議論しはじめていたが、乳母の側につく者や静観する構えの者が多く、難航しているらしい。
来年成人を迎えるアレンは既に騎士の資格は得ており、花形である近衛騎士ではなく国境を守る辺境騎士団への配属が決まっている。
それはアレンの母の勧めだった。母は女でなければ王太子に選ばれただろうと言われていた程に優秀で、その乳母であった人も“淑女の中の淑女”の称号に相応しい人物だ。アレンは、その二人に教えを受けた。
このままではこの国はゆっくりと傾いていくだろう。今は大国である我が国に手出しする周辺国は無いが、好戦的で知られる新興国も小国を一つ挟んだ向こうにある。
『もしもの時に備えて、辺境で心身ともに鍛え、力を蓄えなさい』
王位継承権を持つアレンは、王族のあるべき姿を幼い頃から母と母の乳母に叩き込まれていた。言外の言葉も含めて、アレンは母の言葉に黙って頷いた。
そのような事情など何も知らず、無邪気に憧れるエメルダの様子にあるいは、と漠然とした暗い未来に希望を見たような気がした。
この先この国が難局に陥った時、立派に成長した小さな淑女が美しく咲き誇るかもしれない、と。
アレンにとってエメルダと過ごした僅かな時間は優しいものであったが、辺境での新しい生活や間近に見る生々しい民の苦しみなどの奔流に飲まれ、すぐに記憶の底に埋れてしまう程度のものだった。
だが、エメルダにとっては色褪せぬ恋と憧れを強烈に刻み込んだ出来事だった。
エメルダの初恋は、誰にも打ち明けないまま密かに育っていった。
そして天啓如く提示された“淑女の中の淑女”への道を、幼くして歩み始める。
周囲の大人達が驚くような早さで、エメルダはありとあらゆる知識を吸収していった。その過程で自分の胸に育つものが恋であることを知り、同時に貴族の結婚というものの有り様を知り、初恋の相手とは結婚という形では結ばれないであろうことを悟っていった。
ディンドリオン公爵家は名門だがガルノー侯爵家とは繋がりが薄く、縁を繋いでも大した利益にはならない。その上、既にアランには婚約者がいた。始めから候補にすら上がりようがなかった。
エメルダの婚約は十になる前に整った。相手はガルノー侯爵領と治水権をめぐって対立することもある隣のファリサエル侯爵領の跡継ぎで、エメルダよりも十も年上だった。
だが、彼女は気にしなかった。
何故ならエメルダは恋をしていたからだ。
貴族の女性にとって恋とは夫とするものではなく、義務を果たした後に手にすることが出来る権利であった。
初恋の人がいつか“淑女の中の淑女”に成長した自分を見つけ、賞賛を贈り、愛を乞う。
それこそが、エメルダの目標になっていた。
それがいかに浅はかな夢かということには、若いエメルダは気付かなかった。
“淑女の中の淑女”としては決定的なものが欠けていることに、恋に目を曇らせた愚かな娘は気付けなかった。
数多の過去の偉大なる王や王妃、貴族の逸話に精通し、どのように誇り高くあるべきか、誇り高く生きるべきかを知ったところで、それが何の為かということまでは、エメルダは正しく辿り着けなかったのだ。
エメルダが、国の、国民の生活を思うことはなかった。
知識としては頭にあっても、真の意味で理解することはなかったのだ。
やがて成長したエメルダは、その磨き上げられた美貌と教養で社交界の話題を独占した。
既に王位を継いでいたルガレス王から、密かに側妃に上がるようにとの打診もあった。
だが、側妃になってしまっては夢は叶わない。側妃といえど王家に嫁げば何よりも貞淑さが求められる。それにエメルダは王家の乳母になることも一つの夢であったから余計に避けたいことであった。
両親も側妃に望まれるだろうことは予想しており、エメルダの希望もあってエメルダは社交界に出る前にいつでも結婚できるように準備を整えていたのだ。
貴族の結婚には国の許可がいる。エメルダの強い希望で成人と見なされる十五になると同時に結婚出来るよう、両家は既に結婚の許可を国から貰っていたのだ。打診を受けた時には式の日取りまで決まっていた為、上手く断ることができた。
こうして、社交界に出て数ヶ月もしないうちにエメルダは結婚し、ファリサエル侯爵家に嫁いだのだ。
この上は一刻も早く跡継ぎを生み、あの方と恋仲になりたい。
エメルダの心を占めるのは、そんな幼くも愚かな恋心であった。
二人の再会は、あの幼い日のお茶会から十五年後のことだった。
アレンは殆ど王都に帰ることなく辺境を渡り歩き、一貴族の子弟として平の騎士から順調に大隊長まで出世していた。辺境伯の娘との結婚を秋に控え、国王への報告と結婚の許可を賜った謝意を示すために久々に王都の土を踏んだ。
最初の婚約者とはアレンが辺境に赴いた三年後には破談となっていた為、結婚相手は二人目の婚約者である。
アレンは三十二になっており、高位貴族としては遅い結婚であった。
王位継承権を持つ準王族の立場である為、その結婚にはどうしても政治的な思惑が絡む。
婚約の許可を求めたのは大分前のことになるが、国境近くを守る要で大きな力を持つ辺境伯との結び付きは危険視される為、なかなか許可が出なかった。
しかし、小国だが比較的長い付き合いのあった隣国が新興国に滅ぼされたことを受け、危機感を抱いた中央が辺境の守りを固めるために許可を出したのである。
中央の思惑としては、中央に何かと批判的である辺境伯に寝返られては堪らないので紐付きにしたかったのであろう。国王もまた煩い従兄弟を疎んでおり、国境近くに釘付けにできるなら願ったり叶ったりであった。
そしてまた、婚姻政策により新しく隣人となった新興国から国王が側妃を迎えることが決まった。
一方で二十一となったエメルダは既に息子を一人設け、まさに恋する権利を得たばかりであった。
お久しぶりです。だいぶ間が空いてしまいましたが、あと一話頑張ります。
明日の朝8時に後編は投稿予定です。




