とある侯爵令嬢の生涯(前編)
ガルノー侯爵家に生まれたエメルダは、実に貴族の女性らしい女性であった。恵まれた容姿もさることながら、彼女の優雅、かつ気品ある立ち振る舞いは天性のものがあった。貴族であれば、ある程度の優雅さや気品は身に着けていて当たり前だ。それを当然の如く身に着けている紳士淑女の中にあって、エメルダは決して埋もれることがなかった。
そしてその結婚観もまた、貴族の女性らしかった。
エメルダには初恋の人と呼べる人物がいたが、その人と結ばれることは無いと早くから心得ていた。身分の釣り合いは問題は無いのだが、ガルノー侯爵家にとっては余り旨味のない縁組みだったからだ。
結婚とは、両家の発展の為にするものであり、結婚し、跡継ぎを産んだ後に漸く解禁されるご褒美のような位置づけにあるのが恋愛だ。エメルダの両親もそれぞれ愛人がいたが、夫婦仲が悪いわけではなかった。
それが当たり前であり、エメルダは疑問に思ったことなど一度もなかった。
結果的にそのことが彼女の初恋を最も悲惨な形で壊すことになるのだが、それを彼女の責任だと言うのは酷と言うものだろう。生まれてから慣れ親しんだ環境と価値観に浸っていながら疑問を持つことが出来るのは、極一握りの天才か奇才に過ぎない。
エメルダの初恋は、六つになった年に訪れた。
高位貴族達の子供達を集めたそこそこ規模の大きいお茶会に、初めて出席した時のことだ。社交界の前段階とでも言えるこのお茶会は場に慣れさせることが目的なのは勿論だが、既に戦いの場でもあった。ここである程度の交友関係を作れなければ、特に男児の場合は問題になる。ことによっては跡継ぎ交代となることもあるのだ。それほどまでに、貴族にとって社交というのは欠くべからざる技能なのだ。
最初は良かったのだ。今回の会場を提供したバフマン伯爵夫人が初めてのエメルダを子供達に紹介し、仲良くするようにと促してくれた。エメルダは緊張はしていたが、全員が全員知らない顔ではなかったし、用意されたお茶やお菓子をつまみながら和やかな時間が過ぎた。問題はティータイムが終わって、それぞれ庭の散策や、個人的な交遊を深める段になってからだった。本来ならこの場で一番の同性の年長者が、初参加の者やまだ慣れていない幼い者の面倒をみるのだが、必ずしも上手く機能するわけではないのだ。たとえ子供の集まりだとしても、そこには厳然とした身分というものがある。力のある公爵家の娘がそれとなくエメルダを排除すれば、回りはそれに従う。
エメルダはいつの間にかぽつんと取り残されてしまっていた。
今回のお茶会で一人も友人が出来なければ両親に失望される。そう幼いながらも分かっていたエメルダは、どうにか仲間に入れてもらおうと歓声を上げている少女達の一団に近付いた。既に出来上がっている集団の中で、そこが一番大きく、もしかしたら端っこにくらいは入れてもらえるかもしれないと思ったのだ。
「お姉様方、何のお話をなさっていますの?」
勇気を出して話しかけてみると、少女達が一斉に振り返る。
「エメルダ様には、まだちょっと早いお話ですわ」
話の中心にいた公爵家の娘が扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑った。それにつられたように周囲の少女達も忍び笑う。そこには紛れもない拒絶があり、エメルダにはそれ以上切り込んで行く度胸も話術もまだ持たなかった。
「ねえ、マリー様、さっきの続きですけれど。お兄様のどこが良いのかしら? 確かに顔は良いですけれど、剣にしか興味のない野蛮人でしてよ?」
そしてエメルダを無視して、再び少女達は笑いさざめく。マリーと呼ばれた少女は顔を赤くして何事か話したようだが、それは内緒話のように小さな声でエメルダには聞こえない。
その外周にぽつんと立って、エメルダは途方に暮れた。
周囲を見回しても、二、三人の小集団が多く、それぞれが親密そうで入っていける雰囲気では無い。
「こんな幼い人を放り出しておくなんて、我が妹は随分と意地が悪い」
「きゃぁっ!」
マリーという名の少女が真っ赤になって悲鳴を上げ、公爵家の娘が乱入者にその顔を不機嫌に歪めた。
「まぁ、お兄様! 随分なお言葉ですこと。幼い方の耳に入れるには少し憚られるお話をしていただけですわ」
「なるほど、幼い人には聞かせられないような下世話な話を」
「お兄様!」
「おぉ、怖い怖い。幼い人が見たら恐怖の余り卒倒してしまいそうだ。一緒に逃げましょう」
言うなり、その人は軽々とエメルダを抱き上げた。そして公爵令嬢の怒りの声を背に笑いながらその場を離れた。
「降ろして下さいませ! 無礼ですわ!」
「これはこれは……大変失礼致しました。小さな淑女」
突然の出来事に呆然としてされるがままだったエメルダは、途中ではっと我に返り、自分を赤子のように抱き上げたままの相手の肩を必死で叩いた。そうすると、その人はすぐに足を止めてエメルダをそっと地面に降ろしてくれた。
「……わたくしは、まだ淑女とは言えません」
恭しく頭を下げるその人に、エメルダは急に泣きたくなった。その人に助けられたのだと分かったからだ。自分で切り抜けることが出来なかったことが、とても悔しかった。
「ふむ。あなたが淑女でないとしたら、先程あなたに無礼を働いた我が妹は人間以前でしょうか」
「に、人間以前?」
じわりと滲みかけた涙は、その人の冗談めかした台詞に思わず引っ込む。
「そう。鶏とか。全く今日も朝からやれどっちのドレスが良いか、やれ髪型が気に入らないだの首飾りが合わないだの、五月蝿いことこの上なかったのですよ」
いかにもうんざりといった顔をするその人に、エメルダは思わず小さく笑った。少し落ち着くと、幼いながらも早熟な貴族の娘としての顔が戻って来る。
「でも、あなたも紳士としては失格ではなくて? 妹君を鶏だなんて、酷いわ」
「これは手厳しい」
「それに、わたくしたち名乗り合ってもいなくてよ」
「おお、なんという失態」
その人は大げさに嘆く仕草をして、幼いエメルダの前に跪いた。
「私の名はアレン・ハルライト・ディンドリオンと申します。淑女のお名前を教えて頂けませんか?」
「よろしくてよ。わたくしはエメルダ・リンド・ガルノーと申します」
エメルダはしゃんと背中を伸ばし、差し出された大きな手にそっと己の右手をのせる。手の甲に口づけを受けることは初めてではないし、単なる挨拶だ。それでも、エメルダの心は不思議とコトコトと震える。それが恋の兆しとは知らないままに、エメルダは頬を染めてはにかんだ笑顔を浮かべた。
「美しいあなたにぴったりの美しい名前ですね、エメルダ嬢。先程は我が不肖の妹が失礼を致しました」
「いいえ、わたくしが何か気に障ることをしてしまっていたのかもしれません」
「それは違いますよ。妹は嫉妬しただけです。妹は昔から自分の髪の色が気に入らなくて、金髪に憧れているのですよ。あなたの髪は、見事な金髪だから」
そう言って笑ったその人の髪は艶やかな黒髪で、その人を兄と呼んだ娘の髪も豊かで艶やかな黒髪だった。真珠の髪飾りが夜空の星のように映え、その美しさに見蕩れたことを思い出す。色素の薄い髪色の多いこの国では、とても目を惹く。
「黒髪はとても神秘的で美しいですわ。わたくしの方こそ羨ましく思います」
「ありがとう。この黒髪は南方からはるばる嫁いでこられた祖母譲りなのですよ。実は結構気に入っていて自慢なんです」
「わたくしも! お母様と同じ金髪が自慢ですわ」
見上げた年上の少年の瞳は柔らかく微笑んでいる。その珍しい茜色の瞳に見つめられて、エメルダはどぎまぎして不自然に目を逸らしてしまった。
思わず陥る沈黙に、エメルダはまた泣きたくなった。何だか今日は色々と上手くいかない。
そんなエメルダに、再びその人が助け舟を出してくれた。
「ときにエメルダ嬢。あちらに今丁度見頃の蓮の池があるのですが」
蓮をエメルダは知らなかったが、一も二もなく頷いた。
「見てみたいですわ。アレン様、エスコートして下さる?」
「喜んで」
流石に身長差で腕は組めなかったが、父よりは小さく、それでもエメルダよりは遥かに大きくて温かい手がエメルダの手を取った。
繋いだ手の温もりはエメルダの心を弾ませ、その頬を赤く染めさせた。




