外伝:致仕(中)
だが、だからといって権力者がうるさ型の臣下に対してよくあるように地方官や名ばかりの役職に任じて、政権から遠ざけるといったこともしなかった。
それだけではない。過去にこんなことがある。
ラヴィーニアに対してセルウィリアがあまりにも腹を立てる回数が多いものだから、掌侍の一人がおもねるようにラヴィーニアを閑職に左遷するよう提言したのである。
その女は出世欲が旺盛で、セルウィリアの歓心を買い、寵臣となることでゆくゆくは尚侍になり、後宮を牛耳ろうと目論んでいたのだ。
だがそれに対してセルウィリアが見せた反応は意外なものだった。
国家に対して大功あるラヴィーニアを理由なく左遷しろとは自分を暴君にさせるつもりか、また奥向きの者が政治に口出しするのはもっての外、亡国の元であるとその侍女を叱りつけ、後宮から追放したのである。
王として自身の好悪で臣下を分け隔てなどしてはならないことを知っていたし、ラヴィーニアの言葉は常に自身の利益を図るためでなく、国家の社稷が成り立つように、何より民の為になるように発せられるものであることを理解していたからだ。
何よりもセルウィリアにとってはラヴィーニアもまた、アメイジアの王位と同じく、有斗が自分に残した大切なものの一つであると見做していた。
嫌いではあるが、かけがえのない大切な者。それがセルウィリアにとってのラヴィーニアという臣下であった。
「そろそろ御婚姻をお考えください」
「嫌です」
通常の連絡業務、あるいは報告や提言の合間にいくつこの不毛な遣り取りを挟んだことだろうか。その当人たちですら正確な回数を覚えてはいまい。
だがその日のラヴィーニアはいつもに比して大人しく、例の龍鱗に触れるキーワードを言うことなく、淡々と報告を行うのみだった。神妙すぎて何か企んでやいないかとセルウィリアが思わず内心、身構えたほどだった。
全ての報告を終えたとばかりに読み上げていた書類を閉じるとラヴィーニアが突然、深々と頭を下げた。
「陛下、お願いがございます」
来ましたね、本題が、とセルウィリアは精神を戦闘準備状態に切り替える。
「・・・何ですか?」
身構えるセルウィリアに告げられた言葉は思いもよらぬ言葉だった。
「許されますならば致仕いたしたく存じます」
何でもないことのように一切の感情を込めずに平然とお辞儀するラヴィーニアの姿にことの大事さを悟れず、セルウィリアがその言葉の意味を理解するのに軽く三分は要しただろう。思考を停止して完全に固まっていたセルウィリアは幾度も脳内で言葉を反復させてようやく言葉の意味を理解すると、フナのように口をパクパクさせ、無理矢理言葉を絞り出した。
「・・・・・・なんですって?」
「ですから致仕を願い奉りたいと申しているのです」
「辞める? 黄門や中書令という重職をですか!?」
「はい」
「・・・そうですか。退官したいと申すのですね」
「御意」
定年制度などというものも、老後を安らかに過ごすと言った概念も無いこの時代、大病を患うか政権争いで敗れるなどといったことを除いて、高位高官である者が自ら望んで退官することはほぼ稀である。
何しろ官を辞すということは権力を手放すということと同義語であり、権力を手放せばどのような災難が降りかかるか分からないような時代である以上、死ぬまで権勢の座にいることこそ、己の安否に直結するのだ。当然であろう。
しかも中書は尚書と並んで役目柄、王と接触する機会が多く、側近中の側近と言ってよい花形の役職である。将来の亜相は確実で三公すら夢でない地位なのだ。望んでもなれるものではない。
そんな重職をあっさりと放り出すと言われてはセルウィリアとしては心穏やかではいられなかった。よほど我慢できない理由があるということである。むくむくと不安と不満が心中に湧き上がって来る。
「仕える主君がわたくしでは不満かしら? 確かに陛下と比べれば至らぬ点があることは自覚しておりますが、仕えるに値しないほどではないと思いますけれども」
「まさか! 先王は偉大な方ですが、陛下はそれにも増して賢王の資質を持ち備えた名君と承知しております。決して陛下のどこかに不満があって致仕いたしたいと申しているのではございません」
それはラヴィーニアの世辞では無かった。ラヴィーニアほど世辞というものから遠い世界にいる人間はいないのである。
王になるための帝王学を学び、抜群の記憶力を有し、諸事に気を配ることができ、特定の臣下を依怙贔屓しない。
サキノーフの血を引くという血統カリスマを持ち、他を圧する美貌の持ち主という誰にでも見ただけで納得させられる権威を所持している。
奇抜な発想こそないものの、臣下それぞれに才覚に応じた役割を与え、上がって来た議案に正しい判断を下すと言ったことに関しては有斗王より優れている。
王として持って生まれた能力では当時から今でもセルウィリアのほうが単純に考えれば優れているのではないかとラヴィーニアには思われた。
「それでは官位に不満があるのかしら? 陛下の片腕として天下平定の一翼を担ったのに、未だ大臣どころか亜相にすらなっていないことが不服なのかしら?」
「中書令という政権の中枢にて天下万民の為に腕を振るうことこそ我が本意でした。官位の高下に不満はありません」
ラヴィーニアが未だに亜相になれないのは別にセルウィリアが嫌がらせをしているわけでは無く、黄門としての年数を規定通り消化していないことと、官位が一階足らないことに由来する。
もちろん、あれだけの大功を立てたのである。異例の昇進を果たしても当然だと官界も民衆も理解するであろうと、有斗が在位している時、またセルウィリアが即位して後も幾度か左府や内府、あるいは亜相への昇進を打診したのであるが、ラヴィーニアは特別扱いは先例となり将来の禍根となりうりますとその全てを断ったほどである。
「でしたなら辞める必要はどこにもありませんわね。貴女の望みは天下万民の為に平和な世を作ることだったと聞いております。ここで官を離れ、陛下の下で万機を仕切ると謳われたその才を市井で腐らせるのは勿体ない。考え直してみる気はありませんか?」
「そう言っていただけるのは大変有難いのですが・・・」
ラヴィーニアはセルウィリアの遺留の言葉には謝意を示したものの、決断を変える気はさらさら無いようだった。
「あたしの才幹はもっぱら謀略と権謀に傾いております。もはや天下も平定され、あたしの才が生きる場は無くなりました。東西に分かれていた朝廷の合一、余剰の官の整理、新法の施行など新しい政権の枠組みもほぼ完成しております。あたしがいなければどうしようもない件は全て片が付きました。
何より政治は誠実と篤実を民に見せて行うもの。決して謀略の府などにしてはならないのです。あたしがいないほうが何かと都合がよろしいでしょう。吏務の才ならばゴルディアスやマザイオスなどあたしよりも優れた人物はいくらでもおります。下にはルツィアナやニゲルなど次世代の才も育ってきております。臣が一人欠けたところで朝廷は小動も致しますまい」
確かにラヴィーニアは時代に冠たる知力を持つ官吏ではあるが、科挙という狭い門を潜り抜けてきた上級官吏たちもまた才覚溢れる者たちである。
そう言われるとラヴィーニアという中書令が朝廷からいなくなることにセルウィリアが感じていた不安も若干は薄まりはした。
「官吏を止めて・・・その後は何をするおつもりなのかしら?」
ラヴィーニアには係累もいなければ親しい友人と呼べるほどの人間もいない。官吏であることだけがラヴィーノアの全てであると言っても良い。
官吏として高官に上り、辣腕を振るっていることこそが生き甲斐であるように見えた。そんな人間が官吏を捨ててどうしようというのか、セルウィリアはそこにそこはかとない不安を感じていた。
官吏を辞めたことでガクッと気落ちして、心の病から衰弱死でもされたらセルウィリアは有斗に合わせる顔が無くなろうというものだ。
だがラヴィーニアは何事にも計画的な女である。既に次にするべきことは予定していたのである。
「魔術の研究をしたいと思っております」
セルウィリアはラヴィーニアの言葉に思わず口を半開きにした。
魔術は失われた技術であると同時に、やはりなにがしかの禁忌であり、迷信の中に生きるこの世界の人々であっても、どこか胡散臭いものと考えられていた。
確かにラヴィーニアが魔術に造詣が深いことは噂には聞いていたが、それでもセルウィリアには合理をモットーとするラヴィーニアとはまさしく正反対に位置するものであるように思えたのだ。
「魔術・・・魔術について何を研究するおつもりかしら?」
「召喚の儀、についてです」
召喚の儀。このアメイジアを三度救った絶対神聖な儀式。セルウィリアやラヴィーニアにとっては有斗と自分たちとを結び付けた魔法である。
ラヴィーニアはこの術が世間一般で言われているような異世界から天与の人を召喚するものではなく、単に異世界から人間を呼び寄せるだけのものであると常々言っていたものだった。
有斗を誰よりも特別な人であると信じるセルウィリアはそれを聞いて内心反発したものだった。
有斗をこの世界に呼び込んだのだから、伝説通り、異世界から救世主を呼び寄せる秘術に違いない、と。
だがそう結論付けたはずのものをもう一度深く、初めから研究したいということは、自身の考えに何かしらの疑問を有しているからだろう。
つまり自分の認識が間違っていたのではないか。召喚の儀は伝説通り、世界が必要とする天与の人を授けてくれる魔法ではないかと。
すなわちラヴィーニアにとっても召喚の儀と有斗は特別な存在であるのだということであろう。セルウィリアは初めて目の前の小さな中書令に共感するものを覚えた。
「・・・そう。そうなのね」
セルウィリアは得心が言ったとばかりに幾度も頷いてみせる。
「わかりました。中書令の思い、このセルウィリアにも痛いほど分かります。ですが貴女の才は天賦のもの、それをこのまま埋もれさせるのは国家の損失。黄門や中書令といった激職を辞めることは許しますが、官吏を辞めることは許しません。総無事令より五年、僅か五年なのです。この朝廷はようやく土台ができたばかり。貴女のような有為の才を眠らせておく余裕は朝廷にはまだ無いのです。そこでですが史書編纂の長だとか西京の行政責任者だとか先の中書令に相応しく、それほど忙しくない職がありましょう。そういった職について国家を支えてほしい。これはわたくしからの願いです」
セルウィリアの言葉にラヴィーニアは顔を上げた。
「それならば一つお願いがございます」
「言ってごらんなさい」
「教育法について陛下は現状をどのように把握しておいでですか?」
教育法とは有斗が現在日本の義務教育にあたるものをこのアメイジアに施そうと考えて発案し───百官一同から猛反発を喰らって頓挫したいわくつきの法案である。
あまりの反対意見の多さと例年の出兵による予算不足によって、全土での一斉実施は見合わされ、極一部の限られた村落で実験的に行うことで、その有用性を探るというところを落としどころとして実施されている。
「陛下が百官の反対を押し切って通された法律でしたが・・・実験的に一部の村落で行っていると聞いております。芳しい報告は上がってきておりませんね」
農機具も未発達、農薬も無い時代の農作業というのは過酷な重労働である。大人だけでなく子供も貴重な労働力となっていた。
子供に教育を施すということは、その労働力を対価なしに取り上げるに等しい。先々、きっとためになるからと言っても自分たちが実生活で学問とやらを使わずに生きていけている以上、信じる者は皆無に等しかった。当の農民たちからの反発は大きかったのである。
また実施する官吏のほうでも先例や教科書が無いので教え方が確立しておらず、さりとて自分たちが学んできたような高度の知識を農民たちに理解させるのは難しい。
いやその前に何を教えたらいいのか分からないと現場から非難が轟轟と湧き上がっていた。
つまり教えるほうも教わる方もやる気が無いのだから、何らかの成果が上がるほうがおかしいのである。
「先王の為された教育法を軌道に乗せることこそ、臣の残された最後の御奉公であると前々から心に決めておりました。どこぞの村の教師に任じていただければ、何よりもの幸いと存じ上げ奉ります」
「しかし・・・それは朝廷で黄門まで勤め上げた人物が就く職とはとてもいえません。わたくしが人を遇することを知らないと世間で笑われましょう。社稷が傾くやもしれません」
セルウィリアはラヴィーニアの口癖である社稷を持ち出してまでも翻意を迫った。
自分の面子のためという側面も無くは無いのだが、それよりもラヴィーニアほどの人材を片田舎の校長に埋もれさせるというのは残酷な仕打ちのように思えたからである。
「そこをあえて枉げていただきたくございます。先王が手を付けられたことで唯一、未だ道筋が見えていないのが教育法です。これを形にしなければあたしをあれほどまで信頼して下さった陛下に顔向けが叶いますまい。多くの者は自身がこれまで受けてきた学問を農民にそのまま押し付けただけでしたが、それは何ら意味の無いことだと考えます。あたしには別の考えがあります」
だがラヴィーニアはむしろ中書令や黄門といった国家を支える仕事よりも、その取るに足らないと思われる農村の教師こそが己が生涯かけてやるべき仕事だと心底信じているようだった。
その瞳は真っ直ぐ前を見つめ、どこまでも深く澄んで輝いていた。
長い沈黙の後、セルウィリアは軽くため息をつくと玉座にもたれかかった。
「決意は固いのですね。・・・・・・・・・・・・退官を許します」




