外伝:致仕(上)
アリアボネ、ラヴィーニアという懐刀にして、稀代の天才が相次いで中書令という要職を占めていたということもあろうが、有斗の治世では王と朝廷とを繋ぐ手段としての侍従や尚書が機能せず、中書省だけが主なパイプとなっていた。
だがそれは戦国の世の末期を治めるための非常の手段であり、中書令に権限が集まりすぎ、正しい政治の形では無いというのは主要な朝臣の意見であっただけでなく、当のラヴィーニアもそれは十分に自覚していたから、セルウィリアの御代では中書省の役割は徐々に減らされ、有斗の御代の時のように最低でも一日二回、王と中書令とが顔を合わすと言ったことはなくなった。
それでも依然としてラヴィーニアは中書令と黄門とを兼ねる朝廷きっての実力者である。
中書令無くしては政務は滞ると他の官吏に溜息をつかせるほどの才があり、存在感の持ち主であった。
そのラヴィーニアが突然、午後の執務を行っている時に訪ねたので、何か変事が起きたのかとセルウィリアは身構えた。
「先帝が総無事令を出して五年もの年月が過ぎ去りました。早いものです」
だがラヴィーニアの口から語られた言葉はそんな意外な言葉だった。
機先を挫かれたセルウィリアだったが、頭の中で指を折って数えてみると確かにそれについては間違いはない。
とすると自身が王位について五年、と同時に有斗が元の世界に帰ってから五年経ったということでもある。
「もうそんなに春秋は過ぎ去りましたか。陛下と過ごした日々は遠い夢とあいなりましたね」
今現在、至尊の位にあるのはセルウィリアなのだから、一般的には『陛下』という言葉はセルウィリアのことを指すのであるが、セルウィリアの口から出る『陛下』という言葉は自分のことでは無く、有斗のことであるというのは公然の事実である。
セルウィリアにとって今もアメイジアを治める権利者は有斗であって、自分はその代理であるという思いが強いのだ。
ラヴィーニアの言葉を受けて目を細める、そのセルウィリアをラヴィーニアは不思議なものを見る目で見た。
有斗と過ごした懐かしい日々を思い出しているのであろうことは推察できる。
だが長い付き合いであったわけでも、特に親密な男女の中であったわけでもないんだけどな、とラヴィーニアは不思議に思った。
しかも有斗が元の世界に帰るにあたって選んだ女人はアエネアスである。セルウィリアはありていに言えば振られたのである。
それを理解できないほどセルウィリアは愚かでは無い。ならば有斗のことなど忘れてしまうのが良籌というものである。
すなわち、ラヴィーニアにはセルウィリアが有斗に抱いた憧れや敬慕といったものが今も続いていることがまったく理解できなかったのだ。
謀であるならばアメイジアで右に出る者のいないラヴィーニアではあるが、同じ人の心の中を推察することであっても男女の仲についてはまた別であるらしい。
だから次にラヴィーニアの口から放たれた一言は大変デリカシーに欠けるものだった。
「であればそろそろ陛下も伴侶を娶る頃合いではないかと愚考つかまつります」
「またそのことですか・・・・・・そのことについては既に結論は出ていたはず。中書令の諫言は無用です」
セルウィリアは大いに気分を害したとばかりにぷいと横を向いて見せた。
王制という形態を取る以上、王に後嗣がいないのは国にとって正常な状態とは言えない。
しかしこれまでにそれとなく匂わせ、あるいは直接的な言葉をぶつけて、様々な立場の臣下が入れ代わり立ち代わり婚姻を薦めたのだが、セルウィリアは頑として首を縦に振らなかった。
あまりのしつこさに辟易したセルウィリアが最後には「わたくしは陛下に操を立てております!」と切れて、政務をボイコットするだけでなく絶食するという事態に立ち至り、慌てて謝意を示して宥めすかしたという過去がある。
であるからさすがのラヴィーニアも有斗の時のようにこれ以上強く言い出すことはできなかった。
「わかりました。これ以上は申し上げません」
頭を下げて謝意を表すラヴィーニアだったが、それで素直に退室するというわけではなかった。ということは今のが今回の訪問の真の用件ではないということだ。
「話は変わりますが、王領の各地に点在する荘園地の収公におおよその目途がつきました」
ラヴィーニアが話題を変えると、セルウィリアは途端に機嫌を直したかのように温顔を向け労をねぎらった。
「そうですか。ご苦労なことでしたね」
「ですから土地の査定、権利者との折衝、荘園地の家人に田畑の割り当てを行っていたような官吏はもはや無用であると存じ上げ奉ります。また、屯田法により各地を彷徨っていた流民もほぼ土着し尽くしたと言えましょう。これもまた、調査や避難所の設置運営や流民の世話、あるいは荒地の開墾や灌漑や治水・・・もろもろのことに配された官吏は数が多うございます。有為の人材を無用の官職に縛り付けておくことは国家として大いなる損失、これらの官職を廃して人事異動を行うべきと朝臣の一致した意見でございます。
是非とも陛下に御裁可を賜りたく願い奉ります」
平和も五年続くと政治にも中だるみが生じる。それが何かと具体的に言えば官吏たちの利己心の増大である。
もともと人はほとんどすべての人間が自分に甘い存在であるし、公卿にまで出世した人物であればその権勢欲は半端なものでは無い。
さらなる権勢、さらなる豊かさを求めて他者と結びつき党派を為し、あるいは他者を蹴落とそうと陰謀を企む。
権力で法令違反を揉み消そうとする者がいないか、あるいは法令の網を掻い潜るような脱法行為が公然と行われ民に迷惑をかけていないか監視するなど、セルウィリアは彼らの手綱をしっかりと握っているほうであると言えよう。
言葉を裏返せば、他を圧するよほどの権臣が産まれない限りは朝議で全会一致するということは、うるさ型揃いの老臣が反論する余地のない正しさを持つ議論だということである。
というわけで朝議で朝臣一致の意見ともなればセルウィリアはまず反対することなど無かったのだが、その日のセルウィリアは違っていた。
「中書令、わたくしが思いますに、その件に関しては時期尚早ではないかしら? 確かに陛下の御代の頃より流民は減り、多くの民が田畑で実りを得れるようになりました。ですがまだまだ官の手を離れて独り立ちするには不十分な民が多いと聞きます。彼らの生活が成りゆくように様々なことを監督、指導する官吏がまだ必要なはずではなくって? 陛下肝煎りの屯田法ですもの、失敗してはこのセルウィリア、陛下に顔向けができません。何事も慎重にいたすべきです。廃止するのは反対です」
王制という制度は最終的なすべての決定権は王に、この場合はセルウィリアに存在する。
朝議の一致した意見であっても、そのセルウィリアがこうして明確に否定の意思を示したならば、その議決は完全に無効となるのである。
普通であれば王の意見が自分たちの意見と違うと分かった以上、気分を害して不興を買うことを恐れ、これ以上食い下がらずに引き下がるのが筋であろう。
だがラヴィーニアはこの件を国家の為に正しいと思ったから、わざわざ謁見を願ったのである。そして女王が異見を述べたからと言って、はいそうですかと簡単に引き下がるようなラヴィーニアでは無い。
「全てを一度に廃するとは臣も申してはおりません。ただ、いささか数が現状に合わぬのではないかと愚考する次第です」
神妙に頭を下げ再考を促すラヴィーニアを見て、セルウィリアも少しの時間考え込んだ。
「それではこの件は戸部尚書に任せることにいたしましょう。中書令、それでよろしいですね」
「では、陛下のお言葉に従って臣は戸部尚書とこの件につきまして、よく話し合って参ります。陛下にはそれまで熟慮のほどを願い奉ります」
中書令は女帝に向かって恭しく頭を下げた。
これが執務を取るセルウィリアの日常の風景。先帝の御代の時のように、意に添わぬことを言うラヴィーニアに有斗がぶつぶつ文句を言って、それに対してラヴィーニアがまるで教師が出来の悪い生徒に向かって講釈を垂れるかのように苦言を言い、それを聞いた有斗がその正しさは認めながらも、言い方があるんじゃないかなどとまたぶつぶつと文句を言うような風景はあり得ない。
実にスマートなものである。
だが脇に控えて二人の遣り取りを聞いている尚侍のグラウケネの笑顔はいつもに比べると少し強張っていた。
「尚侍、例のものを出しなさい」
ラヴィーニアの小さな体が扉の向こうに消えると、セルウィリアは微笑を浮かべたまま、そう言ってすっとグラウケネに向けて手を差し伸ばした。
それを見てグラウケネは小さく嘆息し、次いで掌を二度打ち付けた。すると部屋の中に控えていた女官全員が一斉に壁に向かい、セルウィリアに対して背を向けるという異様な光景が現出した。
全員が女王から視線を外したのを確認すると、グラウケネは部屋の片隅の壺の中から隠してあった綿が詰まった球体状の座布団に似た物体をセルウィリアに手渡した。
グラウケネの手からその塊をひったくると、セルウィリアは力いっぱい床に叩きつけ、猛烈な勢いで足で踏みつけ始めた。
「本当にあの女は・・・! いつも・・・いつも・・・いっつも! わたくしの気に障ることばっかり・・・!!」
セルウィリアは幾度も幾度も執拗に塊を踏み続ける。臣民には決して見せられないその姿をグラウケネは半笑いを浮かべて黙って見つめるだけである。
「ふぅ・・・やっと気が済みましたわ」
五分ほど時間が過ぎた。内心にため込んだフラストレーションを全て、その塊にぶつけ終わったのかセルウィリアは突然、いつもの優雅さを取り戻し、先程まで全力で踏みつけていたそれをゆるやかに取り上げて、尚侍の手に戻した。
グラウケネはセルウィリアに対して、曖昧な笑みを浮かべながら役目を果たしたそれを受け取る。
「・・・はぁ」
関西で女王の座についていたころとは違い、人が変わったように穏健で賢明な女王になられたと上々の評判なセルウィリアの、群臣に見せぬ真の姿がこれである。
といってもグラウケネら奥向きの一部の限られた女官たちにはすっかりその正体は知れ渡っていたが。
さてさて読者諸氏には先程の会話の何がセルウィリアをこれほどまでに怒らせたのか不明確だと考える方がいるかもしれない。それを説明しておいた方がいいかと思う。
先程のラヴィーニアの言葉を・・・いや、セルウィリアの言葉も同様に額面通りに受け取ってはいけない。裏にはきちんと別の意味があり、それがセルウィリアを大層怒らせたのだ。
先程の会話を裏の意味を解釈するとこういった会話になる。
「そうですか。ご苦労なことでしたね」
有斗治世の末期に始められた荘園の収公。それに携わって来たラヴィーニアら官吏の労をセルウィリアが労う、ここまでは同じである。裏も表も無い。
だがここからが大きく違った。
『あの頃は必要に応じて各省庁から官吏たちを集めねばならなかったほど急務の仕事も、このように多くの者が手持無沙汰になるほど片付きました。そろそろ彼らを配置換えすべきでしょう。朝臣一同、珍しく全会一致で賛同してくれましたよ? このようにいつまでも過去と同じでいるというのは何事も無駄なことです。時が移ろえば必要なこと、やらなければいけないことは変わるのです。古きを守るだけでなく今に合わせて変化し、未来を見つめなければ。それは組織だけでなく、個人の間のことであっても同じことですよ。いなくなった人間を思い続けても何も進歩はしません。王位についていらっしゃるのですから、個人の感情より優先しなければならないことがあることくらい理解できますよね? 朝臣も一致して陛下の御婚姻を望んでいるのですから、そろそろそのへそ曲がりを直し、真剣に結婚を考えてはいかがですか?』
『なんですって!? この陰険チビは・・・! いつもいつも何かと遠回りに嫌味ばっかり言って!! ほんっとに大嫌い!! 顔を見るのも嫌だわ!! でも言ってることは正論ね。王としては感情的に否定するわけにはいかないわ。ぐぬぬ・・・どうにかしてこの女に言い返せないかしら? そ、そうだわ。陛下が心を砕いて行われた屯田法で各地の流民はほぼほぼ定住したと言えども、まだ三京に流れ込む流民は社会問題となっているわ・・・! それに荘園の収公が完全に終わっていないということは、荘園地の雑役を行っている家人たちにも田畑を割り当て、生活の面倒を見てやらなくてはいけないはず・・・! それなのに予算を食うわりに己の懐が潤うことのない屯田法を無くしたいだけの腹黒い公卿たちの口車に乗るとは、世界一の陰険チビと陛下に陰口を叩かれていた中書令らしくない愚かさですこと! いつもいつも民の小さな不信から社稷は危うくなるのですと口癖のように言っているのは中書令の方ですわよね? その言葉と違うことをわたくしに薦めるつもり!? 本当におバカさん! 自分の愚かさと考え違いを思い知りなさい!!』
『はぁ・・・それがご返答ですか。あたしがそれくらい分かっていないとお思いですか? そんな全体に比べたら些細な例外を持ち出して鬼の首を取ったかのように言われましてもね(クスクス)』
『なんですって・・・! そもそも中書はわたくしの考えを平易に分かりやすく文書を書くのが仕事なのよ!! 屯田法とはかかわりが無いのじゃなくって!? 屯田法を扱う部署は戸部のはず・・・わたくしは貴方でなくって話の分かる戸部尚書と話します! 貴方とはお話しません!! 下がりなさい!!』
確かに屯田法のことに関しては中書の仕事の領分ではないが、ラヴィーニアも黄門として政務全般に預かる公卿の一人であるからには口を挟む権限はある。暴論に近い。
だがそれはセルウィリアだって分かっている。分かった上でラヴィーニアの口を閉ざすためにこの案件をラヴィーニアの手から取り上げて、戸部尚書の手に渡そうとしているのである。
戸部尚書はラヴィーニアとは違って絶対権力者であるセルウィリアの顔色を覗うところが多々見られる骨の無い男である。ようはセルウィリアには戸部尚書ならばまるめこめるだけの自信があったのだ。
『わかりました。では陛下に代わって臣が戸部尚書と話をつけてきます。あたしの思った通りにね。陛下に戸部尚書を丸め込ませてたまるものですか。それくらいの考え、このラヴィーニアに見抜けないとお思いですか? 陛下の思惑通りになんかことを進めさせはしませんよ。それでは一旦は退室いたしますが、ご報告の時にでもまた続きをお話いたしましょう。今度は遁辞はゆるしませんからね。覚悟しておいてください』
これが先程二人の間で交わされていた短い会話の本当の意味である。
とまぁ、こういった屯田法といった政治的な案件から、セルウィリアの婚姻という奥向きの案件まで激しい、そしてややもすれば感情的なやり取りが裏で行われていたのだ。
とにかく有斗のしたことを頑なに守ろうとするセルウィリアと、目の前にある問題を片づけては新しいことに取り組もうとするラヴィーニアとでは人間的にかみ合わないものがあったのである。これはもう性格的なものというしかなかった。




