外伝:時が過ぎても変わらぬもの
秋の夕暮れは早い。東京龍緑府は傾いた日の光によって赤く染め上げられていた。
窓から差し込む日差しに背中を焼かれながら、幼い少年が部屋の中を覗き込んでいた。
部屋の中では一人の麗人が座る机を前に、様々な年齢の男性が手に手に書類を持って直立不動の姿勢で立っていた。
といってもアメイジアにおいて真の年齢は外見だけでは測れない。精神の成長が止まれば外貌の変化も止まるという特殊な世界で彼らは生きているのだ。
それだけに彼らの多くが壮年以上に年老いているということは、それだけ長年にわたって精神を成長させた、すなわち己を研鑽してきたものが多いということを表している。さらには着ている服が豪華であることからも彼らが偉い立場の人間であることを窺わせた。
だがそんな彼らに対して背筋をちゃんと伸ばして椅子に座った麗人は、一向に臆することなく、ある時は疑問に対して質問を重ね、またある時は矛盾点を厳しく追求し、またまたある時は卓越した意見に対して大きく賞賛する。
そう、彼女こそがこの部屋の主、いや、この国の主なのである。彼女とはもちろん、アメイジアの第二十六代皇帝セルウィリア・サキノーフである。
少年はその様子を興味深げにじっと覗き込んでいた。
そこは王の執務室である。断じて子供がうろちょろしていい場所ではない。だが羽林の兵も女官も誰一人その子供の行為を咎めようとはしなかった。
少年はそれだけの扱いを受けてもよいだけの身分であった。少年の曽祖父はセルウィリアの祖父節王の弟であり、先年、少年の母親が死んだ今ではこの少年は王位継承権一位、すなわち将来のアメイジアの王となると見做されているのである。
もちろん、それほどの尊貴な存在といえども王の執務室を覗くなどといった行為が許されるはずもない。執務室はアメイジアに生きる全ての人々の生活がかかっている政治が行われる神聖な場所、少年の遊び場ではないのである。ならば尊貴な存在だからこそ、他の規範となるためにも許されるべきではないはずである。
それが見逃されているのは、もちろん少年がまだまだ幼いということもあるだろうが、何よりもセルウィリアがその行動を許しているからといったことが理由としては大きい。
それはセルウィリアがその少年に甘いからではなく、かつて自らが有斗の勤倹な執務態度を見て心を入れ替えたように、少年に自らの執務を見せることによって、王と言う仕事の労苦と大切さを学び取って欲しいと願ったからだ。
セルウィリアは午後の執務時間いっぱい、絶えず訪れる上奏を裁きながら、同時に日々の執務をも滞りなく進める。
戦国が終わり平和を謳歌するこの時代、緊急を要する案件はそれほど多くはない。
アメイジアの歴史上、もっとも幸せだった時代と呼ぶ歴史家もいるほどだ。
その日の執務があらかた片付き人心地付いた時になってようやく、セルウィリアは執務室の入り口に小さな少年がいることに気が付いた。
入り口の扉の枠に手をかけて、じっとセルウィリアを見つめている。
かまってほしいのであろうが、執務を取っているセルウィリアを邪魔してはいけないと我慢しているのであろう。
少年の指が扉の根元で挟まれないように扉を押さえつつ、少年付きの侍女が困ったように傍に近侍していた。
その微笑ましい光景にセルウィリアは顔に笑みを浮かべて手で差し招く。
「入っていらっしゃい」
「いいの!?」
少年はセルウィリアの言葉に顔をぱっと輝かせると、トトトトトトトと軽快な足音を立てながら走って室内に入ってきた。
少年にとってセルウィリアはこの国の女王であるだけでなく、父母をなくした少年の被保護者であり、優しく物事を教えてくれる姉のような存在であり、これまで見てきた人の中で誰よりも美しい憧れの人である。
両手を前に差し出して駆けてきた少年を受け止め膝の上に乗せると、セルウィリアは両手でしっかりと少年を抱きしめる。
それだけで少年は幸せな感情に包まれた。
「今日はしっかりとお勉強したのかしら?」
セルウィリアはくせっ毛の多い少年の頭髪を梳りながら、優しく尋ねる。
「今日は成帝二年の七月から九月の文章を暗読いたしました! あ、あとねぇ習字もしました! いつもよりいっぱい、いっぱぁ~い書いたんだよ!」
少年は親指と人差し指を使って習字で消費した紙がどれほどであったかを表現する。
セルウィリアがちらと少年付きの侍女に目線を送ると、侍女は少年の目に触れない位置で申し訳なさそうに本当の分量を同じように指で表して見せた。少年の示した分量に比べると何分の、いや何十分の一かの申し訳程度の分量である。
とはいえ集中力の持続しない子供が書いたにしては十分上出来な分量ではあった。
「そう。しっかりとお勉強をなさったのね。偉いわ。きっと将来、立派な王になることができる」
「えへへへへへへへへ」
「呑み込みが早いのですもの。このままお勉強を続ければ、あなたならきっと陛下に近づけるわ」
得意げな少年の頭を撫でながら遠い目をしてセルウィリアはポツリと呟いた。
「ねぇ女王陛下」
「・・・ん、何かしら?」
「先帝陛下ってそんなにも優れたお方だったの? 女王陛下よりも?」
そう思うのも無理はない。少年が生まれたときには既に戦国の世は遠い過去のものと成り果てていた。
現実に目の前で起きた奇跡を見た同時代人と違って、有斗王が成し遂げたことは戦国の世が終わるに当たって起きた当然の帰結のようにしか見えないのである。
「誰もが不可能だと思い、信じようとしなかったことを、ただ一人徒手空拳の身の上から実行し、いかなる妨害にも、度重なる失敗にも、襲い掛かる絶望にも屈せずに、不断の努力で人々の心を変えて成し遂げたのよ。陛下ほどのお方は何十年・・・いいえ何百年経ってもきっと現れない」
「ふぅん」
「あなたにはまだ分からないかもしれないけれども、大人になれば分かるわ。多くの人に良い影響をもたらすことがどれほど難しいことで、陛下がどれほど偉大だったのかを」
セルウィリアが目を輝かせてそう語りかけたことを、少年は後年、帝位についてそのことについて実感するたびに、よく思い出すこととなった。
夕食を共にした後、少年のまぶたが重くなり、うとうととしはじめたのを見て、セルウィリアは侍女に命じて寝室へとそっと運ばせる。
セルウィリアは即断即決するには何か引っかかるものがあり、脇へと避けて置いた上奏文を取り出してもう一度読み直す。
その問題に関わる関係者などに思いを廻らしている時に、一人の人物についてふと思い出すことがあった。
「そういえば・・・知部尚書が退任する日が近いのではなかったかしら・・・?」
セルウィリアは机の上に置かれた鈴を鳴らして、考えを纏める為に室外へと下がらせていた典侍を呼び出し命じる。
「知部尚書に清涼殿に来るように命じてくださらないかしら」
「はぁ・・・しかしもう夜遅いですし、果たして官庁に残っていますでしょうか?」
典侍はその考えに懐疑的なようであった。平和を謳歌しているということは緊急案件が少ないということだ。夜遅くまで仕事をする必要が少ないということでもある。
立場が上の人物なら尚更そうである。どちらかというと宴会などの根回しや派閥拡大など人間関係に関わる活動に時間を費やすものである。
「心配は無用ですよ。生真面目なあの人のことですから、たぶん引継ぎなどで連日遅くまで執務を続けているはず」
なおも心配顔の典侍にセルウィリアはにこりと微笑んでみせた。
セルウィリアの考えは正しかった。知部尚書は知部省にて次官や三等官相手に引継ぎの準備を進めるために、まだ八省院に残っていたところを典侍によって発見されたとのことだった。
「陛下の仰せに従い、ルツィアナ・アヴィス只今罷り越しました」
初老の、上品な物腰の女性がセルウィリアに向かって優雅に一礼する。かつては晩秋の空のような少しくすんだ青色をしていた髪色は今や冬空のように白さを増す代わりに青みを減じていた。
「少しお話したいことがあって来て貰いました。でもこんな遅くまで執務を続けるとは本当に知部尚書は勤勉ですね。頭が下がります。ご苦労様。お疲れの知部尚書に立ったまま話をさせるのも難ですね・・・典侍、椅子を用意してください」
「いえ、そんな! 陛下の御前で着席などとそんな畏れ多いこと!」
「遠慮することはありません。ささ、お座りなさい」
丁重な断りを入れるルツィアナだったが、セルウィリアに幾度も薦められることで、観念したかのように着席した。
侍女に入れさせたお茶を勧めて、ルツィアナが心身ともに落ち着いたのを見計らってからセルウィリアは話に入った。
「そうそう、お孫さんが郷試に合格されたと聞きました。まずはお祝いを述べなくてはね」
「まぁ・・・! 陛下のお耳にまで入るような話でもありませんのに・・・! とんだお耳汚しを!」
それはルツィアナにとっては大きな出来事であったが、所詮は国事とは関わりなきアヴィス家の私事である。そのような些事が多忙のセルウィリアを煩わしていたことに恐縮するばかりのルツィアナにセルウィリアは笑いかける。
「未来の三公の誕生かもしれませんもの、無関心ではいられなくってよ」
「お戯れを。まだまだ科挙に受かるほどの学力はとてもとても・・・」
「ですがまずは科挙への受験資格は得られたのです。誇ってもいいことだと思いますよ」
「ええ・・・あれの父親は結局郷試すら受からずに陰位の制をもって位階を得、なんとか地方官になることができたことを考えればとても嬉しいことではありますけれども・・・」
教育熱心な母親であったルツィアナが自らの手で扶育したにもかかわらず、子供は誰も結局郷試を受かることすらできなかった。それほど科挙、そしてその前段階の試験である郷試は難しいのである。
だからこそ孫の郷試合格はルツィアナにとっては大いなる喜びであった。
「でしたら素直に喜びなさい。国官への第一歩ではありませんか」
郷試に合格しなければ科挙を受験することすら叶わないし、例え科挙で合格しなくても、科挙合格者のような花形な役職には付けないが、郷試合格者は下位の国官ならば登用される道だって存在するのだ。
日本の公務員試験と違って、極めてか細い道ながらも下級官吏が公卿に辿り着くことも、本人の努力次第では不可能ではない。
「わたくしといたしましては地方官でもいい。とにかく国の役に立つ官吏になりさえしてくれれば何の文句もないのですが・・・」
「大丈夫です。きっと国家の為に身命を賭して働く立派な官吏になるにちがいありません。だってアヴィス家の者ですもの。貴女の姉や貴女がそうであったようにね」
そう言うとセルウィリアは玉座の右手に飾られた二枚の絵のうちの左側の絵に視線をやった。
そこには有斗が描かせたセルノアの絵が飾られている。ちなみにもう一枚の絵はセルウィリアが命じて描かせた有斗の絵だった。
セルウィリアが有斗のことを好きであったこと、そして有斗がかつてセルノアが好きであったこと、更には最後はアエネアスを選んで共に異世界へと旅立ったことを知っているルツィアナには何故、自分の姉の絵が先王の絵と並べて執務室に飾られているのか理解に苦しむところだった。
もっともセルウィリアが何を思って有斗の絵を描かせて、それをセルノアの絵の隣に並べたのかは、セルウィリアが黙して語らない以上誰にも分からないことである。
それにしても・・・少しばかり美化しすぎではなかろうか、とルツィアナはいつもその絵を見るたびに笑い出したくなる気持ちを抑えるのに苦労する。
そこに描かれている有斗王の姿はルツィアナの記憶にある姿とはだいぶ異なっており、大層な美男子として描かれていた。
戦国の世を打ち鎮めた偉大なお方で、偉ぶらない、目下のものにも細やかな心遣いをするお方であったという記憶はあったけれども、お世辞にも美男子とは言いかねる容貌であるというのがルツィアナの有斗に関する記憶だった。もちろん不敬であるし、セルウィリアの美しい思い出を壊さないためにもそれを口に出すことは決して無かったけれども。
だが同時に思うこともある。
その絵を見つめる時のセルウィリアほど透明な澄んだ瞳を浮かべる女性をルツィアナは見たことが無い。
それに国家を支えるという神経をすり減らす仕事をし、官吏を監督するという人の醜さを嫌と言うほど見る仕事をしているのに、一向にセルウィリアは年を取らない。さらには浮いた噂ひとつ無く、幾度も持ち上がった結婚話を全て断ったことといい、セルウィリアが有斗にどのような感情を抱き続けているかは明白だった。
永遠に変わらぬ愛があるというのならば、きっとセルウィリアの心にあるものこそがそうなのであろう。
それは清く美しく気高いものであるかもしれないが、同時に残酷で無慈悲なものでもある。
ルツィアナが有斗に唯一つ繰言を言いたいとするならば、それは姉を見殺しにして逃げたことではなく、セルウィリアの心を捉えたまま異世界へと旅立っていってしまったことだ。
天与の人とて神ならぬ身であるし、アメイジアを平和にするという大事を成し遂げたのだから、それを言うのは酷であるとは分かっているのだが、それでも長年セルウィリアに仕え、彼女の労苦を知っており、それだけに彼女を敬愛しているだけにルツィアナは思わずにはいられない。
何故、あなたは彼女を愛してあげなかったのですか、と。
愛せないのならば、少なくとも彼女の心を開放してから去って欲しかった。そうすればセルウィリアにも別の幸せを掴める可能性があったのに。
もっとも、どちらのほうがセルウィリアにとって幸せなのかはそう考えるルツィアナにも容易に判断が付きかねることであった。
「貴女が致仕する日が近づいてきましたね。長の勤め、ご苦労様でした」
セルウィリアがそう言って感謝の意を表したことでルツィアナは己の思考の中から現実世界に引き戻された。
「陛下のような名君に仕えることができて、このルツィアナ、実に幸せものでございました」
「ほほほ、権謀渦巻く宮廷の在り様に右往左往していた貴女も、このように考えずとも世辞が言える立派な宮廷人となりました。月日の流れは本当に速いものですね」
「お世辞ではありませぬ」
「ほほほほほ。隠さなくてもよろしくってよ。陛下の後を継いだのがわたくしのような不肖者だったのですもの。皆が本当は色々な不満があることをわたくしも存じております。貴女にも本当に苦労をかけたと思います」
「苦労などと・・・陛下のご苦労に比べたら、わたくしなど何も無いとさえ言えましょう」
ルツィアナの言葉にセルウィリアは微笑むとそっとルツィアナの手を軽く握った。
「ですがたまには顔を出してくださいね。陛下の御世にお仕えしていた者も宮廷には少なくなりました。貴女がいなくなれば、もう共に陛下のことを語れる者はいなくなってしまいます」
通り一遍の世辞ではない、心の籠った一言だった。
「デスカティ伯がいらっしゃるではありませんか」
デスカティ伯とは聞きなれぬ名であるが、何のことは無い、つまりはベルビオのことである。
「デスカティ伯は朝廷ではすることがないと自領にこもりがちで王都にすらめったに顔を見せませんもの」
国家が軌道に乗るのを待ち構えていたようにラヴィーニアは魔術の研究に専念したいと早々に官を辞し、グラウケネも二十年前に退官した。有斗を支えた十一人の高名な将軍たちは相次いで鬼籍に入り、今や存命中なのはベルビオただ一人である。
「そうでしたわね。ですが噂ではまだまだご健勝な様子で・・・いざ王都で何かがあれば直ぐに駆けつけられるように今でも槍の鍛錬を欠かさぬとか」
「この間も挨拶代わりに孫をよこしたのですが、彼の話ではこの間も村落を荒らしまわった八十貫(約三百キロ)を超える大猪をしとめたとか・・・今でもかつてと変わらぬ千人力だそうですよ。伯を継ぐより先に自分が先に死ぬのではないかと冗談めかして話しておりました」
「デスカティ伯にだけは死神も恐れて近寄ってこないのかもしれませんね」
「ですがそんなデスカティ伯の顔ももう十年は見ておりません・・・」
「陛下・・・」
「貴女が去ったら寂しくなりますわね」
そう言って笑ったセルウィリアの顔には旧友との別れを惜しむ少女のような表情が浮かんでいた。




