再会
そんな賭けは許されない、とライワールトの連中が騒ぐなか、ネレイスは約束を守った。
群衆がざわめく中、いくら顔を蒼白にして膝をついた男に名を繰り返されようと、実父にお前のせいか、と言わんばかりの呪詛すら籠りそうな目を向けられようと。沈黙の中、それしか知らないとでも言うように、俺だけを見つめていた。
適当な別れの言葉でライワールトの連中を追い払い、2日と半日、兵が連れてくる家族を待った。もとより多弁ではなかったが、口数はいつにもまして少なかった。
そうして目が覚めるような青空の下、遂に馬車が来た。
「…………ネレイス?」
目が痛くなるような、雲ひとつない晴天だった。
宮殿の正門で、いつか孤児院に向かうときに使ったそれよりは数段乗り心地がよさそうな馬車3台を、ネレイスは遠く離れた、豆粒ほどの大きさの時から瞬きもせず見つめていた。
正門に着き、扉の開いた馬車から、真っ先に出てきたのは赤毛の女だった。年のころはネレイスに近い。うっすらと頬にはそばかすが散っていて、髪色から、あれがネレイスの言っていたかつて同室で、双子のように育った友人かと思う。
「―――、レベッカ」
ネレイスの唇からこぼれた言葉は、かすれて、聞き取れないほど小さかった。
ずっとこわばっていた腕が、ちいさく震えた。間髪置かず、こちらに駆け寄った女はネレイスを抱きしめる。
「ネレイス……ネレイス!兵士さんからぜんぶ、全部聞いたわ。あなたはどうして!たしかに忘れないでって約束したわ。私たちを忘れないでって。したけれどこんな、馬鹿!」
濃いグレーの瞳は、これ以上なく潤んでいた。
掛けた言葉に反して、声音は感極まって、今にも泣きだしそうだった。ついで、ぞろぞろと子供が馬車から降りてくる。ネレイス、と声を掛ける子もいれば、何もわからずぽかんとした顔を見せる子供もいる。
「あのね、レベッカ、私は」
「あなたってずっとそうだった、なんにもかわってない、無茶ばっかり!」
「こら、レベッカ。違うでしょう?……久しぶりね、ネレイス。大きくなったわねえ」
青紫が見開かれて、シスター、とまたネレイスの喉が震えた。最後に馬車から降りたのは、数月前に馬車から見上げた、彼女の養い親だった。
なんの変哲もない、ただの女だった。ポケットの付いたありふれたワンピースに、髪を後ろ1つでまとめている。けれどネレイスにとっては、誰よりもかけがえのない筈の、人間だった。
「ほんとうに美人になったわねえ。……元気で、しあわせだった?」
言葉にできないと言わんばかりに、青紫の石の指輪を付けた手は震えていた。代わりに小さく、何度もうなずく。
「そう。ならよかった。それだけでいいの」
それだけ繰り返して、目元に皺のある女は穏やかに笑った。
馬車から降りた子供は周囲を見回したり、初めて見たのであろう城の大きさに感嘆の声を上げる。
ネレイスのドレスの裾を、ちいさな手がつまんだ。
「あなたが、ネレイスおねーちゃん?いっつもレベッカおねーちゃんが話してたよ、いちばんのおともだちだったって。おねーちゃんも、うちの子だったの?」
「……うん。昔の、話しだけれど」
6から7歳くらいの子供は、背伸びをして彼女に問いかける。
「そっか。あのね、へーしさんたちが、おひっこししてってゆってたの。おうちはあぶなくなるかもって。おねがいって。ほんとう?」
「……ごめんね。あなたたちには、なにひとつ不自由がないようにするから、どうか」
「そっか。かぞくみんなで、くらせるようになるんだね!」
ネレイスおねーちゃんもかぞくだもんね、の言葉に返事は続かなかった。
ネレイスが、泣き崩れたからだった。
平和とはこのようなものか、とふと思う。
孤児院の連中、城に連れてきたネレイスの家族は、驚くほどすぐに城になじんだ。
もとよりこの宮で俺に逆らえるものはいない。俺がカラスを白いと言っても頷く連中のことだ、孤児院の人間を厚遇しろと言えばそうなるに決まっていたが、彼らがつつがなく穏やかに日々を暮らせるよう、ネレイスは執拗に根回しを行っていた。
城に勤める者たちのうち特に礼儀正しい者、子供や身分の低い者にも穏やかに接するものを彼らの近くに配置し、逆に態度の悪いものは、本人もそうと気付かないほどさりげなく排除する。孤児院に関する噂を集め、彼らにとって不利益となるものは問題になるより早く消し去ってみせた。
言葉にすれば簡単だが、グランヌスに来てたった1年しかたっていない人間が、宮殿のみならず城下街にまで手を広げているのだ。
孤児院の人間も含めて俺以外には気づかせもせず、ただのグランヌスの王の寵姫のように振舞いながら。その周到さには感嘆を覚えるほどだった。
俺からしても悪い話ではなかった。孤児院周辺の人間を動かすならば、どうしても権力に近づく必要がある。ここ数月、たった一人の妃として舞踏会に出席や公務を行ってくれと言い続けても話を逸らし、あくまでも側妃と表舞台に立つことはやんわりと拒否していた女は、権力を求めて正妃として扱われることも受け入れ始めた。
公務でも社交の場でも、ネレイスは、臣下どもの見定める視線に見事に応えた。かつては正妃になるべき人間として育てられており、あの才覚なのだから、当然かもしれないが。
それでも聡明で穏やかな方、彼女の心優しさに触れて孤高の帝王は孤児院の開設をはじめとした事業を始めた、心優しき民を想う方に生まれ変わったのだ、と若い臣下に慕われ始めている姿には、この女がそんな可愛らしくつまらない存在であるものか、と思わず笑ってしまった。
ネレイスと共に会議に出向き、話を振られれば彼女は政治はもちろん様々な質問も返す。見定める視線は常にあるが、ネレイス・オウディアスのほかに妃に相応しい人間はいないという事実を周囲に知らしめつつある。
最初は他国の女、と反感を抱いていた連中も、俺が骨抜きになっている様子を見ているうちに、表立って否定することは出来なくなっていく。飴代わりに1つ2つ利権を与えてやれば、ネレイス様ほど素晴らしい方はいない、などと手の平を返す連中もいた。
そんな、あくびが出そうなほど、退屈で平和な午後の事だった。
「ネレイス、ここに居たのか」
空は抜けるように青かった。掛けた言葉に、青紫が向けられる。
変わらず居るだけではっとするような、美しい女だった。長い睫毛がかかる宝石めいた瞳、薄く紅を引いただけで目を引く唇。人形めいて細い手足をドレスで飾って、動いているのが不思議に思うほどの、国の王2人篭絡しきった美貌。
会議後いなくなった妃を探しに孤児院に赴けば、ここにいるはずと教えられて宮殿の隅、小川の流れるほとりに足を向けた。
一陣の風が吹く。彼女の髪が揺れる。
陽だまりの中で、ネレイスは丁度いい岩に腰を落ち着けて、ぼんやりと周囲に目を向けていた。周囲には10人ほどの子供がしゃがみこんで草の根を分けるように何かを探し、摘んでははしゃいでいる。
「クヴァル様。もう、こんな時間でしたか」
返事に頷く。このつれない妃は目を離すとすぐに、孤児院に向かうか彼らに誘われてどこかに出かけてしまう。塔の大時計に視線を向けた彼女に、子供の1人が大股で駆け寄った。両手には、真っ赤な指先ほどの大きさの果実が溢れるほど乗せられている。
「みてみて、こんなにあったよ!」
「ほんとうだ。……これと、これ。これは蛇苺ですね。他は野いちごだから、甘酸っぱくて美味しいですよ」
ひどく柔らかな声音で、ネレイスは子供の土に汚れた頬を拭った。やった!ジャムにしようかな、それともいま食べようかな?と跳ねるように去っていく子供に向けた瞳も穏やかだ。
「この城に、こんなところがあったのか」
隣に立つ。ごく小さなものだが、この宮殿の隅に川があるのは知っていた。生まれ育った場所なのに興味もなく、訪れたことはなかったが。
故に、そのほとりに野いちごの群生があることも、野花と赤を川の光が反射するこの眺めも、初めて知った。
ええ、とネレイスは頷く。
「今日は、あの子たちは屋敷で暮らすときのルールを決めていたそうです。とくに、あなたが用意してくださった図書室があまりにも立派だから、夢中になる子も多くて。人気の本を借りていい日数とか、貸し出しの手続きとか……。そうしているうちに一番人気の植物図鑑の話になって、図鑑に載っていた野いちごを見たという子がいたから、ここに」
手や頬を泥で汚しながらも目を輝かせる子供に視線を外さない彼女は、蛇苺だからと先ほど取り除いた赤い果実を手のひらで転がしながら応える。
食べられないと子供に伝えた通り、甘味と酸味のある野いちごと違って、このよく似た赤い実はほとんど味がないのだったか。
混ざらないように拳をゆるく握る、その薄手のドレスの膝の上には、一握りほどの野いちごがあった。
「渡されたのか?」
「ええ。食べるのは洗ってからと約束したら、後で食べてねと、これを。……果汁で汚れましたかね?」
「構わんさ。新しいドレスが欲しいなら、いくらでも用意しよう」
孤児院の人間を迎え入れる前から、妃は1人でいいと後宮は潰した。他の妃に割いていた予算が浮いた分、ネレイスのための予算は有り余っている。この可愛い妃はただでさえ必要な分以上はいらないと断るから、思うように貢ぐことすら出来ないが。
隣に腰を下ろし、女の薄い肩に頭を乗せる。本日の予定は終わっており、急ぎの私用もない。強いて言うなら姿の見えない妃を探すことだったが、彼女はもう俺の腕が届く中にいる。
風に、柔らかに花が揺れた。青々とした緑に散らばる白や薄紅の野花、そうして果実の赤。一度、大きく呼吸する。
ネレイスはここに居る。俺の隣に。
「眠いのですか?部屋に戻られますか」
「いや、ここでいい」
「……そうですか」
穏やかだ、と漠然と思い瞳を閉じた。これが続けばいい、とも。
遠くで子供がはしゃぎ、空は澄んで高い。
彼女が手のひらの上で赤い果実を転がすような、こんな時間が。
永遠にとは叶わないと知っていて、それでも。




