故郷
「母の顔は知りません。物心つく前から親の代わりに育ててくれたシスターと血の繋がらない兄姉が居たので、知りたいと思うこともありませんでした。目を離せず、山羊の乳が必要な赤子は、彼らにとって大きな負担になったでしょう。それでもあの人たちは、男に捨てられ、失意と体調の悪化から子を育てられなくなった母の代わりに、私を育ててくれた」
「それ、は、知っているが。貧しい院だったと」
唐突に始まった昔話に、怪訝そうな顔をされる。とびきり整った顔の抜けた表情に、笑みがこぼれた。
「本当に。国から孤児院をつくれと命じられ、運営している事実があるだけで良いと、辺境伯が使われなくなった教会にシスターを一人放り込んだだけの院でした。彼女の努力がなければ早々に潰れるか、人売りの寝ぐらになっていたでしょう。彼女は善良で、気高い人でした。食べるものが少ない時は迷わず子供に自分の分を与え、身が凍るほど寒い朝は、水が冷たいからと率先して洗い物をしていた。大きい子供はそんなあの人に、洗い物は自分たちがやるからとエプロンの裾を引いて、それでも彼女の手は、いつもあかぎれだらけでした。あんなに美しい手を、私は知らない。これからどれだけ生きたとしても、知ることはないでしょう」
「……お前、そんな顔をするのか」
どんな顔ですか、と問う代わりに目を細める。久しぶり、あるいは初めてちゃんと彼女の、あの人の話が出来る喜びがあった。
愛しい彼ら、いとしい故郷。
例えば、孤児院の隣に植えられたシザンサの木。乾かせば保存がきいてお腹の薬になるからと、実がなると小さな子供と一粒ずつ摘んだ思い出。苦いけれど葉が柔らかな季節には、それも食べられること。
或いは、夕焼け空の下の雪合戦。非日常にはしゃぐ子供達は手が悴むまで雪玉を投げて、誰も絶対に負けを認めなかったから、勝敗は一向に付かなかった。風邪を引く前に戻ってねと血の繋がらない年嵩の子供に注意されて、隙間風の吹く玄関に戻ると、冷えた頬を両手で包まれた暖かさ。
本も紙も手に入らなかった中で、誰よりも話を作るのが上手かった同じ部屋のあの子。皆で集まって一文ずつ繋げて物語を作ろうとして、とんでもない結末になってしまって笑い転げた月の明るい夜。
朝焼けの鮮やかさ、木登りして見上げた空の青さと太陽の近さ、夕暮れの琥珀色、世界を埋め尽くすような銀の星空と一筋の流星。
「貧しい院でした。辺境伯からの、領からの支援はなく、近くに住む人への手伝いへのお小遣いや働き始めた兄姉たちが、援助をしてくれました。服はお下がりを何度も繕って皆で着回したし、水以外でお腹いっぱいになる事は滅多になかった。……けれど、幸せでした」
本当に、心の底から幸福でした。
震える声で、呟いた。
彼の指が、薬指に触れる。赤の瞳は指輪ではなく、ついた青紫の石を見ていた。
「……いつも、本当にお金に困っている院でした。換えられる価値のある物は少ししかなかった。その中でシスターが唯一手放さなかったのが、青紫の石のついたロザリオでした。これよりずっと小さくてくすんだ石でしたが、ロザリオを握るあの人の向こうに、神はいた」
何を考えている、と彼は聞いた。その答えだ。
神が、祈りが人を救うというのなら。あの人が私の神だ。あの場所だけが家だった。
「なら、お前にとって、辺境伯は」
低い声。髪が、肩を滑り落ちた。
「……父に引き取られた日のことは、今も鮮明に覚えています。昨日と何も変わらない1日と、思っていました」
掴まれた髪と、伸ばせ、と低く落とされた声。それが父親である男から向けられた最初だった。
∮
連絡もなく現れた、とても大きく豪華な馬車。扉から現れた黒髪の男は何事かと集まった子供たちをぐるりと見まわして、孤児院の玄関前に立つ私に気が付くと大股でこちらに来た。ひどく冷めた、値踏みするような視線。
次いで現れた男性2人はこの娘か、とかたがいに言葉を交わして、着いて来い、の一言だけで私の腕を引く。馬車に連れ込まれる、と足に力を込めた瞬間、ネレイスに何をするのとエプロンを付けたまま弟妹の間を掻き分けて、夕食の準備の途中だったシスターが来た。
彼らはこの領の領主と、その臣下であるらしい。そうして領主は、オウディアス辺境伯は、私の父だと男は話した。10年以上前、彼は気まぐれに領の平民の女に手を出し捨てた。女は子を孕んで、産んだらこの孤児院に捨てた。それが私であると。
「認知を求めないならどうでもいいと捨て置いていたが、事情が変わった。我が家から王家の妻を出すことが決まったが、実子にも親戚にも適した年頃の娘がいない。あれは母こそ平民だがオウディアスの血を引いている。あの顔なら、教養さえ身につけさせれば王子も満足するだろう」
だから私を、オウディアス辺境伯の養女にする―――。
応接室などないこの院の、それでも一番整えられた部屋で、父であるらしい男がシスターに言い放ったのを、部屋の外で盗み聞いた。
それであの子は幸せになれるの、とシスターは聞いた。
名誉なことだ、幸福かなんて馬鹿らしい、と男は答えた。
あの子を、あの子の母親を愛していたの。名前を憶えている?と、彼女はまた聞いた。
どうでもいい、と男は答えた。
もう夕暮れだから、明日私を連れていく。逆らうなら孤児院を潰す。ほかの子供も皆路頭に迷うぞと、それだけ述べて、男は部屋を出る。扉の外の私に気が付いても、目が合っても、一言もなかった。
ぐるぐると頭が回る中、そんなものなのか、と思った。馬車が来てからずっと、現実味がない。自分はこの孤児院の子供だと思っていたけれど、そうではなかったらしい。明日も家族と食事をするのだと思ったけれど、それも違ったらしい。
明日はシチューだったのに。来月にはリラシアの花が咲くから花冠を作ると妹の1人に約束したのに、こんなに急に。けれど仕方がない。逆らえば孤児院を潰すと父は言った。私一人の我が儘の為に、弟や妹が家を失うなんて、絶対に許せない。
開け放たれた扉の向こう、机にうつむくシスターの背に視線をやる。
笑わなければ、と唇をかんだ。笑って、大丈夫というのだ。王子の妻、というのがどういうものなのかは分からない。貴族なんて遠い話で、難しいことの為に娘が必要になっただけで、父らしいあの男は、私に興味も関心もないのだろう。
それでもうまく交渉できたなら、今まで育てたお礼として、お金でも物でも、孤児院を支援してもらえるかもしれない。寂しいけれど、私が居なくなる代わりにほかの子たちのパンが増えるなら、院にとっても悪くない話になるはずだ。
だから大丈夫と、シスターに声を掛けようとして。
「ふざけないで………………」
尽きかけた蝋燭の、炎が揺れた。
バン、と一度だけ、ささくれだらけの拳が机をたたいた。
「こんな形で手放すために、不幸にするために、育てたんじゃない……!」
シスターは、彼女は憤っていた。何十人もいる子供のひとりが、望まない家に引き取られそうだなんて、そんなことの為に憤って、泣いていた。
扉の後ろの私に、彼女は気が付いていなかった。なのに泣けるのか、と驚いた。今まで何十人も育てて、引き取られたり院を出て。そんな大勢のうちの一人の為に、こんな悔しそうに、肩を震わせることが出来るのか。
私が特別というわけではない。この優しい人は、誰が辺境伯に引き取られたとしても、その未来に不安を感じれば、たった一人で拳を握るのだろう。
愛されていた。愛されている。
辺境伯に押し付けられたこの土地で、ただ子供を愛したから。それだけで彼女は、何十年も。
全身が震えた。私がこの国有数の貴族である辺境伯の娘であるとか、王子の妻になるとか、そんなことよりもずっと。この事実は、重くて、恐ろしくて、大切な事だと思った。
へたり込みそうになる足を気付かれたくないから、必死に地に縫い付ける。
この人は、なんて、美しいのだろう。
笑みが溢れた。すべきことが分かった。この美しい人に、この人と私が愛する家族に。
私が出来るすべて、あなたがそうするように捧げよう。
少ない私物を、同じ部屋の子や弟妹に分けた。持っていきたいものは多いけれど、あの辺境伯は貧しい孤児院に在るものを館に置くことを許さないだろう。それなら服も少ない髪留めも、この子達のために役立ててほしい。
忘れないでね、と友達に抱きしめられた。物語を作るのが上手な、同い年の、ずっとおなじ部屋で過ごした親友だった。遠くに行っても私たちの事を忘れないでねと寂しそうに涙ぐむ声に頷き、抱擁を返して、忘れないよと返して瞼を閉じる。
双子のように育った彼女の笑顔も、はつらつとした声も、よくおさげを編んだ赤毛も。陽にあたったその色の柔らかさも。
この子が、兄妹たちが私を忘れても。この愛おしさと寂しさは、私の1番奥深くにある。
二度と此処に戻れなくともいい。あの人のためなら、私の家族が幸いであり続けてくれるなら。それを、それだけを、幸福と呼べる。そのためなら、何でもできる。
孤児院の支援を辺境伯に望んだ。お前が不出来であればすぐに支援は打ち切り院をつぶしてやると言われ、精一杯努めます、と返す。
この男の、周囲の望む以上で応えよう。精々私も妃になることを望んでいると、それに相応しいと考えればいい。
おなじ黒髪の男に笑いかける。腹のうちで唸る獣を飼いならすように。
もし、お前があの人に、私の家族に手を出すなら。
どんな方法を用いてでも、絶対に殺してやる。
∮
目を開ける。変な顔をした男が、理解できないものを見る眼で、私を見ている。
「それからは、あなたもご存じでしょう。私はライヒムの婚約者になり、けれど婚約は破棄され側妃になりました。王太子がそれを望んだだけではなく、平民の血を引いていることに一部の貴族が反発を示したためです。王家都合の婚約破棄の対価として辺境伯は少なくない利権を得て、家から正妃が出ない事の溜飲を下げました」
「お前は、ライワールトを……」
つうと、笑みを浮かべる。
「憎んだことは一度も。愛したこともありませんが」
従順な女だったと、自分でも思う。仕えるように王太子に接した。彼の承認欲求を満たすために貧しいものに職を与える政策を作り、その策で孤児院の彼らの食い扶持が増えればいいと願うような、迂遠なことしかしなかった。
グランヌスに来たあとだって、戦争を推し進めようとした財務大臣を、娘の不貞を明らかにすることで潰すくらいしかしなかった。もしも目の前にいる彼が戦争を望む性格であれば首の挿げ替えかたを考えただろうけれど、目の前の男は戦争以前に、この世の何もかもに飽きたような瞳をしていたから。
言葉を切った後も、彼は少しも動かなかった。
「……あなたには本当のことをお伝えしたかったのです、帝王。私は、貴方の敵にはなりません。国も、権力も、名誉も心底どうでも良い。あの人たちが幸いであれば、それだけでいい。それだけをお約束してくださるなら、なんでもしましょう」
「……かつての夫を、殺せと言ったら?」
「私がしたと、知られない方法でよければ。内乱を起こさせるも……ああ、けれど早いのは」
「情はないのか」
食い気味な言葉。どうでもいいと言ったばかりなのに。
「…………ライワールトを、憎んでいると思っていた。だからこの国の妃になり、俺を慕う真似事をしているのだと。お前には、それすらないのか」
「憎む?どうして。彼らは孤児院の人間ではないのに。婚約を破棄された時も……確か、安心しました。孤児院を出る時に、シスターに私は王妃になんてなれっこない、きっとどこかで捨てられる、だから心配しないでと言ったんです。だから、あの人に嘘を吐かずに済んで、安心しました」
男の、熱い首に手を回す。
「これが、私のすべてです。あなたの望む言葉を話し、思う通りに振舞いましょう。あなたが言葉一つで殺せる数十人、それっぽっちの命を生かして頂くだけで、私をどのようにしていただいても構いません」
使えるでしょう。この身体も、頭も。
どうか私を、あなたの物に。
沈黙の後、帝王は、口を開いた。
「家族に、会いに行かないか?」
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彼の言葉ひとつで、呆気にとられるほどすぐに全ての用意がなされた。一国の王が付いていく、と馬車に乗り込んできたのは意外だったけれど、文句を言うはずもない。
十年ちかく焦がれ、けれど死ぬまで会えないと覚悟した場所は、たったの二日と半分で着いた。
道中の座席の硬さや揺れの大きさ。そんなものはどうでもよかった。お忍びという体でも泊まった宿では、乞われて孤児院での昔話をぽつぽつとした気がする。
呆れるほどのどかな快晴だった。
粗末な馬車の中から、あの人を見た。
小さな丘の上で、シスターは洗濯物を取り込んでいた。そばでは子供が布をかぶって遊んでいて、少し背の高い子がそれを笑いながら咎めていた。干したてのシーツを捲って赤髪の女性がーーーかつて同室だった親友が、彼らに何か、声をかけた。そのまま連れ立って、みんなで懐かしい家へと戻っていく。
遠目で、その顔に皺が増えたのか、年月に容姿を変えたのかは定かではない。それでも笑っていると、それだけは分かった。
「会うか?」
「……いいえ。国境ですから、ライワールトの兵に見られるわけにはいきません」
一眼みられれば、十分だった。孤児院のリストのなかに、ここの名前があるだけで十分だった。
塩辛くて、頬を伝う何かを、やっと涙だと気がついた。
ぬぐいもしないまま、クヴァルに瞳を向ける。
「ありがとうございます。私はこの光景を、かれらを、生涯忘れないでしょう。だから、もう、充分です」




