指輪と天秤
クヴァルと言葉を交わす。グランヌスについても、他国についても。
新しく輸入を考えている新興国の絹織物、雨の少ない地域で育つ作物。先王への忠誠から翻意を示す家臣まで。
あの夜から―――私がベツェリ妃を追い落とし、クヴァルに企てを問われたあの日からも、彼は私の元を訪れた。ベツェリの処分が決まり、後宮からいなくなる、最後の夜すらも。
彼女は最初、首を落とされるはずだった。姦通は首を落とすべき罪であると、先王の時代から決まっている。しかし、ベツェリの父でもある財務大臣は爵位と領を国に返上し、平民となることで娘の助命を嘆願し、受け入れられた。
「随分と自尊心の高い男だったから、あれが床に頭を擦り付ける姿は初めて見たな。……イヴェルカ家で足りないなら、私自身の命を差し出しましょう、どのような目に遭っても構いません、だそうだ」
「そうですか」
あの女の処遇について淡々と語る男は、つまらなさそうな口調で私に視線を向ける。声音と裏腹に、赤い目は鋭かった。腹の底の感情を探ろうとでもいうように。
「愚かしい。家を失う代わりに生き残ったところで、贅沢に慣れ切った女がすべて失って生きていけるものか。だが…………家族にだけは恵まれているな、あの女は」
ぽつり、と。最後の言葉だけは、どこかひそめられて、小さかった。
赤い瞳に一瞬、影が差した気がした。
淡々と夜は繰り返された。隣国なこともあって、気候も言語も宗教も同じ国だ。宿敵とも腐れ縁とも言えるグランヌスについては、ライワールトに居たことから他のどの国よりも知っていた。公務や国の仕事をしていた頃は、参考にしたところも多い。ライワールトで国王の公務の大半を受け持っていた、その知識は大いに役に立った。意外にも彼の口から直接ライワールトについて、例えば軍備や辺境伯の武力など、戦争の為の話がのぼることはなかった。可愛い妃の1人に血なまぐさい話は出来ないだろう?と言われて、言葉の軽さを内心嘲りながらも、なんと優しい、と頬を染めてみせる。
ベツェリ妃の一件以外大きな事件も起こしていないのに、帝王が私の元を訪れる回数は、週に1度、週に2度と増えていった。
叩けばこざかしい返事をする玩具、くらいに気に入られているのかと思っていたけれど、単に話し相手でも欲しかったのだろうか。クヴァル・レヴェスターは帝位を手に入れる際、父である先代王を斃している。臣下を統制するためだけに側妃を取り続けている男にとって、毛色の違うペットくらいには思われているのかもしれない。
どうしてお前が、と他の側妃や一部の役人からは敵意のこもった眼を向けられたが、一向にかまわなかった。
いままでは入ることが許されない資料庫の、閲覧の許可も出た。未だ信用されていないことも、試されている最中であることも良く理解している。けれど少しずつでも、自由にできることが増えたのは喜ばしかった。 知識はどんなものでも欲しい。
「ライワールトから文が届いた。奪われた妃を返せ、とな。対価として用意されたものの目録を見るか?なかなかに豪華だぞ」
気が付けばこの国に来て、半年ほどが経っていた。彼とは机に向かい合い、茶器を挟んで言葉を交わすこともあれば、早々にベッドに向かうこともあった。今日も帝王は閨を訪れ、けれど用意した茶に口を付けるより早く懐から紙を取り出す。渡された書状はかつていた国の王直筆のもので、彼の言う通り、大量の宝石や交易品の一部の関税を融通する代わりに私の身柄を戻せ、というものだった。
丁度一番下まで目を通したあたりで良かったな、と彼は片手を揺らす。
「嫌われているのかと思っていたが、この紙一枚程度には必要とされているらしい。戻ってもいいぞ?そうして散々な目に遭ったと国王に泣いて縋れば、ライワールトでもかつてより恵まれた暮らしが出来るかもしれない」
「1度裏切っておきながら、次などないでしょう。国王が是と言っても、周囲が許しません。何よりいま、私はあなたの妃です」
軽い口調に、返事は決まっていた。
さっぱりと落ち着いた、お互い雑談を交わすような、簡単なやり取り。ならこれは必要ないな、と呟いて彼は手元に戻った紙を破る。テーブルの下、床にこぼれた紙片が革靴に踏みにじられた。
話はそれで終わりらしい。悠々と彼は茶に口を付ける。私が淹れたものに口を付けるようになったのは、いつからだっただろうか。
向けられる視線、話すときの口調の変化。張られた壁が薄くなるように、少しずつ距離が近づいている実感があった。私に気を許すなんて、支配したがっている敵国の女なのに正気か、とは思うけれど、この部屋を訪れる回数が増えることも含めて事実なのだから仕方がない。
おそらく、この男には腹心と呼べるものが居ないのだ。それに気がついたのは、いつだっただろうか?
帝国にも宰相はいる。王に意見や陳情を出すものも。けれど彼個人を諫める者はいない。父王を斃したことが関係しているのだろうか。ライワールトでは王子に乳兄弟がいたが、彼はそれを、自らの手で殺したらしい。
「裏切ったからな」
夜明け近くに寝物語らしいものをした時、彼が漏らしたのは、それだけだった。
ライワールトでライヒムの婚約者だったころ、王は孤独なのですと散々教えられた。だからこそ良く仕え、すべてを捧げなさいと何千回も繰り返された。こんな敵国の人間を拠り所とするほど、彼が孤独であるならば。
「……この国に迎えていただいて、あなたには本当に感謝しています。どうかこのまま、お傍にいさせてください」
とくべつ、柔らかい声を選んだ。
信用されるのはいいことだ。彼の言葉一つで戦争がはじまり、多くの人間が死ぬのだから。
誰よりも近くにいたい。そうならなければいいと願っているけれども、必要があれば、彼を手にかけられるくらいに。
その日クヴァルが持ち込んだのは、いつかの賭け事をした夜と同じ、チェスの盤と駒だった。
この間与えられたばかりの、最高級品の茶器を退かして相対する。手加減はするなと最初に言われていたから、思うがままに駒を動かした。黒い駒が盤で躍るたび、自分の薬指の付け根がしろく光る。約束は約束だからと、後宮に入った日に見せられたなかで選んだ、青紫の石の付いた銀のそれ。高価な石ではないけれど迷わず選んだ指輪を、着けないのかと催促されたのはいつの事だったか。
盤面は終盤、指し手もよどみない手つきも、彼がこの遊戯にかなり慣れているのだと分かる。同じペースで次を選びながら、脳内の駒を巡らせる。
「あの国王より、余程駒の動かし方も理解している。……彼奴と指したことはあるか?圧勝だっただろう」
「1度も。分けですら認め難いと、そう思われる方でしたから」
「愚かな奴だ。ものの価値も理解しない。……あんな無能が王であるなど、許しがたいと思わないのか?」
指が空を切った。帝王はやけに静かな、赤い瞳をしていた。
「……さあ?それを私が考えるなど、恐れ多いことですから」
明確に戦争を思わせる言葉はない。けれどライワールトを憎く思わないのかと彼が問うのは、何度目だろうか。息を吐く。
「ライヒムは―――あの国王は自ら民を殺しはしないが、救いも、生かしもしないだろう。甘言に弱く、敵味方の区別もできない。他国からの間者も見つけられず、臣下の翻意すら気付かない。心当たりがあるのではないか?」
「…………ライワールトの騎士団の三番隊副隊長に、クロウク祭儀長は金を握らされていましたね。ゲレンツ侯爵家当主も、グランヌスに情報を流していた。違いますか?」
かつてを思い返しながら、駒をまた動かす。目の前の男が即位してからグランヌス側の手口は巧妙になったけれど、2つの国はずっと、互いの国に間者を潜り込ませ、内通者を増やそうとしていた。
側妃として与えられた執務のなかの、処理しておけと言われた書類や舞踏会での様子。領の収入以上の羽振りの良さ、関わる人間、国に提出された申請書の内容。辺境伯は気が付いていなかったけれど、オウディアスにだって間者はいた。
彼らは情報を得て目の前の男の元に届け、彼の思考によってその情報は数十倍の価値になる。
ライワールトだってグランヌスの中枢に潜り込んで重要な情報を得て来い、と密偵を送り込んでいたけれど、彼が玉座にいたのだから、その末路は簡単に予想できた。
「正解。なんだ、気付いていて何もしなかったのか?」
「たかが側妃が騒ぐことでもないでしょう」
グランヌスの内通者を牢に入れて得られる利益はなく、対応する必要もなかった。ライワールトも惜しいことをしたな、と男は笑う。
「……帝王、あなたはライワールトを欲してはいないでしょう。それなのにどうして、あの国の支配を望むのですか?」
ビジョップを取りながら、言葉にした。
最高位の妃に裏切られようが怒りもせず、私の対価としてライワールトに提示された目録をつまらなさそうに破り捨て、笑いながら臣下の翻意を語る。そんな彼をずっと、疑問に思っていた。
彼が残虐であるならばまた違った。血に狂って戦に愉しみを見出すような人間なら、より多くを支配したいと望む傲慢な人間なら、こんなことは聞かなかった。
気まぐれに、言葉一つで何万人も殺せる男。妃も家臣も見下し、誰にも情を向けない男。蔑む言葉とは裏腹に、彼が他人について話すとき表情に浮かべるのは退屈ばかりだった。財にも他国の支配にだって、彼が意欲を見せたことは1度もなかった。
「……それが帝国の王だからだ。グランヌスは支配し、侵略する国。それを否定するような腑抜けは寝首を掻かれる。お前には、分からないだろうがな」
もう終わりだ、と呟きながら彼は自身のキングを倒して、私の腕を引く。柔らかなリネンに座らせて、勝手に膝に頭を置きながらゆっくり瞳を閉じる。
随分と無防備な、と黒赤の髪を撫でた。そうしようとはまだ思わないけれど、彼を殺そうとするなら、容易く手にかけることができるだろう。気を抜いている振りかもしれないけれど。
部屋を見回す。最初から必要な品は揃えられていたけれど、いつの間にか調度品が増えている。侍女も1人から5人に増え、柔らかな物腰の、礼儀正しい者ばかりになった。
帝王は敵国から連れ帰った女を気に入っている、というのはもう、後宮の常識になっていた。気に入らないと憤る者や私にすり寄る者、反応は多くあるけれどどうでもいい。
頭を撫でていた手が、ふいに重ねられて、握り込まれる。
「………新しい指輪を贈ろうか。お前が望むなら、どんなものでも」
「いいえ。私はこれが良いのです」
「つまらんな。ドレスでも宝石でも、なんでも良いというのに」
もう十分頂いていますからと青紫の石に触れる。約束のために並べられた指輪の中から、迷わず選んだそれ。瞳の色と同じものか、という言葉には頷いたけれど本当は違った。これより小さくくすんだ石を、それ1つを施したロザリオを握ったあの人の掌を、今もありありと思い出せる。
「かつて与えられた指輪と、どちらが好きだ?」
一度、瞬いた。
「俺ばかり話すのは不公平だろう。お前も話せ。……この指輪と、ライワールトで国王に与えられた指輪、天秤にかけるならどちらを選ぶ?」
お前は賢い。後宮の誰よりも。けれど演技は下手だなと、男の喉が低く鳴った。そうして、お互い猫をかぶるのもそろそろ飽きただろう、と笑う。
「ネレイス、散々慕っているとのたまっても、お前は俺を愛したことなどないだろう。俺の寵を得られて嬉しいというなら、少しは贈り物に喜ぶそぶりを見せるべきだ。けれど母国を恨んでも、見返したいわけでも、よりいい暮らしをしたいわけでもない。なら、
―――お前は、どうしてライワールトを裏切った?」
誤魔化すのは簡単だった。納得させられる自信は、全くないけれど。
潮時だな、と瞳を伏せる。年に一度しかない機会を使って連れ帰った、国を裏切った異国の女。この国を訪れて早々に高位の妃を蹴落として、けれどその後は大人しくしている女。探りを入れられていると感じることは、なんどもあった。1度だって、彼に嘘を吐いたことはないのだけれど。
ずっと彼の瞳に浮かんでいるのは、気に入った妃への愛情などではなく、未知への好奇心だった。
全く、いやになるほど、私に似た男だ。
彼の退屈を、私はよく知っている。優れているという毒を、他者と同じ視点を持てない孤独を。けれど、どうあっても同じにはなれない。
交渉に必要なのは、相手が何を望むのか知ることだ。探り合って腹の底を知りたがって、されど立場は最高権力者たる帝王と両手足の指を超える数いる側妃の1人で、つり合うものではない。
喉が鳴る。柄にもなく緊張していて―――けれど、期待もあった。
「………ご存じでしょうが、私はライワールトの辺境伯当主と、平民の間に生まれました。私を育てた孤児院は、オウディアス領の端、この国とライワールトの境の、山脈にあります」




