レリエーラ・レスティカ
帝王への供物であるわたくしには、許されない恋でした。
それでも、あの人と結ばれたかったのです。
この国の、グランヌスの王の妃となること。それがわたくしが、父と母につくられた理由でした。
先の帝王陛下はとても色を好む方で、レスティカ公爵家の娘であるわたくしもまた、17歳になったら輿入れすること、対価として後宮のなかでの地位の保証と、実家の厚遇が約束されました。
正妃となれ、寵愛を得ろ。そのような言葉を、名を呼ばれるように言い聞かせられながら育ちました。当然のことです。わたくしはこの家のもの、父の財産で、国王陛下の所有物になる大切な道具なのですから。
レリエーラ、愛されなさい。レリエーラ、家の役に立ちなさい。否というつもりはありませんでした。
けれど、けれど―――レリエーラ様、ケシュカの花が咲きました。そんな言葉を、その穏やかな声を、毎日思い返すのです。
わたくしは、王の妻となる前、ある人に恋をしていました。
彼は、我が家の分家の一人息子で、名をワーシュと言いました。一つ年上で、家の都合でよく我が家を訪れていました。
親戚であり、兄のような存在であり、唯一距離の近さを許された異性でした。彼は誕生日に花束と、ブローチをくれました。茶会などを除いて屋敷から出ることが許されず、わたくしが見たことのない我が家の領地について、流行りの店や美しい景色などを沢山教えてくれました。幼い頃から見知った仲でしたから、彼にとってはただ、歳の近い妹のような存在への優しさで、兄妹のようなものと思われていました。
けれど、私に関わる人の中で、私が緑色を好きだと覚えていてくれるのは、彼だけだったのです。
年を重ねるのと、彼への恋に気が付くのは、全く同じことでした。
家格の近い令嬢たちと関わる際に、話についていくために、と与えられた流行りの恋愛小説の、胸が跳ねる、という一文。
それがあるのは、彼と過ごした時でした。年の離れた国王陛下に思いをはせるときではなく、彼のすこしくすんだ茶色の髪を思い返すとき、灰色の瞳に見つめられる時でした。
誰にも言えない感情でした。言えるはずがありません。家の者に気付かれれば2度と顔を合わせるどころか、何も知らない彼は父によってひどい目にあわされるか、最悪殺されるかもしれません。
レスティカ公爵家の娘として振舞わないといけない、誰もいないからと彼の名前を呟かないようにしないと、彼と顔を合わせた時に目が潤みは、頬が染まってしまわないかしら。
許されない気持ちを抱え続けることは、とても苦しいものでした。
けれど手ひとつ繋げられないこの恋が、どれほどこの心を救ったでしょう。
正直にいうならば、帝王陛下が崩御された、と聞いた時、ほんの少しだけ期待しました。
この国の人間として、決して許されないことです。けれどもしかしたらこれで側室入りの話がなくなるかもしれない、そうすれば彼と結ばれることが、と期待してしまったのです。
当然そうなることはなく、第9王子であるクヴァル・レヴェスター様が王位を継ぎ、わたくしは顔を見たこともないその方の、側室の1人になることが決まりました。
表向きには先の国王陛下は病に倒れたことになっていましたが、息子であるクヴァル様が陛下を殺したのだ、ということは、ある程度の地位にいる人間であれば、当然知る事でした。
お前のすることは変わらない、と父は言いました。先の帝王陛下のための後宮は畳まれて、妃たちはみな家に帰された。けれど彼のための後宮がつくられるから、そこで正妃となるのだ、と言いました。
あなたは幸運な娘よ、と母は言いました。容姿に優れ年も近いクヴァル様を夫とできるのだから嬉しいでしょう、と。
だからかならず寵愛を得て、クヴァル様の子を産み、正妃となりなさい。そうしてレスティカ公爵家の繁栄の礎となるのです。そう繰り返し言われました。
幸福なはずがない、と言ってくれたのは、彼だけでした。
後宮入りが近づいたある日、彼は事業のため我が家を訪れました。後宮に入れば、親族と言えど気軽に会うことは出来なくなります。きっと今日で最後と、もう会えなくなると、お互い分かっていました。
父が席を外して、いくつか歯切れの悪い雑談を交わして。クヴァル様の妃となれるわたくしは幸福です、と思ってもいないことを話した時。幸福ではない、と彼は言いました。
「クヴァル陛下は兄弟を多く殺し帝位を得たと聞いています。彼が噂通り残虐な男で、もしあなたが傷つけられたら。そんなのは、そんなものは」
幸福なはずがない、と血を吐くような声で、彼は呟きました。
苦し気に顔は歪み、指先が白くなるほどつよく、拳を握って。そんなこと、言葉にしていい筈がないのに。
彼のその声が、その表情が。わたくしは、ほんとうに嬉しかった。
「……ええ。わたくしは不幸です。あなたの、妻になれないのですから」
涙がこぼれました。
彼以外に嫁ぐ悲しさ、最愛の人と結ばれることのできないこの身の不幸を嘆く気持ち。それよりずっと強い、この人を好きでよかったという喜び。
俯いていたワーシュ様はこちらを見て驚いた顔をして、けれどその頬は、すこしだけ赤く染まっていました。その瞳。
それで、それだけで、わたくしとこの人は両思いであったと、知ったのです。
感極まって泣くばかりで、それ以上の言葉は、とても交わせませんでした。彼が父に呼び出されて名残惜しげに退室してから、侍女にそっと濡れたハンカチを差し出されました。目元が腫れないようにこれをお使いくださいと呟いて、お嬢様、私はこのことを決して誰にも話しません、と幼いころより仕えてくれた彼女はわたくしの手を握ってくれました。
彼女の忠誠に、心から感謝しました。彼の指先の温度を知らずとも、ワーシュ様とわたくしは両思いだった。その事実ひとつで、わたくしはいつまでも生きていける。そう思いました。
ですから、この恋心を抱えたまま、わたくしは王城の門を潜ったのです。
クヴァル・レヴェスター帝王陛下は、恐ろしいほどに美しい方でした。
彼は帝位を手に入れてから、不安定な足場を確かなものにするためにも、多くの妃を娶っていました。
初めて顔を合わせたとき、その美貌に畏れさえ覚えました。こんなに美しい方がいるのか、と指先がふるえ、けれどそれよりずっと、クヴァル様の瞳の冷たさに背筋が凍りました。
人を人とも思わぬような、と形容すればいいのでしょうか。確かに視界に入っているのに認識していないかのように、路傍の石を見るような目を、彼は玉座からわたくしに向けたのです。
恐ろしい方だと一目で分かりました。この方の瞳や髪の赤色は血の赤で、多くの死体を踏みしめて立っている、そんな光景が脳裏に浮かぶほど。
わたくしは、夫である筈の方を恐れました。
寵愛を得なさい。子を産みなさい。そうして正妃に。―――そんなもの、とても不可能だと悟ってしまいました。父に、母に、ワーシュ様以外の家の人間全員に繰り返され、その為に生まれ、ここにいるはずなのに。
彼はわたくしを、レスティカ公爵家への人質として以外、なんとも思っていないのだ、と分かってしまいました。
どうやって自室に戻ったのかは、覚えていません。けれどそんな心持ちでしたから、初夜となるべき夜が失敗してしまったことも、当然だったのでしょう。
ワーシュ様ではない方に、愛した人以外に触れられること。その覚悟を決めていた筈でした。そのために生まれたのだから、耐えなければいけないと。けれどクヴァル様が部屋を訪れ、お互い立ったまま夜着越しの肩に触れられるだけで体は震え、視界は白くくらみました。
おそろしい、助けてほしい、触れられるのは触れるなら、ワーシュ様が良かった。そう思えば思うほど、涙がこぼれそうになります。そんな不敬が許されるわけもないのに。
「嫌か」
わたくしの物になった部屋で、肩から手を外して淡々と彼は聞きました。欲どころか怒りもない、あの恐ろしい、何の感情も浮かんでいない瞳で。
「も……申し訳ありません!!!!」
「別にいい。嫌がる相手を抱く趣味もない」
そうこたえて、ほんの少しも興味がなさそうに、クヴァル様はわたくしの部屋を出ていきました。
どうして知られてしまったのかは分かりませんが、人の口には戸が立てられないものです。帝王陛下がすぐに部屋から出られてしまったこと、わたくしが初夜で妃としての勤めを果たせなかった事は、瞬く間に後宮に知れ渡りました。
公爵家の出であるにもかかわらず、陛下から見向きもされなかった女。さげすむ視線とともに、その言葉は向けられました。とくに財務大臣の娘であるベツェリ様は、わたくしが寵愛を得られなかったことを喜んでいるようでした。彼女は見目麗しいクヴァル様を心から愛し、お互いが側妃となる前からわたくしを嫌っていましたから。
次があれば決して無礼を働いてはいけない。そう考えていましたが、クヴァル様はもう、わたくしの部屋を訪れることはありませんでした。わたくしに怒りを覚えているというよりは、興味を失ったのでしょう。あの夜の瞳には、憤りすらありませんでしたから。
この事実が家に知られるのは時間の問題で、後宮に入って2月もしないうちに、父と母からはお叱りの手紙を受け取りました。一族の恥さらし、満足に勤めも果たせない。それらの言葉には足元が崩れるような恐怖を覚えましたが、同時に不可思議な快感があったことを覚えています。
期待を裏切り、父と母の理想の娘ではなくなった。それは長く続いた呪縛から解き放たれたということでもありました。後宮での嘲笑や屈辱につり合い、余りあるものですらありました。
多くの女性がいて、けれど本当の意味で満たされた女性はいない。そんな宮で、このままひとり生きていくのか。諦観を抱いていたころ、家から包みが届きました。父と母が、いまのわたくしの為に贈り物などありえません。
だから封を開いて、息を呑みました。ワーシュ様からだとすぐに分かりました。緑色を中心とした小さな花束と、ケシュカの花のブローチ。あの方は毎年、わたくしの誕生日に花束とブローチをくださるのです。その日は、わたくしの誕生日でした。
父と母に失望され、ほかの側妃に蔑まれ。そのなかでも、わたくしを想ってくださる方がいる。一人ではないと思えることが、どれほどわたくしを救ったでしょう。
だから、この国の側妃になろうと思ったのです。
あの日から数日たった夜、久しぶりにお会いしたクヴァル様は驚くほどに美しく、けれどワーシュ様を想うように、この心が跳ねることはありませんでした。
震える指先を握りしめ、臣下がこの方にそうするように跪き、首を垂れます。
「……お通りを、お待ちしておりました」
何の感情もない赤が、わたくしを見ました。
「嘘だな。お前は俺も、この夜も望んでいない。それでも家を使ってまで俺に足を運ばせた。……前置きはいい。それで?まさか何も考えていないほど、愚かではないだろう」
「お願いが、ございます。わたくしがあなた様の目に留まっていると、その証が欲しいのです。わたくしのためではなく、この後宮の為に」
「そんなことだろうと思っていた。……対価は?家はともかく、お前個人に何の価値がある」
淡々と、彼は問いました。
クヴァル様に後宮の妃が文を送り逢瀬を求めても、忙しく、また妃に興味のない方です。一瞥もされることはないでしょう。ですからわたくしは、父に手紙を書き、レスティカ家としてレリエーラ・レスティカの元を訪れるよう、力添えをお願いしました。父からはこれが最後の機会だ、という言葉をいただきましたが、クヴァル様はわたくしの部屋を訪れてくださいました。
この夜はわたくしにとって、一世一代の賭けでした。
「なにも。……家名がなければ、わたくしはただの女にすぎません。けれどこの宮にいる、他の妃にとっては違います。貴方様のものであるこの宮は、いま、ほとんどベツェリ妃の物です。彼女は貴方様を愛し、このままではこの後宮は、かつてのように嫉妬から簡単に血が流れるような場所になるでしょう。わたくしは、この宮の抑止になることが出来ます」
どくどくと鼓動がうるさくて、心臓が耳でなっているようでした。
「陛下、陛下はわたくしのことを、愛することはないのでしょう。けれどわたくしはあなたにとって、使える駒になりましょう。貴方の後ろ盾をいただければ、必ず、後宮を貴方のお心を煩わせない場所にしてみせます」
少しの沈黙の後、陛下は、身につけていた指輪を外し、わたくしの手のひらに乗せました。
「これで十分だろう。―――精々、自分が使える人間であると、証明して見せろ」
与えられた指輪の効果は絶大でした。
家名ばかり、と囁いていた妃たちは、わたくしが身につけるようになった指輪を驚きと羨望を込めて見つめ、態度も目に見えて変えました。
クヴァル様が身につけていた、その姿を多くの妃が見ていた指輪。それを下賜されるということは、ただ王が妃に装飾品を贈るのとは、全く違う意味を持ちます。
ベツェリ妃は怒りと殺意すら籠っていそうな視線でわたくしを見て、どうしてあなたが、と唇を噛み、一度、掴みかかられそうになったことすらありました。……彼女は陛下に心酔し、彼女こそが溺愛されているかのように振舞っていましたが、陛下はベツェリ妃どころかどの妃にも興味などない、というのはある程度敏いものであれば、みな察していました。だからこそわたくしが与えられた指輪は異例だったのです。
けれどこの指輪は、ほんとうは特別である証明ではなく、あの方からの投資でした。有用であると示せなければ、切り捨てられることすらなく、わたくしはすべてを失うのでしょう。
―――わたくしは、ベツェリ妃に反感を持つ妃たちをレスティカ家の名も使って集め、彼女に負けない大きさの派閥を作り上げました。
ベツェリ妃は妃たちに賞賛されることを好んでいましたが、目に余る振る舞いも多く、自らより美しい妃を手ひどくいじめ、持ち物を壊し、怪我をさせることすらありました。先の帝王陛下の時代、そういったことがよく行われていたように。わたくしにつけば安全は保障する、それだけで人は集まり、ベツェリ妃に近かった取り巻きにすら、わたくしの元に来た妃がいました。
ほどなくして、わたくしはベツェリ妃と同じ、最高位の妃の座を手に入れました。
集団でだれかの悪口を話しているのを聞くとき、謀略を巡らせることに嫌気がさしたとき、一人きりで星を見るとき。ワーシュ様を思い返しました。人の悪口をいわない、穏やかで優しいあの方を。
あの血の瞳の無関心に気が付くこともなく、陛下を愛することのできるベツェリ妃は幸福なのかもしれません。愛されない、きっとこれから先も同じ感情が返されることがない事実こそあれ、愛する人と言葉を交わし、指先に触れ、その感情を公言することが許されているのですから。彼女にとっては愛おしい人が訪れてくれるこの宮は、わたくしにとって牢獄と、何も変わりがないのです。
けれど、わたくしは来年も花束とブローチを受け取りたかった。失望を通り越してほんとうに使えない、と判断されれば、父と母はわたくしになにを送ることも許さないでしょう。親戚からの、誕生日の贈り物すら。
自室で窓の外を見つめていれば、実家から連れてきた、あの日腫れた瞼にハンカチを差し出してくれた侍女が、好きな紅茶を淹れてくれます。ワーシュ様以外にもわたくしを想ってくれる存在はいる。わたくしがいることで、後宮が先の帝王陛下の時代のように人が死んでしまうような場所になることも防げる。それならば、それだけで十分と思うべきなのでしょう。
彼女が―――ネレイス妃が、クヴァル様に連れ帰られたのは、そんな日々のなかでした。
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美しい人でした。わたくしも先代の帝王陛下に見初められる程度には優れた容姿をしていますが、彼女はわたくしよりも、後宮の誰よりも美しかった。男女の違いはありますが、容姿だけで言うならば釣り合うのは、この宮にも、きっとこの国でも、クヴァル様しかいないでしょう。
彼女は隣国、ライワールトの妃でした。現在争っていないだけで、かつてかの国とは血で血を洗うような関係です。ライワールトの王とクヴァル様が賭けを行い、賞品として彼女を連れ帰り、妃にしたと聞きました。父やこの国の重臣たちはライワールトの人間がこの国の妃になることに紛糾したそうですが、後宮はクヴァル様が望んだ女性が妃になる、という1点だけで、荒れに荒れていました。
美しさ、というのはこの宮において絶対の価値基準です。人形のようにうつくしい彼女は、それだけで多くの感情を集めていました。羨望、疑問、そうしてなによりも嫉妬を。
彼女は変化の少ない後宮の非日常で、異端でした。
侍女も連れてこなかったようですから、あの女性の孤独はいかほどのものだったでしょうか。けれど、彼女は初めてお茶会に招いた時も、たまたますれ違って挨拶するときも、いつも涼やかに笑んでいて、その振る舞いは完璧でした。
そう。異国であるにもかかわらず彼女のマナーは完璧で、流暢に我が国の言葉を話すことが出来ました。隣国であるライワールトとグランヌスは同じ言語を使っていますが、細かな言い回しや発音のニュアンスは違います。会話をすれば多少の違和感があるはずなのに、この方はグランヌス、それも王都の近くで育ったのだろうか、と思うほど見事に、我が国の言葉を操っていました。
その小さな違和感を、ほとんどの人が―――ベツェリ妃すら、気にしていないようでした。彼女にとっては美しい女性が後宮にまた増えた、しかもその方はクヴァル様が直々に迎え入れたのだ、という事実の方がよほど重要なようでした。
気に入らない、という敵意じみた反発を隠そうともせず、けれど表面的にはにこやかに、わたくしがそうするようにお茶会に誘ったりしているように見えました。
わたくしが彼女と等しい位を得てから、彼女は表立って人を傷つけ、嫌がらせをすることはやめたように見えました。けれどクヴァル様に近づく女性への敵意は変わらず、遠回しに悪口を広めて評判を落とす、などはむしろ多くなったように思います。
後ろ盾もないあの女性は、きっと心折れてしまうでしょう。可哀そうとは思いますが、助ける理由もまたありません。そう考えていましたが、すぐにそれどころではなくなりました。
ネレイス妃がこの宮に入って2月ほどで、ベツェリ妃の不貞が―――彼女が後宮の騎士と逢引きを行っているところをわたくしの侍女が目撃し、彼女は後宮を去ることになったのです。
後宮は大騒ぎになりました。隣国からきた妃など構っていられない、と言わんばかりに。当然のことです。だれがベツェリ妃の座を継ぐのか、それとも誰も代われないのか。わたくしに媚びをうったり敵視したり。誰もがそれぞれの望みの為に考えを巡らせていました。帝王陛下はベツェリ妃を裏切られたからと憤りも見せず、次の最高位の妃についてなど、ちらりとも言及しないというのに。
特に唯一の最高位の妃となったわたくしは、後宮内の調整が忙しく、陛下ではなく後宮のことばかりに意識を向けるようになっていました。
「レリエーラ様?」
「………なんでもないわ。すこし、ぼうっとしていたみたい」
ベツェリ妃が去ってからの1月は、あっという間でした。お疲れでしょう、ハーブティーを後でおいれしましょうか、という侍女の提案に頷いて、廊下から庭園を見下ろします。ようやくつぼみが膨らみ始めた薔薇園と、その隅にある、離れ代わりの資料庫を。
自室に戻ろうとしていた最中でしたが、その資料庫から出てきた人影を見て、足は止まりました。
「あれは……」
あの容姿を見間違えるはずがありません。彼女はネレイス妃でした。
ライワールトの人間に重要な情報を与えるべきではない、と彼女は様々な場所に立ち入ることを禁じられていた筈です。けれどこの明るいうちに、人目を忍んでもいないのだから、書庫に立ち入る許可は下りた、ということなのでしょうか。―――まさか、クヴァル様が?
遠くなのに、彼女はわたくしに気が付いたのか、ちいさく会釈した後微笑みます。
その、瞳。青紫の宝石のような、美しい瞳。けれど笑みに合わせて細められているだけで、その瞳に、一切の感情はありませんでした。
あの瞳を、わたくしは知っています。後宮に入った日に向けられた、赤い瞳。
「レリエーラ様?」
「……いいえ。行きましょう」
会釈を返し、侍女を連れて、足早にその場を立ち去りました。
ベツェリ様がせがむからクヴァル様はいままで後宮でベツェリ様と最も多く過ごしていましたが、彼女がいなくなってから、彼女と過ごしていた夜の代わり、ネレイス妃のもとを訪れることが増えていると聞きます。
うつくしい、いつの間にか渦中ではなくなった人。祖国を離れて後ろ盾もない、とびきり美しいだけの女性。
そのはずなのに。あの底知れない、わたくしたちとは違う視座でものを見ているような瞳はなんなのでしょうか。
胸のざわめきは、いつまでもやみませんでした。




