祖国の塔から薔薇は見えない
後宮にいる女の数は多く、私に向けられる視線に、言葉に、歓迎するものは一つもなかった。それでも彼に比べれば―――この国の帝王に向けられる感情に、その重さに比べれば、私への感情なんて、全くかわいらしいものだった。
誰もが見とれるほど美しい、いまだ正妃の居ない男。誰もがその男の隣を望み、けれど帝王は誰も唯一に選ばない。想い叶わない女たちは嘆き悲しみ他の女を疎んで、また執着を強くする。
誰も彼もに縋られる帝王―――クヴァル・レヴェスターが私の元を訪れることは、半月に一度も無かった。夜明け近くに顔を見るときは、甘い香水を纏わせることも、その背に爪痕も多い。妬けるか、と問われれば頷いた。たとえ何も感じていなくとも、彼に焦がれて国を裏切ったことになっている。
「寵愛を望むのは私だけではないと、分かってはいるのですが……」
ほんの少し瞳を伏せて、不興は買わない程度に嫉妬を言葉に滲ませる。お前ほど美しい女もいないがな、と頭を撫でられて、間違ってはいないのだと息をつく。言葉と裏腹に冷めた目を向ける男に、同じく薄っぺらな睦言を重ねる。
滑稽でも、互いに馬鹿馬鹿しいと思っていたとしても、楽しませなければいけない。見下されようが嫌われてはいけない。憎まれてもいけない。彼がそうしようと思えば、簡単にこの首は胴と離れることになるのだから。
そうして月が二度満ちて欠けた夜、彼は剣を携えて、私の部屋を訪れた。
風のつよい夜だった。木の葉が窓を打つのか、乾いた音がひっきりなしにかすれて鳴っていた。
「どうした?目を見開いて。俺はただ、慣れぬ異国に不安がる妃を慰めに来ただけなのに。それとも、そうでない方がよかったか?」
「……いいえ。お通りを、お待ちしていました」
剣の柄から離れない指から、ゆっくりと視線を逸らす。
はは、と彼は吐息だけで返事をした。いくつもの指輪で飾られた手に、いつかのように顎を掬われる。2月経っても与えられたときと家具の配置も小物の数もほとんど変わっていない部屋に、全くなじまない男だった。
「とてもそうは見えんがな。何の用だと顏に書いてある。……つい先日、後宮で起きた諍いは知っているな?後宮では最高位の2人の妃、財務大臣の娘とレスティカ公爵家のレリエーラが長く争っていたが、ベツェリ……財務大臣の娘の不貞が公になった。あの女は後宮を追い出され、これからこの宮は、レリエーラが唯一の最高位の妃となる」
頷く。ここ数日、後宮はその話で持ちきりだった。
―――本当に、仲の悪い2人だった。年が近く家同士も険悪、2人ともこの国の正妃になれと育てられたのだから当然かもしれないが。他の女を帝王の前から排除したいベツェリ妃と、振る舞いを管理する代わりに低位の妃でもある程度の融通を利かせていたレリエーラ妃は、性格も意向も、まるで反対だったのだ。
「存じています。お二人とも招待していただいたお茶会でしか、言葉を交わしたことはありませんでしたが」
「惚けるのか?白々しい……ベツェリの不貞、それが公になるように仕組んだのは、お前だろう」
愉快そうに彼は言った。いくつもの指輪が付いた手が腰に回され、抱擁と変わらない距離まで身体が触れ合う。楽しそうな血の色が、爛々と私を見据えている。この2月薄っぺらな会話しかなかったのに、睦言を囁かれるよりずっと、愉快気な顔だった。
「ベツェリと通じていた男は普段庭園の離塔で逢引きを行っていたが、改築のために離塔が閉鎖され、別のところで会わなければいけなくなった。単純な女は離宮の一室で事に及ぼうとして、レリエーラの侍女にそれを見られてしまった」
塔の改装を促したのはお前だろう。まだ離宮に入ってたったの2月なのに、と吐息交じりの笑い声。
内心で、舌を打った。視線が揺れないよう瞬きで誤魔化しながらも、ああ本当に優秀だと指の腹をする。
監視がつけられていたし、どこで誰と何を話したかは筒抜けだっただろう。それでも報告から事実を繋げられたのは、この男の優秀さによるものに他ならなかった。
「何のことでしょう?」
「責めているのではない。これでも感心しているんだ、ベツェリは嫉妬深く、面倒な女だった。いなくなって随分と風通しが良くなった。……それで、興味がわいた。お前はなにを、どうやった?」
窓の外は暗い。唇を噛みそうになってやめた。最初の晩に観たものと同じ、酷薄な瞳。
彼は最初からベツェリの不貞を知っていたのだ、と思い至る。けれど最高位の妃の裏切りを、対応する必要がないと切り捨てて泳がせていた。今も彼女を追い落としたものの方が、興をそそったからここにいる。
それだって私個人への興味というよりは、新しい玩具を確かめに来た、といったところだろうか。
ああ全くこんなに優秀だとは、と首を傾げて口の端を吊り上げる。扱いづらくてかなわない。本当に予想外で、けれどまだ想定内だ。
「なにも。ただ庭園の花を眺める茶会に招待していただいた際に、母国の思い出話をしただけです。王城の庭園にも離塔があり、そのバルコニーから見下ろす眺めよりも見事なものはなかったと」
瞳を逸らす。窓の外には、まだつぼみもできていない生垣が広がっている。
この後宮には広い薔薇の庭園があり、その隅には4階建ての離塔があった。塔の最上階には庭園を一望できる大窓もあり、薔薇の盛りにはそこで茶会も行われるらしい。
1月ほど前呼ばれた茶会でライワールトの薔薇はここまで見事ではないでしょう、と妃の1人に話を振られた時に、薔薇の美しさはともかく窓越しにしか薔薇を見られないのですね、と返事をした。
庭園の広さや品種はこの国に劣りますが、庭園を見下ろせる塔がライワールトにもありました。薔薇を楽しむための塔だったので最上階にはバルコニーがあり、塔の意匠も含めて硝子越しではない眺めはとても見事なものでしたよ、と応えたのだ。
惨めにも捨てた祖国の話をする他国の女への反発か、硝子越しではないバルコニーからの眺めに惹かれるものがあったのか。丁度お茶会に出席していたことさらに薔薇を愛する妃がそれを聞いて、次の薔薇の季節までに離塔を改築したいと言い出した。
それからも、例えばベツェリ妃の不貞相手の夜警の日が変更になったとか、レリエーラ妃が読みたい本が丁度他の妃の手に渡っていて侍女が受け取りに行くことになったなどの偶然が重なって、ベツェリ妃の不貞は明らかになってしまった。
「なるほどな。そもそも、どうやって不貞に気が付いた?お前の言う通り、茶会くらいでしか関わっていなかっただろう」
責めてはいない、感心している、の言葉に嘘はないらしい。端正な顔は変わらず、楽しげに歪んでいた。
「香りです。あなたがよく使うものと同じ香りが、1月ほど前のお茶会の、昼時のベツェリ妃からしました。あなたと同じ香水を使う者などこの離宮にはいないのに。その前の晩はあなたは彼女の元を訪れなかったとも聞きました。なので誰と触れ合いついた香りなのかと思っただけです」
べツェリ妃が特定の相手とだけする目配せや、女たちの間で流れる噂話。他にもいろいろあったけれど、一番はそれだった。
ベツェリ妃の浮気相手は、後宮に出入りする騎士だった。目の前の彼よりも明るいけれど赤毛で、見目麗しい、体格も髪の長さも同じくらいの美丈夫。
代わりだったのだろう。ベツェリ妃は帝王を愛していた。他の妃への態度は嫉妬ゆえで、それでも彼が自分だけを見てくれないことに苦しみ、似た男に同じ香水を与えて自分を愛させることで寂しさを紛らわせた。彼女がいなくなって清々した、と言い放った目の前の男に焦がれていたのだ。
なるほどな、と彼は簡単に剣を放りなげてベッドに沈む。その手のひらに指を重ねた。機嫌よさげに唇が落ちて、お前は面白いな、と囁く言葉にも、笑みを浮かべる。
彼女が愚かで、本当に助かった。




