チェックメイト
ライヒムが分からない、とネレイスは云った。どうして妃と離縁したがるのか、自分に物欲しげな目を向けるのか。理由を知れば対処ができる、だから祖国に向かいたい、と。
嘘ではないのだろう。彼女の愛に対価はない。恋も嫉妬も、愛されたいと望む感情すら理解していないのかもしれない。
その歪が、彼女の生まれ持ったものなのか、家族から引き離された境遇によるものかはどうでもいい。憐れみたいわけではないのだから。
ただ、と思うのだ。グランヌスのため、ひいては家族のためとネレイスは話したが、俺が反対すると分かってなおネレイスがライワールトに行きたがったのは、本当にライヒムの、とうに切り捨てた男の本心が目的なのだろうか。
本当に知りたがったのは、ライヒムではなく俺の本心ではないかと。
利用され、利用しようとしていた男が家族を連れてきた。何にも興味を持たなかったはずなのに、玉座を得ていながらも愛を乞い、その為ならなんでもしようという。
都合がいいと鵜呑みに出来る性格であれば、ネレイスは今、ここにいなかっただろう。
家族と過ごし、笑い、幸福を覚えて。この日々が続けばいいと願ったからこそ、それを用意し、愛を囁き、けれどいつでもすべてを奪い取れる男の真意を望んでいるのではないだろうか。
もし自分がライワールトに行きたいと言い出したら、顔を焼き、容姿という価値を失ったら。自分と愛する人々をどうするのかと、彼女は問い続けていたのではないだろうか。
随分と不器用な、と低く笑う。ネレイスは自覚すらしていないだろう。試すよりも拙い、不安と疑問と、わずかな期待を込めた言葉の数々。そのぎこちなさすら可愛らしく愛おしいのだから、恋とは全く厄介だった。ぜひ彼女にも味わってほしいものだ。
かつての自分は―――愛されない愛せないと世界を蔑んだ、愚かな男はもういない。永遠と思っていた孤独は、鮮烈な女が埋めてしまった。
だからこそネレイスの、彼女が愛する人々には決して見せない姿を得たい。自分など惜しくはないと心の底から言い切れる女に、ともに居たいと願わせてみたいのだ。
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ライワールト辺境伯当主は―――ヴァガルド・オウディアスはいらだっていた。
この世の全てに。なによりも、娘という駒の裏切りに。
男は、オウディアスの血筋に誇りを持っていた。日和見主義の連中ばかりの中で、国防を一身に背負ってきたライワールトの要。
己の血統に何よりも重きを置いていたから、平民の血を引く娘をこの国の王族の妃にした。王家など平民の血を入れればいい。真実尊く価値があるのはオウディアスだけなのだ。
あいにく駒は妃にはならなかったが、古いだけのつまらぬ血が王家の正妃となり、王家からの婚約破棄の弁償として、男はいくつもの利権を手に入れた。
それで、十分だったはずなのだ。
全ての歯車が狂ったのは、あの賭けの日からだ。
そもそもが馬鹿げた催しだった。毎年賭けを行う、など宿敵相手に馬鹿げている。クヴァル・レヴェスターという名のグランヌス先代王を殺した、気に食わない若造。おめおめと敵国を訪れふざけたことを抜かす男の首を、そのまま落としておけばよかったのだ。
くだらない遊戯に、無能なライヒムは無様に負けた。
娘という駒はいなくなり、その次の年には、男は人生最大の屈辱を受けることになる。
オウディアスの土地が、ヴァガルドの所有物が、奪われてしまったのだ。
この屈辱は決して許してはいけない。その思いで会議の日に、憎き帝王と駒としての役目も果たせない無能に対面した。あいつらだけは許してはいけない。戦争になろうと知ったことか。あいつらがこの国にいるうちに、殺せばいい。
そう考え、ライヒムにこの国にいるうちにあいつらを殺すべきと進言したが、どれほど言いつのってもあの無能な王は首を縦には振らなかった。それどころか、ネレイスを傷つけるなんて何を考えているのだ、言葉がすぎるぞもう下がれ、と若造の分際で言い放ったのだ。
ライヒムも決して許さない。けれどまずはグランヌスの帝王とネレイスだ。
そう思い、王都の外にひっそりと配置させていた辺境伯の兵を城内まで進ませろと侍従に命じ、王城の用意された部屋で眠りについて―――。
「はは。ようやく起きたのか。何度殺せるか思わず数えたぞ」
跳び起きる。まだ外は暗い。
そうして、男がいた。
ひどく、容貌の整った男だった。戦のなんたるかも知らない若造の分際で、そうおもわせない何かがあった。
「グ、ランヌスの……!どうしてここにいる!?」
「手紙を出したのはお前だろう?王都の外に待機させている辺境伯の兵を呼べ、俺とネレイスを脅して、国境を戻すという書状にサインをさせろ、か。残念だが、やめた方がいいな。丁度俺も同じことを考えていた。お前からもらった国境に大量の兵を、な。オウディアスは、真っ先に消えることになる」
「内通者がいたのか……!」
ヴァガルドの手駒の中に、裏切り者がいるのか。だからこの男は、手紙の内容を知っているのか。
憎つきグランヌスの王。この世のものと思えないほど美しい男は懐から羊皮紙を取り出す。数刻前ヴァガルドが、臣下に渡したものだ。そうして、唇を弧に歪めた。
「口の軽い人間ばかりで助かるよ。……そう警戒しなくともいい。寝首を掻っ切るんだったら、すでにそうしているさ。それよりも、いい話があるんだ」
窓枠に腰かけ、悠然とヴァガルドを見下ろす。血の色の瞳だ。こいつは人間ではない。
人を破滅させる、赤と黒の、悪魔だ。
「なあ、ヴァガルド・オウディアス。グランヌスに、寝返らないか?」
悪魔が、俺を見た。
「な、なにを……」
「ライワールトも、グランヌスの兵もいないから心配しなくていい。腹を割って話そうじゃあないか。ずっと不満だったのだろう?歴史あるオウディアス辺境伯が、あくまでライワールトの高位貴族の1つでしかないことが。許せなかったのだろう?お前自身が、王に頭を垂れる立場でしかないことが。……お前がグランヌスにつくのであれば、ライワールトごとき、簡単に亡ぼすことが出来る。妃の父親だからな、王の居なくなったライワールトをそのままくれてやってもいい。魅力的だと思わないか?お前はお前の手で運命を切り開き、玉座を手に入れるんだ」
「なっ……お前、そんな、ことが」
「あり得ない、なんてことはないと、お前が一番理解しているはずだ。憎んでいただろう。戦を察せず、国の中心でぬくぬくと能天気でいる国王に。苛立っていただろう。国を守ってやっているのはお前なのに、正しく評価されない現状に。俺なら、お前の価値を理解してやれる。相応しい立場を用意することもできる」
「俺、は、誇り高きオウディアスの」
「……考えておいてくれ。グランヌスはいつでも、お前を歓迎しよう」
悪魔は、笑った。
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「……それを、本当に、父に話したのですか」
「ああ。悩んでいたぞ?本当に俺が歓迎すると思って」
くつくつと、部屋に戻ったクヴァルは笑う。末恐ろしい男だと思った。
「……父は、決して頷かないでしょう。自尊心の塊のような人間です。彼にとって一番重要なのは、彼自身が一番価値のある人間であると、そう思えることです。だから国政をしたいと望んでも、王に遜りたく無くてライワールトの中央には近づかなかった。領地とその周囲一帯で自らが一番上で居られる、辺境伯という地位を選び続けたんです。ライワールトの王になれると言ったって、上に貴方が立つなら、満足しないでしょう」
それが分かるのだから十分お前は賢いよ、あの男よりもなと、髪一房をなぞられた。
「だろうな。だから頷くことはない。けれど、揺らぐはずだ。そうして悩んだまま、真っ先に存在が分かった内通者の排除に取り掛かる。グランヌスの人間で、手紙を掠め取れる地位まで潜り込めていたのは一人きりだが、自身の手駒に裏切り者がいたなんて、あの自尊心と支配欲の権化のような男には耐えられない。まずは今回送った俺たちを脅せという手紙に関わった人間、次に王への不満を漏らしていた人間を入れ替えるはずだ。その新しい席に、グランヌスの人間を多く潜り込ませる」
内通者にはすでに、手紙を回収したら機を見てグランヌスに戻れと伝えてある。けれど駒としてしか見ていないから、あの男には長年勤めてきた忠臣も翻意ある者も、見分けることは出来ないだろう。
頭を抱き込まれる。熱とともに、彼の黒い服に視界が埋まる。
「まずは周囲から埋めていく。馬車の事故や病に見せかけ殺して次代に代えてもいいが、それはオウディアスをある程度掌握してからだな。どちらにせよ、辺境伯にはもう何もさせないし、出来やしない」
「あなたを………」
「ん?」
「敵に、回したくないですね」
ならないと言っただろう、と、彼は吐息だけで笑った。
「なあ、ネレイス。自分を蛇苺だといったな。貴族にも平民にも、どちらにもなれないと。その孤独を、俺だけは理解できる。同じ視座で物を見れる。お前の愛も孤独も、すべてを知りたいんだ。―――俺は、この世界で俺だけは、同じものになれるよ」
顔を持ち上げられて、額に額がそっと触れる。
「お前がライワールトを滅ぼしたいならそうしよう。戦争を嫌だというなら、そうならない為に全力を尽くそう。殺すも救うも、俺にとっては大差ない。お前の望みが俺の望みだ。同じ願望を持ち、同じことを成そう。共犯者で同類だ。だから、願いを言うといい。なんだって叶えてやるから」
「そ、んな、ことをしたって。あなたに、なんのメリットもない」
指を握りこまれて、自分の指先がひどく冷えていると、やっと気が付く。
2つの国にいたからわかる。もし戦争になれば、グランヌスは確実に、ライワールトに勝てるだろう。
戦うと、勝てと一言いえば、ライワールトを亡ぼせる。クヴァル・レヴェスターは宿敵の国を手中に収めた英雄として、永く語り継がれることになる。
なのにその名誉も、栄光もすべて捨ててくれるなんて、そんな、あまりに都合のいいこと。
「あるさ。いつか、お前が俺と同じ感情を抱いてくれるかもしれない。その期待だけで、何でもできるよ」
ふ、と赤い瞳が細められる。
薄い唇が、あいしている、と囁いた。
「案外俺はお前の隣で、苺を摘む子供を眺める時間が、好きだったみたいだ」




