蛇苺
男は―――ライワールト国王、ライヒム・ミハーレクはいらだっていた。
ずっとともに居ると思っていた婚約者がいた。彼女は貞淑で、いつも穏やかだった。美しい笑みを向けてくれたけれど、ライヒムが望むとおりにライヒムを想ってはくれなかった。
一度だけ、彼女の故郷の話を聞いたことがある。彼女の提案で、ある法律を成立させたときのことだ。貧しい者たち―――彼女の故郷の孤児院についてぽつりと零した幼いネレイスの表情を、今もライヒムは忘れられない。途方もなく愛おしく、けれど少しの愁いを帯びた、どこか寂しげな表情。とびきり美しい婚約者だったけれど、あんなに美しい顔を、ライヒムは今まで見たことがなかった。
どうしたらあの愛おしそうな瞳を向けてくれるのか。悩み、意地を張ってしまった。待遇を悪いものにしてしまった。それは間違いなく、ライヒムの過失だった。
けれどその結果、赤の他人が横槍を入れるのは―――何も知らない隣国の王が彼女を奪い取り妃にするなんて、決して許せることではない。
ネレイスもネレイスだ。あの賭けの日も、手紙に返事を寄越さなかったことも、ようやくこの国に戻ったというのにずっとにくつき帝王クヴァル・レヴェスターに寄り添っていることも。許しがたい裏切りではないのか。
ここはライワールトで、ライヒムは王だ。王城は彼の城で、騎士はライヒムの兵だ。ネレイス個人に接触こそできていないが、彼女に近づく者がいれば報告せよと命はすでに下している。
そうしていま、ライヒムは2つの報告を受けた。
1つ目は---アンジェの、ライヒムの正妃がネレイスの元を訪れてしたことについては、考えないようにする。アンジェは俺を好きだとアピールするのはいいが、少し苛烈なのだ。そうしてずっと、ネレイスを目の敵にしている。彼女が持つ熱をほんの少しでもネレイスが表してくれていたら、と思わずにはいられない。
そうして2つ目。ネレイスに接触している女性がいること、彼女がネレイスの学生時代の友人で、手作りの菓子を持ってネレイスのもとを訪れたことを知った。茶会でもしたのだろうか、俺の誘いを断ったくせにどうして、とは思う。
けれどこれは、チャンスというやつだ。
「許せない……。エフィナと言ったか?伯爵家の夫人なら俺に逆らえるわけがない……。俺とネレイスが2人きりになるよう、彼女に、ネレイスを呼び出すように命を下せ!」
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「そんな命令が、陛下からありました!」
この子と何度も顔を合わせるなあ、ともはや感心した。
アンジェが去り、エフィナがまた部屋を訪れたのは細い月が青白い、一番星が煌々と光る夜の事だった。
兵士はまた来られたので、と私たちが承諾したあとは慣れた様子で部屋に通し、彼女は何度もごめんなさい、と言いながら左手の指を擦り合わせる。その様子を見て、人払いを兵士に命じる。
かつての学園で2人きりになりたい時、図書室では合図があった。左手の中指のはらで薬指の爪を2度たたく、というものが。図書室は他の生徒もまばらにいるから、ライヒムについてなど人目をはばかる話をするときはその合図をして、非常階段や人気のないテラスに行く、というのがいつもの約束だった。
そうしてクヴァルと3人になったと思いきや、この子の口から出たのがライヒムは私と2人になりたがっている、手引きし連れ出すように命令された、という言葉だった。
隣でクヴァルが舌打ちをする。私も、どうしてもライヒムは私と2人きりになりたいらしい、ということに驚いた。
驚いた、けれどそれよりも。
「…………それを、私たちに言って良かったのですか?」
「かまいません!ネレイス様にあんな仕打ちをしておきながら今更復縁したいなんて、あまりにも虫が良すぎるもの!……ネレイス様、今からあなたが国を離れられるまで、今後私がどんな用事であなたと2人きりになりたがったとしても、絶対、絶対頷かないでくださいね!」
帝王陛下と一緒にいてください、と少女は肩をいからせる。そのさまはやはり、毛を逆立てた猫のようだった。
もう国に帰るか?とクヴァルは言う。俺も大概嫉妬深い自覚はあったが、惚れ込んだ女にいつまでも色目を使う男がいるのは本当に不快だな、とからからと笑いながら。
唇は弧を描いていたが、その目は笑っていなかった。
あと少しだけ、と首を振る。色目かはともかく、クヴァルは放っておけば国境の兵を動かして、ライヒムの首を刎ねそうだ。ライヒムに対する感情はもう何もない。彼を殺せば、たしかに問題の一つは解決するのだろう。
けれどどうしても、とエフィナの肩に触れる。戦争を、いまライワールトを滅ぼすことを、躊躇うのは。
「クヴァル様。あと少しだけ、待っていただけませんか。これが終われば、代わりに私にできることなら、何でもしますから」
「なんでも、か?」
「ええ。あなたが望む、私に出来る全てを」
その必要はない、と。ため息一つをつかれた。
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どうか気を付けて、本当に気を付けてくださいね!と何度も繰り返して、エフィナは去っていった。
騒がしいなとクヴァルが呟くから、いい子なんです、と返す。
良い子で心優しく、だから私なんかを慕ってしまった。
昨晩と同じように同じベッドに潜り込んで一刻ほどたった、夜更けの事だった。目を開き、抱きすくめる腕を解いて起き上がり、王宮の書庫に向かう。
夜間、書庫は解放されてはいないけれど、入り口近くのバルコニーに探した影はあった。
星空の下現れた私に、ベンチに座り込んでいた彼女は驚いた顔をした。エフィナの細い肩は震え、赤い目は兎のようで、頼りなかった。
「やっぱりここにいましたか。―――泣いていたのですか?」
「ネレイス、さま……な、なんでもありません!一人になってはいけません、あなたはもう、グランヌスの方なんですから」
「ええ。グランヌスの妃で、あなたの先輩です。……ハンカチを。目が、腫れてしまいますから」
白い頬をぬぐう。大粒の涙が、また、ぽたぽたとこぼれた。
よく泣く子だった。試験でいい点を取れず追い詰められたときや、貧しい家の令嬢と馬鹿にされた時。慕っている先輩が貶されて言い返せなかったときなど、彼女は学生のころから泣きたくなると、本のある場所の隅で、隠れて涙をこぼしていた。
なんでもありません、と強がったけれど、涙は少しも止まらない。
「エフィナ、あなたに謝らせてください。……ごめんなさい。あなたを私とライヒムの、グランヌスとライワールトの揉め事に、巻き込んでしまった」
彼女は顔を上げた。目の縁も、瞼も頬も真っ赤に染まって、淡い色の瞳に滴が盛り上がる。
「…………ネレイス様。私、あなたに、本当に感謝しているんです。学園に入って、でも家が貧乏で、だから王都の子とは全然話が合わなくて。もう家に帰りたい、学校なんかやめてやるって毎日思っていて。そんな時にあなたが話しかけてくださって、故郷の話を、たくさん聞いてくれて。馬鹿にしてきた子も、私があなたと親しいと知って悪口を言わなくなりました。なによりネレイス様の頭の良さとか、何もかも完璧なところに憧れて、私ももっと、いろんなことを頑張ろうと思いました。あなたが居たから卒業できたんです。今の私がいるんです」
しゃくりあげながら、後悔はしていないんです、と言葉を漏らした。
「あなたがグランヌスに行ってから、ありがとうって言えなかったって、なにも出来なかったって、悔しくて、凄く悲しかった。また逢えたときは、絶対にあなたの味方になろうと決めたんです。だからライヒム様が2人きりになりたがっていると、気を付けてと伝えたのは、少しも後悔していません。でも」
「でも、この国の王様を裏切って、夫が、家族がひどい目に遭ったら、どうしよう……!」
怖いです、ネレイス様。
そう迷子のように震える肩を抱いた。謝罪の代わりに。
それしか、出来ることはなかった。
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門の前まで白い手を握って、彼女を送った。小さな背が見えなくなってすぐ、同じベッドから抜け出した男に声を掛けられるまで、その場を動くことが出来なかった。
「ここにいたのか?あれだけ離れるなといったのに、そろそろ可愛さ余ってなんとやらになりそうだ。本当に目が離せないな」
「……気が付いていたでしょう。先程の会話も聞いていたのに」
「それでも、だ。珍しいな。そんな落ち込んだ顔をするなんて」
「……自分に、嫌気がさしていただけです」
クヴァルと合わせた視線をそらす。赤い瞳は瞬きもせず、こちらを見ていた。
良い子だった。出会ってから、ずっと。
私なんかに関わらない方が良いと思うほどに。知らないどこかで、穏やかであって欲しいと願うほどに。
けれど、私の一番は決まっている。国境の丘の上に立つ家と、そこに住む優しい人々。
何があったとしても絶対に、その優先順位は変わらない。
ーーークヴァルも私も、そう変わらない。ライヒムが正妃との離縁を考えている、と知らされた時、彼はライヒムを殺すか、と軽く言って見せたけれど、私こそ、あのときかつての夫と父を殺していたらどうなったか、幾万通りの思考が巡った。その結果戦争が起こり、多くの血が流れたとしても。
グランヌスで、べツェリを追い落としたように。家族が望まなくとも、彼らのためなら私はライワールトを燃やせる。
その結果、エフィナの日常が脅かされ、あの子が傷ついたとしても。私の為に泣いてくれた優しい子でさえ切り捨てられる。切り捨ててしまえる。
クヴァルによって孤児院の彼らと再会し、家族と呼んでもらえて。もう会えない、それでもいいと考えていた人たちと時間があまりにも嬉しくて、長く浮かれていた心臓が元の形を思い出す。
シスターやレベッカ、子供たちやエフィナのような、優しい人間にはなれない。なりたいと思ったこともない。
なのに、少しでもまともな人間のふりをしていたいといま、思っている。
瞳を閉じる。どうして、あの穏やかな日々のままで居させてくれなかったのだろう。ライヒムは、元夫は、そんなにも私が彼を裏切ったことが癪に触ったのだろうか。それともグランヌスに敗北したと感じたのが屈辱だったか。あの自尊心の高さを、かつては扱いやすいと喜んだ。そうしてそのままにした、結果が今だ。
賭けで弓の腕を競った夜、先日送られたばかりの手紙。そんなものも頭をよぎる。
憎悪でも怒りでも、ライヒムに少しでも、私への執着が残っているのであれば。
「……ねえ、クヴァル様。この顔を、焼いてもいいですか?」
「絶対にやめろ」
吐き捨てるような返事だった。
「貴方なら、そう言うと思いました。―――父は初めて私の顔を見た時、この顔なら王子も私を気に入るだろうと判断しました。実際学園にいたころも側妃であった頃も、顔だけは、と言われ続けていました。……下らないと思いませんか?こんなものが彼らにとっては価値になり、これを失うことが損失になるのだそうです。なら、私がこれを失えば、ライヒムは裏切りへの溜飲を下げ、私にも、グランヌスへも関心を失うでしょう。彼は単純な所がありますから。こんな皮一枚で、この面倒ごとを終わらせられる。貴方も嫌う国を訪れるような、手間をかけずに済む」
長い、本当に長い沈黙が落ちた。
「……ネレイス。最初にライワールトにともにいってくれないかと頼んだ時、お前は、俺が断ると思っていただろう。拒絶されて、ならば一人で行くと言い出していた。そうして、ライヒムに毒でも盛るかーーーあいつの前で、自分の顔を焼くつもりだったな?」
クヴァルの指先が、私の顔を持ち上げる。赤の瞳の、色の意味は伺えない。
「気づいていたのですか」
「そんな顔をされてはな。自分の顔を焼いて妃としての価値を損なわせれば、ライヒムはお前のことがどうでもよくなると思ったか」
「ええ」
あちらの過失になるような形で、間違っても二度とライヒムが私に興味を持てなくなるように、この顔を壊したなら。ライヒムは私を、記憶に留めることすら嫌になるだろう。
ライワールトでグランヌスの妃が顔を傷つけた、なんて醜聞が起きたなら。今紛糾している国境に関わる話も、ずっと動かしやすくなるはずだ。
「笑わせる。………顔を焼いて、それでグランヌスに帰るつもりだったのか。それを家族に見せるつもりか?この間の野いちごの砂糖漬けで菓子を作った、お前は気に入ってくれるだろうかと盛り上がる彼等に、焼け爛れた顔を見せられるのか」
光源が燭台のみで、男の表情はよく見えない。けれど微笑んだ。
想われていると理解している。私に何かあれば心配をかけ、悲しませる事も。けれど彼らの感情より彼ら自身の方が大切で。私自身より、ずっと重要で。
「なら、―――なら、」
どうするべきなのだろうか。剣を持てない、兵を動かせるわけでもない。
言葉で多少は人を操れても、一度刺されれば死ぬ躰だ。
死ぬわけにはいかない。命も私自身も惜しいと思ったことはないし、今は私がいなくなったとしても、彼らが変わらない日常を送れるように、用意もしてある。けれどそれらは、絶対ではない。
死ぬほど深い、溜息が聞こえた。
「……………………本当に、閉じ込めてやろうか。なあ、もしかして、お前が顔を焼いて、その美貌が失われたとして。俺がその程度で、お前を捨てると、そう思っているのか?」
ふざけるなよ、と彼は呟いた。言葉のわりに、どこか途方に暮れたような声音だった。
「それこそ冗談だろう。変わらず毎日だって愛を囁くし、孤児院の彼らも丁重に扱うさ。ただ、お前のことは、一切の刃物も危険なものもない部屋に、閉じ込めたくなるだろうな。……正直、俺もお前を傷つけられたら、何をしでかすか分からない。大切なものも失えないものも得たことがなかったから、奪われたらどうなるか、本当に分からないんだ」
だからやめてくれ、とぽつりと言葉が落ちる。
「…………美しさとは、なんなのでしょうね」
故郷の彼ら。シスターのあかぎれだらけの手のひら。肩を震わせて、それでも後悔しないと言い切った女性の涙。それらが、そういうものだけが私にとって美しい。
あれより他に美しいものはないと、考える私はおかしいのだろうか。
けれどあれらに比べれば、他のなにに、価値があるのか。
基準が違うのだろう。かれらが重視する顔なり、妃たちが重視する力や財には、ほんの少しも興味を持てないままだ。
足元に視線を落とす。クヴァルの瞳より明るい赤が、脳裏に浮かぶ。
この国に来る前、王宮の隅の小川のほとりで、野いちごをもらった。その子の両の手を包んで、食べてもおいしくないから捨てるようにと、蛇苺の話をした。
蛇苺。野苺と生えているところが似ている、少しも甘くない果実。蛇の食べる苺というのが由来らしいけれど、蛇も食べない、似ているだけの偽物だ。
あの時話しながら、似ている、と誰にも言わないけれど考えた。あの甘くない果実は私だった。
群生のなかの偽物。貴族にも、孤児院の皆と同じものにもなれない、私だった。
「ネレイス。お前本当は、俺の妃になんか、なりたくなかっただろう」
クヴァルは呟いた。
俺の妃どころか、ライワールトの側妃にも、王太子の婚約者にも。なりたくなんてなかっただろう。
愛する家族が傍にいて少しは寂しくなくなったとしても、いまもその心は、あの古い教会の孤児院にある。孤児院の人間を引っ越しさせたことにすら、家を奪ってしまったと今も罪悪感を抱えている。違うか?
熱い手のひらに、抱きしめられた。彼はいつも、体温が高い。
「手放してはやれない。俺はお前がそうやって彼らを愛したように、遠くから幸せを祈れはしない。愛されなくても良いとは言えない。お前を、国境の屋敷に返してやることは出来ない」
「でも、何があっても、俺は、お前の敵にはならない」




