久しい人
「…………………………久しいな、グランヌスの王」
悪魔のような顔つきで、低い声をかつての夫は放った。
「久しいというほど昔でもないだろう。はは、それが歓迎する顔か?」
王城の会議の間で、楽し気にクヴァルは言葉を返す。滞在は4日の予定で、昼過ぎにライワールトの王城を訪れ、歓迎の晩餐会が終わった、次の日の朝の事だった。この国を訪れる理由にしたのは関税に関わる会議だったから国の大臣も揃っているが、みな一様に表情は硬い。かろうじて貶し合わないだけの刺々しいやり取りを経て、鋭い視線を受けながら会談は進む。
晩餐会でも、今日の会議でも、この国の正妃であるアンジェは姿を見せなかった。体調が悪い、と伝えられはしたものの、離縁の噂が流れているいま、何も考えずそうですかと信じることは出来ない。
海に囲まれてグランヌスとのみ面したライワールトと、ライワールト以外の多くの国と面しているグランヌス。大昔からライワールトがグランヌスの向こうにある国と交易をおこなうにはグランヌスの土地を通るか海を経由する必要があるが、通行料や関税、海域の主張などで両国の主張は食い違い、反感が悪感情と敵意を生んで、2つの国は争い続けてきた。
技術が発展し交易路が整備され、諸外国の調停もあり数十年前に和平が結ばれたが、互いの国への不信感は根強く残っている。
陸路でグランヌスを経由してライワールトに届く作物の流通路や、互いの国への関税について。私がライワールトにいたころから友好的に話が進んだためしはなかったが、あの賭けについても話題は何度も登った。国境を返せ、何でも賭けると言ったのは其方だろう返さない、という堂々巡りの会話は、夜まで続いた。
会議の後、クヴァルと私にはそれぞれ部屋が用意された。用意されたゲストルームは思わずライワールトの側妃だったころ与えられていた部屋と比べてしまうほどに質のいいものだったけれど、夫婦に別室を用意するなど野暮な奴らだ、とクヴァルは迷わず彼にあてがわれた部屋に私を連れ込む。
「今頃ライヒムはお前のために用意した、空の部屋の扉をノックし続けているかもな。
―――それで。可愛い可愛い妃がどうしてもというから、泣く泣くこの国に連れてきたわけだが。これから何をするつもりだ?」
クヴァルの部屋―――深紅の絨毯、金の装飾の暖炉など、知ってはいても見慣れない一室で、彼はソファにくつろいだまま、私を隣に座らせた。耳に掛かった髪を、一房掻き上げられる。
「どうしてライヒムが、ここまで私に執着するのかによるでしょう。正妃であるアンジェ様と何かで諍い、彼女が気に食わなくなって捨てたいだけの可能性だってあります。私を取り戻したがっているとしても、嫌っていた女に執着するなど裏切りがよほど腹立たしかったのか、あなたに2回も負けたことが悔しかったのか……」
「ーーーーーーは?」
「え?」
妃こそ2人しかいなかったけれど、女生徒に囲まれ続けた学園生活を考えれば、ライヒムはかなりの好色だろう。プライドも高いから、と思考を巡らせていると、どうしてか隣に座った男は、クヴァルは、唖然としていた。
「……お前、まさか、自分がライヒムに嫌われていると思っているのか?」
「それは」
そうしてそんな、当然のことを聞くのだろうか。
彼は本当に信じられないようなものを見る眼で、私を見ていた。首を傾げた時、部屋をノックする声が聞こえた。
次いで入ってきたクヴァルの側近は、ネレイス妃にどうしても会いたがっているものがいる、と報告する。
「謁見は許可していないと伝えても諦める様子もなく……。茶色の髪と瞳で、ネレイス妃の学友だと。名は、エフィナ・ラクレアと名乗っていました」
「追い出すか?」
「いえ。…‥通してください」
来訪者自体は想定していたが、予想もしていなかった名前に驚いた。しかし頷き、クヴァルの一瞥に首を振る。その名前には、心当たりがあった。
∮
かつて―――この国の側妃になるよりも昔、学生だった頃。
王太子から寵愛を求める娘たちにそれなりに嫌がらせを受けていたけれど、親しくしていたものもいた。
エフィナは……かつてエフィナ・リカレス男爵令嬢という名だったその子はその1人で、よく図書室にいた。1学年下で、課題が解けない、と頭を抱えてきたところを話しかけたのが、親しくなったきっかけだった。
はしばみ色の髪と瞳。柔らかなシフォンのドレスに、長い髪を編みこんだ、かつてを思い出すような髪型。
あらわれた女性は白い顔をして、私と目が合うとはくり、と口を動かした。
「誰だ?」
「エフィナ・リカレス男爵令嬢……学生時代の友人です。今はもう結婚して、ラクレア伯爵家の次男の妻でしたか」
どうしてそんな人間が城にいるのか、という目を向けられて、彼女の夫は城に勤めていたことを思い出す。とはいえこの場所でこんな時間だ、迷いこんだわけではないだろうが。
「………ネレイスさま。突然の訪問を、どうかお許しください」
かつてより大人びて、けれどあまり変わらない容姿。エフィナはまず、瞳を震わせて、深く深く頭を下げた。
「どうか謝らないで。……お久しぶりです。元気にしていましたか」
その顔が、懐かしいのは本当だった。
けれどかけた言葉に、彼女は大きな瞳から涙をこぼし始める。
「ごめんなさい…‥ごめんなさい!ずっと、言えなくてっ……。私、あなたが嫌がらせをされていても、助けられなかった……!」
学園であんなに助けてもらったのに、私は卒業パーティーであなたが側妃にされてしまうと聞いて、そんなの可笑しいって言えなかった。あなたがアンジェ様に嫌がらせをされても、悪口を言われても、やめてって言えなかった……!
頬を伝う涙が、大粒の滴になる。そうして彼女はうずくまって、嗚咽を漏らすだけになってしまった。
そうだった、と思い出した。この子は、そんな子だった。
つまらない、昔の話だ。
オウディアス辺境伯家に引き取られた私がライヒムに引き合わされたのは13歳だったけれど、ライヒムは年を重ねるにつれ、この国の王族、王位継承者として、さらに人に囲まれるようになった。
彼は優秀だった。弓の名手であり、剣術も優れていた。学園での成績は常に一位で、入学前から政に関わり、貧しいものに職を与える法律を考え、その法は実際に施行された。
貴族からも、国民からも期待される美貌の王子様。男女問わず彼の視線を受けたがったが、特に少女たちの彼への視線は熱烈で、恋の病、とはなるほどうまく言うものだと納得するほどだった。
「ねぇ、今日はライヒム様に声を掛けていただいたの!」
「私なんて髪飾りをほめていただいたわ。どこで売っているのかまで聞かれちゃった!」
学園の階段を降りようとした時、踊り場で黒髪の少女と青い石の髪飾りを付けた少女が、興奮した面持ちでささやきあうのを見かけた。私に気が付かない彼女たちは、あんな素敵な方が婚約者なんてネレイス様が羨ましい、と囁きあう。
「あんなに格好良くて頭も良くて、この間は弓の大会で優勝されたんでしょう?応援に行ったんだけれど、的をねらうライヒム様のお顔、本当に凛々しくて素敵で……」
「私もよ!応援する私たちに手を振ってくれたお姿を、いまもはっきりと思い出せるわ!ああ、本当にネレイス様が羨ましい……。私が辺境伯の娘だったら、あの方の隣にたてたのに!」
なんとなく、階段を下りるのをやめて、別の道を選んだ。そうして寮に戻る途中、ライヒムと出くわす。彼は女子生徒たちに囲まれていたけれど、私に気が付くと彼女たちを振り切るようにして、駆け足でこちらに来た。
「ネレイス!もう帰りか?……うん?どうしたんだ、そんな顔をして」
「こんにちは、殿下。……いいえ、なんでも」
なんだ気になるな、と彼は言った。そうして何度も何かあったのか聞いてくるので、つい、踊り場で聞いた話を伝えた。
「あなたは本当に慕われていると、そう思っただけです。……どうかしましたか?」
言葉以上の他意はない。けれど彼は目を見開いて、なぜか頬を紅潮させていた。
「あー、あの………………もしかして、嫉妬、したのか?」
「…………?いいえ」
首を振った。この国の王族が、人気者であるべき人間が支持を得ていて、どうして嫉妬する必要があるのか。
返事にどうしてかライヒムは頭を抱えて、「くっ……いやまだだ、もっと…………」などと呟いていたが、やがて静かに隣を歩くだけになった。
おそらくそれからだった。
彼がいろいろな少女と、距離の近い姿を見せるようになったのは。
声援に手を振っていたのが手刺繡のハンカチを受け取るようになり、髪飾りをほめていたのが髪に触れるようになった。学園のほとんどの女生徒が笑いかけてくれるこの国の王子様に夢中になって、側妃でいいからあの方と添い遂げたい、と願い、ときに私に直談判に来ることもあった。
あの帰り道から、3月ほどたったころだっただろうか。
「な、なあネレイス!噂を聞いたんだが、今日の昼頃、女生徒とひと悶着あったとか……。何があったんだ?」
「こんにちは、殿下。今日ですか?アーヴェ伯爵家のセリエ様から、側妃でいいからライヒム様の妻になりたい、口利きしてくれないかとお願いされました」
「そ、それで……なんて返事をしたんだ?」
「私が決めることではないので、どうか王家や殿下とお話になってくださいとお伝えしました」
そうこたえれば、なぜか彼は肩を落とす。
「な、なんでだ……。くそ、セリエは側妃にはしない!彼女は俺には相応しくないし、すこし優しくしただけで、舞い上がっただけだろう。けれどネレイスもネレイスだ!そんなことを言われるなんて、舐められていると、嫌だと思わないのか!?」
彼は耳まで真っ赤にして、語気も荒くしていた。
嫌とは思わないのか。その問いに、首をかしげる。
舐められることが、そうして王太子の婚約者の立場を失うことが、容易いと思われることが望ましくないのは理解できる。けれど嫌、なんて、政に関わる人間にあるまじき、個人の感情だろうに。
王子の婚約者として一番ふさわしい表情を―――笑みを浮かべて、応える。
「私と殿下の婚約は、辺境伯と王家のつながりのための、政治的なものだと理解しています。政の為に側妃が必要ならば―――国王陛下やライヒム様が誰かを側妃にする必要があると判断したのなら、もちろん、否を言うつもりはありません」
「なっ……もういい!帰る!」
ライヒムの顔は青に、次いで赤に染まった。酷くショックを受けた顔をして、足音荒く、彼は去っていった。
もしも。あくまで、もしもの話にすぎないけれど。
あの時違う言葉を選んでいたら、と、ライヒムの正妃ではなく側妃になってから、数度考えた。
あの日から彼は、明らかに女生徒との距離が近くなって、色々な娘と頬を寄せて指を絡め、恋人のように振舞うようになった。私との不仲説は濃いものになって、私がうらやましいと囁いていた子たちは、どうやったらライヒムの妃になれるのかを話し合うようになっていた。
それでも何もしなかった。する必要がなかった。
王家も辺境伯も、王子の振る舞いを知って静観している。ならば、私が動く必要も、理由もない。
王子の振る舞いを批判し、私に本当にいいんですかと問うのは国の中枢に関わらない、普通の貴族の子息や一部の女生徒ばかりで、エフィナもそのうちの一人だった。
エフィナ・リカレス。彼女は、図書室で課題が解けなくて困っているところを、私から声を掛けた。決して豊かとはいえない彼女の領地は孤児院の運営に力を入れていて、引き取られた養子がまっとうな暮らしをしているか確認するための、独自の制度もあった。詳しく仕組みを知りたかったから助けただけなのに、彼女は私を慕ってくれて、ネレイスなんて平民上がりは王妃に相応しくありません、と言い出す娘が現れるたび、大きな目を見開いて、猫のように肩をいからせて怒るから、なだめるのが常になっていた。
「ネレイス様が怒らないからって好き勝手ばっかり!殿下も殿下です、ネレイス様への侮辱を聞いても怒らないなんて、だからみんな、つけあがるんだわ!学園に入る前からいくつもの法案を通した優秀な王太子様ってみんないうけれど、あの法律を考えたのは、ネレイス様じゃないですか!」
卒業も近くなった、ある日のことだった。
夕暮れの図書室で2人きり、いっそ泣き出しそうな顔で憤る少女に、掛けようとした言葉が止まった。
「……それを、誰に聞いたんですか?」
背を撫でていた手も止まる。彼女は耐えられないようにこぶしを握って、その目のふちには涙が溜まっていた。
見ていれば分かります、いつもあなたは貧しい人たちのことを考えて、誰かを助けるための知識を求めていました。王太子様はきゃあきゃあ言う人たちに手を振るだけで、作った法律に言及したことも、貧しい人々について語ったことも、一度だってないじゃないですか!
常になく大きな声で、瞳を揺らして彼女は怒る。
一度、瞬きをする。そうしてエフィナの唇に人差し指を当てて囁いた。
「そうですか。―――どうか、それを、誰にも言わないで。秘密にしてください」
彼女は不満げな顔をして、それでもはい、とうなずいた。
良い子で、優しい子だった。嫉妬から大半の女子生徒から嫌われるようになったいまでは、この学園の中で、もっとも近しい相手と言えるだろう。
それでもこの子と、距離を取らなければいけない。それくらい聡いな、と指を離しながら考える。
勉学の出来や、知識の量とは違う意味で聡明だ。そうしてこの聡さは、私が越えてほしくない一線に届くだろう。
この子は不満げに吐き捨てたけれど、貧しいものに職を与えるあの法案は、王太子が作ったままでないといけない。この国の王太子が言い出したから、あんなにスムーズに施行されたのだから。
ありがとうございます、と慣れた微笑みを浮かべる。その裏で、私を助けようとするこの子をどうやって遠ざけるか、頭を巡らせた。
∮
当時、エフィナには婚約者がいた。伯爵家の次男で彼女の4つ年上。気が弱いところもあるけれど、私より記念日を覚えて大事にしてくれる、とてもやさしい人なんですと、よく嬉しそうに話してくれていた。
私が側妃になって、彼女もその人の妻になって。舞踏会などで公務を行う為だけにいる側妃、と蔑まれていたとき、彼女は何度も声を掛けようとしてくれた。
けれど、その視線を無視した。ただの伯爵家次男の妻が、この国の王が良しとしている側妃の扱いに、楯突こうとしているのだ。到底許されることではなく、不興を買えば彼女は簡単に罰されて、貴族としての籍も、家族も失っていたかもしれない。
あくまで一時知識を得る手段として近づいただけと遠ざけて、国を出るときすら思い出さなかった。とうの昔に他人になったと思っていた娘だった。
「……エフィナ。どうか、泣かないでください。あなたが謝る事なんて、何一つないでしょう?」
子供のようにしゃくりあげるエフィナの涙は、まだ止まらない。
かわいそうに、と濡れた頬に指をあてる。本が好きで、人見知りをする子だった。知らない兵士に話しかけるのも囲まれるのも恐ろしかっただろうに、帝国の王の前にいる今も、怖いだろうに。
それでもここまで来るほどの罪悪感を、ずっと抱えてきたのだろうか。助けられなかったなんて、抱える必要のない、罪ですらないもののために。
だとしたら、本当に、可哀想に。
「私、ネレイス様にあんなに助けていただいたのに、何もして差し上げられなかった……!」
「……その気持ちと言葉だけで、とても嬉しく思います。さあ、もう帰りなさい」
まだ鼻を鳴らす彼女を宥めて、また話をしましょうね、とかつてのように背を撫でてから、グランヌスから連れてきた侍女に託す。
またとは言ったけれど、きっともう、言葉を交わすことはないだろう。可哀そうにともう一度思いをはせる私の横顔を、なぜかクヴァルは、じっと見つめていた。
「親しかったのか?」
「いいえ、けれど本当にいい子でした。だから今日まで、私なんかの事を引きずってしまったんでしょう」
「そうか。…… まだ、寝る時間には早いな。茶を淹れさせよう」
少し考えるような仕草をしたけれど、彼は何も言わなかった。そうして視線一つで、侍女にカップを用意させる。
それから、2人でテーブルを挟んで、ぽつぽつと話をした。今日の会議のことなど話すべきことは多くあるのに、彼が聞くのは学生時代の私と、エフィナのことばかりだった。
そうして、夜が濃くなったころ。もう寝るぞ、とクヴァルは天蓋付きのベッドに、私の腕を引く。いつも通り抱き込まれて、おやすみ、という囁きと共に照明が落とされる。
「ええ。……おやすみなさい」
熱い腕のなか、闇に目を慣らしながら、ふと考える。
例えばたった今、この部屋にライワールトの兵が乗り込んできて、私たちを殺そうとしたらどうするか。
私の知るライヒムは腹芸をできるような人物ではなく、昨晩の晩餐会も今日の会議も憎々しげにこちらをみたけれど、その瞳に敵意は感じられなかった。
ライヒムに戦争を行う気はないだろうけれど。
万が一のために眠らないほうが良いのだろうか、と思考を巡らせていれば、安心して眠れ、と小さな、互いにしか聞こえない声で囁かれる。
「お前が思うより俺と、この部屋の周りに置いた奴らは腕が立つ。お前1人、連れて逃げるくらいはしてみせよう。それにこの国を訪れるまで散々間諜に調べさせたが、少なくともライワールトの騎士団は、あちらから戦争を起こす気はない。だから、お前を連れてくることを許したんだ」
本当に嫌だがな、の言葉だけ低くて、少し笑う。
「そうですか。……ちなみに、この部屋の2つ右のゲストルーム、暖炉の彫刻を押すと城から出られる隠し通路があります」
「なぜ知っている」
この国の側妃だったので、と答えれば、彼はくつくつと笑った。
もし、ライワールトの兵がこの部屋に押し寄せて、私たちを殺そうとするのなら。
クヴァルは剣を抜き、私の手を引いて、逃げ仰せて見せるのだろうか。
それは、少し。
面白そうだなと、落ちる意識の間際に、考えた。




