招待
書類にサインをし、孤児院の子とたまに食卓を囲み、それより多い回数クヴァルと食事をして、共に眠る。
平凡でありふれた日々は賑やかしいのに楽しくて、あまりに幸福で、けれどいつまでもは続かないと、ちゃんと理解していた。
彼らが王宮にきて3月ほどたった、ある日のことだった。
孤児院の子の1人に、手紙を渡された。兵士さんにお願いした、困った顔されたの、ネレイスお姉ちゃんなら届けてくれると思って、と朗らかな、明るい笑顔とともに。
それはかつての国境にあった孤児院のそば、辺境伯領に住む、その子の友人への手紙だった。
「いきなりお引越ししたから、ジャックは僕がいなくなったってびっくりしているでしょう?だからお引越ししたんだよ、お家が大きくなって、毎日楽しいよって教えてあげたいんだ!」
いつかジャックもうちに来てほしいなあ、遠いから難しいかな?とその子は言う。
その子の瞳に、故郷を離れた寂しさや、その原因になった私への怒りはなかった。それでも、国境の孤児院にいた友人に会いたい、難しければせめて手紙を、とはつらつとした声で語る。
「……少しだけ、待ってもらえますか?」
いいよ!と少年はなんのてらいもなく笑い、手紙を預けてくれる。便箋には大きく右上がりの文字で、ジャックへ、と彼の友人の名前が書かれていた。
人差し指で、文字をなぞる。
ライワールトとグランヌスはひとまずは友好国という事になっているが、数十年前まで何百年と争っていた間柄だ。特に今はあんな形で国境を奪い取ったから、あの子に相談された兵士が変な顔をしたように、この国からの郵便物、とくに王宮から辺境伯の領地に宛てられるものは、検閲が入るに決まっていた。
もちろんこの手紙を届けるだけなら簡単だった。ライヒムのように馬鹿正直である必要はない。国交が断絶しているわけでもない相手、すこし手紙を送るときに細工をすれば、ジャックにこれを届けることが出来る。
けれど、それでいいのか、と考える。
そうして、あの知らせが入った。
手紙を預かってから幾日と経っていないその日、クヴァルが私を見る目が、いつもとすこし違った。確証はない。けれど、何かを隠している。
長々と続いた会議を終えた、夕暮れの事だった。そろそろ老害どもの頭数を減らすか、とつまらなさそうに指先で机をたたいていた男は、従者の一人に紙を手渡されて、それからずっと、私を連れて自室に戻ってからも、常とは違う色で、瞳を伏せていた。
あの従者は、とくにライワールトへの諜報を主に行っていた。視線を向けると大きなため息をついてから、クヴァルは言葉を漏らす。
「ライワールトに潜り込ませている間者から報告があった。ライヒムは……まだお前をほんの少しも諦めていないライワールトの国王が、正妃と離縁を考えていると」
「…………は?」
ライヒムが、アンジェを?
冗談でしょうと言いかけて、彼にこんな嘘を吐くメリットはないと思いなおす。
アンジェ・コウン。歴史の長いコウン伯爵家の娘で、いまのライワールトの正妃。ライヒムは学園にいたころから多くの女子と距離が近かったけれど、アンジェは特に、共にいる時間が長かった。
かつては2人のつないだ手や寄せられた頬を何度も見て、アンジェからはライヒム様に相応しいのはわたし、あなたなんて平民の血をひくくせに彼の婚約者だなんて許せない、と繰り返し言われた。そのたびにどうでもいい、と意識の外に追いやった。側妃になってからも、ライヒム様の慈悲で側妃にしてもらっただけの女が調子に乗らないで、と突っかかられ、それも聞き流してきた。
即位後のライヒムと正妃となったアンジェがどんな仲だったのか、公務ばかりしていた身だから詳しくは知らない。けれど多くの女子生徒から選んだはずの彼女は、簡単に切り捨てられるような相手だったのだろうか。
「本当ですか?2人の間に子供がいないとはいえ、まだ婚姻を挙げて3年も経っていません。簡単に国王と正妃が離縁などできないでしょう」
「それだけライヒムはお前を取り戻したがっているということだろう。……アンジェ・コウン自体はどうでもいいさ。お前に嫌がらせをしていた女だ、どこかで野垂れ死にすればいい。だが、あの男は少し、しつこすぎるな」
殺すか、と平然と呟く彼の頭の中では、幾千の策が浮かんでいるのだろう。言葉通りライヒムを殺す方法も、ライワールトを滅ぼす方法も含めて。
息をつく。あの子から預かった、引き出しの便箋を思い出す。
そうして瞳を閉じる。かつての夫。ライヒムが考えそうな手段。それに対処するときのクヴァルの選択肢。その結末。彼らの目的。
眼を開ける。
隣の国だ。いつまでも逃げられるわけがない。向き合う時が来たのだろう。
燭台に、揺れる炎に、そっと目をやる。
「クヴァル様。どんな理由でも、私と貴方に向けた、ライワールトからの招待状はありますか」
「あるが。―――まさか」
「ええ。私と、ライワールトに行ってはいただけませんか?」
∮
言い訳をするなら、彼は断るだろうと思っていたのだ。
ひとまずはライワールトとグランヌスは友好的な関係を築いているから、年に一回のお互いの国を訪れる賭けの日以外にも、交易を結ぶ際などに相手の国の王族を招待することはある。とはいえ因縁ゆえに大使が訪れるばかりだし、ライヒムの顔など見たくないとグランヌスからライワールトの王族を招待することは滅多にない。
私がグランヌスの戦利品になって以来、私を戻せ、という手紙のほかに、ライワールトからクヴァルや私に招待状が送られる頻度は酷く増えた。放置するか破り捨てられていたそれらの一つに、応えてほしい、といま、彼に願った。
「……ライヒムは大喜びだろうな。醜態をさらすほど執着した女が、のこのこと手元に来るのだから。お前の父親も、ライワールトの大臣どもも喜ぶだろう。うすっぺらい和平を破ってでも、ふざけた賭けで奪われた国境を奪い返す絶好の機会になる。それでも行きたいと言うのか?」
タン、タン、と一定のペースでうつくしい指先が机をたたく。
彼のこんなに不機嫌そうな顔は、初めてみた。
「はい。あの国の王に……ライヒムに交易のためと呼び出しておきながら、騙し討ちで相手を害する真似は出来ないでしょう。彼もライワールトも、戦争を仕掛けるような性質ではありません」
実際クヴァルの臣下からの報告を聞く限り、国境が変わったいまですらライワールトの民に危機感はないのだから。もっともそれは国王の失態を隠したいライワールトが情報を伏せたことと、国境の小さな孤児院の人間が引っ越しした以外、グランヌスからはなんの音沙汰もないゆえだろうけれど。
「恋に狂った男など、なにをしでかすか分からないのに、か?」
深く深くため息を吐かれて、案外粘るな、ここまで嫌がるのかと内心首をかしげる。
いくらでも換えのきく私と違って、この国の王はたった1人しかいない。ライワールトを訪れるなんて彼は迷わず断るだろうから、それならばと私1人でライワールトを訪問する許可を得ようと思っていたのに。
心を読んだとでも言うように、クヴァルは呟いた。
「もし1人でライワールトに行きたいと言い出していたら、俺の部屋にでも閉じ込めていた」
地を這うように、低い声だった。
「…………まさか。私は、あなたの妃です」
けれど、ライワールトのこともライヒムも、私の過去だ。彼の―――グランヌスの帝王が、手を出す必要はなく、彼が得られるものも少ない。
内心で呟けば、どうだかな、と自嘲するように男は笑う。
「ネレイス、お前は恋の愚かさをもうすこし学ぶべきだ。まだグランヌスとライワールトが戦争になることは望んでいないのだろう?お前が奪われるなら城だろうが国だろうが焼くぞ、俺は。……お前ひとりでライヒムの元に送るくらいなら、俺も訪れる方がよほどましだ。王の見送りと称して、兵を国境沿いに並べておくか。決められた日に俺が戻らなければ、戦争をおこし、何もかもを焼き尽くせと伝えておく」
それでもライワールトに行きたいのか?と、と軽く肩を押されて、それだけで、ベッドに座り込んだ。力は込もっていない、けれどどうしてか動けない。ぞっとするほど鋭い、血の色の瞳。
そうだった。彼は、―――この国の王は、決して、守られてぬくぬくと玉座を手に入れた男ではなかった。私ごときよりもずっと多くの死線をくぐり抜け、彼自身も幾度も血の雨を降らせた人間だった。
夜、ベッドで服を脱いだ身体にある、傷痕を知っている。
それでも。
「ええ。……いまライヒムを放置しても、妃を捨てるほど私がライワールトを離れたことが気に食わないというなら、いつか必ず彼は、逃れられない状況で私について言及するでしょう。それが例えば、他国を巻き込む形であったなら?隣の国です。いつかは向き合わなければいけないなら、早い方がいい。正式にライヒムが正妃を切り捨て、その醜聞が他国の耳に入るより早く。こんな騒動が面白おかしく囃し立てられるより、早く」
……いつまでも、こんな穏やかなだけの日々は、続かないのだから。
はあ、と。深く深く、溜息をつかれた。
∮
ひどく、ひどくいやがったけれど、頷いてくれるあたり、クヴァルは私にとびきり甘いのだろうと思う。
招待状に返事をしたためた後も、やはりやめないかと提案されたことは数あれど、口調も態度も落ち着いたものだったし、私や孤児院の子達への態度も、まったく変わらなかった。
けれど出発の当日は、朝から言葉少なく機嫌も良くなさそうで、心配性な旦那さんなのねと、見送りに来てくれたレベッカにも呆れた顔をされた。ライワールトに向かう馬車のなかでは、くれぐれも俺から離れないでくれ、と隣に座ったまま腰に腕を回される。
「もちろん。あなたの妃として訪れるのですから」
「賭けで奪った孤児院の人間の、家族としてではなく、か?」
痛くはないけれど、腕に力が込められた。
「…………ええ」
囁くように返事をする。彼が言ったのは孤児院の子供から預かった、友人あての手紙のことだろう。驚きはなかった。彼が知ろうと思って、得られない情報の方が珍しい。
ジャックへと綴られた、預かった手紙は今も、懐の中にある。
瞳を閉じて、馬車の振動を受け入れる。いつまでも逃げられない、と彼に話した言葉を反芻する。
私のせいでライワールトの国王が正妃を捨てたなんて醜聞が起こる前に、ライヒムの執着を殺さないといけない。それは本心だった。
今の生活を、心の底から好ましく思う。愛する家族はみんな元気で、訪れれば笑顔で出迎えてくれる。彼らが空腹でないか心配しなくていいし、何をしたい、という願いを聞いて、その手助けだって出来る。
指を絡めて、この時間が一番幸福だとクヴァルは少し前、私に話した。似たような感情を孤児院にいるとき思う。レベッカに似合う化粧品を贈るとき、シスターに孤児院に置く家具や本について相談するとき。
子供たちから城下街を遊んだお土産を受け取って、こんなものがあった、と楽しかった話を聞くときに、10年近く昔の、孤児院にいたころと同じ幸福を覚えた。
彼らのためなら、私はそれ以外の全てを消費し利用できる。ほんとうに必要なら、ライヒムに甘言を囁き、跪いてまた従順になることを誓うことだって、ためらわず出来るだろう。そうして油断させたところでワインに毒を盛って、かつての夫を殺すことだって。
けれど、もしそうせずに済むなら。私はライワールトをどうしたいのだろう。
ぼろぼろで隙間風が吹くような孤児院のある、愛する人々の居た、あの国を。




