日々と呼ぶには
クヴァルは、……私の夫にしてこの国の王は、シスターや孤児院の子供達のために、宮殿の端に屋敷を用意してくれた。
青い屋根のその家は、雨が降ればそこかしこで雨漏りしたかつての孤児院と違って、中庭と図書室と小さな礼拝堂があり、門に近いから城下街にも出かけやすい。
彼らを招いて最初の日、好奇心あふれる子供達は、屋敷の探検をしていた。2日目には屋敷周辺の庭を走り回るようになり、1週間後には王都の治安の良いところを散策するようになっていた。
絹の服を用意しても着やすいから、と麻のシャツを好んで、屋敷の周りを駆けまわっては、様子を見にきた兵士にでっかいのいた!と大きな蛙を見せつけて、腰を抜けさせたこともあったという。
あり得ないと思っていた再会はあっけなく、それからの日々も、ありふれたものだった。
この屋敷が気に食わなければ新しいものを建ててもいい、家具もすべて好きに買い替えろ、とクヴァルは準備金も潤沢に用意してくれた。0がとんでもなくたくさん並んでいたのよ、受け取れるわけがないでしょう、とシスターとレベッカに大半を返却されたらしいが。
ついこの間、青い顔をしたレベッカに叫ばれたことを思い返して、また笑みがこぼれる。
「いい、ネレイス。ライワールトの王子様の婚約者だったあなたが知らないうちにグランヌスのお妃さまになっていたのは、びっくりしたけれどまだいいの。あなたはどんな男でもくらっとするような美人だし、国が違うだけでお妃さまになるはずだった子がお妃さまになっただけだものね、そんなこともあるでしょう。でもね―――でもね!?そのお妃さまの実家だってだけで、いきなり泳げそうなほど大きなベッドやドレスや金細工の髪飾りを用意されると、庶民はびっくりしちゃうの!あなたの旦那様に伝えて頂戴、用意して頂いたティーセットは落として割るのが怖すぎて、絶対に戸棚から出せませんって!」
「そうですか、レベッカ。ちなみにその戸棚も、ウィルシャムのものですよ」
「あー聞きたくない聞きたくない!」
ウィルシャムってなによ、と叫んで耳を塞いだレベッカ、―――成人した後もシスターの右腕として孤児院で子供たちの世話をしていた親友の姿は、今思い出しても胸が暖かくなるものだった。
10年も経っているから当然だけれど、孤児院の子供の面子は、大きく変わっている。かつてを知っている子はほとんどおらず、けれど子供達はみんな、あの人に育てられたからか、良い子ばかりだった。
かつての日々の夢を見ることはあっても、もう一度彼らと共に過ごすなど、想像すらしなかった。だからこの日々はまだ現実味がなく、宙に浮いているようだ。
「シスター。今、大丈夫ですか?」
夕暮れ時のことだった。
もう足音が鳴ることの無い廊下を進み、孤児院の彼女の部屋をノックする。
「もちろん。どうしたの?ネレイス」
「渡したいものが……。部屋に入っても?」
扉越しの了承の声に入った彼女の部屋は、真新しい白い壁を蝋燭の灯が照らしていた。
まだ数冊しか本が並べられていない本棚に、すすの付いていない燭台。ずっと賑やかしいこの院は、この時間は出掛けたりうたた寝をする子が多いせいで、音も人気もあまり感じられない。
「渡したいものって?」
彼女は丁度、机で何か、書き物をしていたらしい。
問われてこれを、と懐から小さな瓶を―――植物の精油を含んだ、ハンドクリームを取り出す。綺麗な瓶ね、と彼女が明るい声でいうから、跳ねる心臓が少しだけ落ち着いた。
「ハンドクリーム?」
「ええ。手荒れに良く効くと聞いたので、取り寄せてもらったんです。もう持っているか、誰かに貰ったかもしれないとは、思ったのですが」
彼らがここにきて初日に、欲しいものがあれば好きに購入してほしいと伝えてある。子供たちの部屋には遊び道具や24色の絵具と厚紙が増えていたし、この部屋の隅のチェストの上にもガラスの小物入れが置かれていた。
「付けてみてもいい?……ふふ、いい香り」
でもつけすぎちゃった、貰ってくれる?そう言われて、片手を差し出す。1秒だけ掌が重なって、切りそろえられた短い爪と、ささくれた指先の赤みをぼんやりと見た。
シスター、と彼女を呼ぶ。
「今の暮らしに、支障はありませんか」
この人のささくれた指先が癒えればいいと、ずっと思っていた。そうして、すべての望みが叶えばいいと。
どんな望みでも必ず叶えたのに、彼女たちをここに呼んで初日に同じ問いをしたときは、かつて孤児院で暮らして今も縁のある子に引っ越しについて伝えておいてほしい、と言われただけで、彼女自身のための望みは、ついぞ言葉にされなかった。
辺境伯からのわずかな支援しか渡せなかったかつてと違って、今なら何でも出来る。差し出せるのに。
「不満?まさか。本当によくしてもらっているし……」
クリームを塗り広げながら、彼女は首をかしげる。
「そうですか。欲しいものでも、環境についてでも。何か思いついたら、どうか教えてくださいね」
「ええ。あなたも、私たちに出来ることがあれば教えてね」
はい、と応える声は、ぎこちなくなかっただろうか。
出来ること、だなんて。この人達の日々が平穏であるならば、それ以外、何も望まないのに。
ずっと。
∮
燭台の炎が揺れる。赤と黒の髪が、わずかに色あいを変える。
「今日はグランヌスに昔からある話の読み聞かせをしたんです。色々な本を読みましたが、特に冒険譚が人気で。ライワールトにも似た物語があると、盛り上がったんです」
豪勢な後宮は、それでもクヴァルの居室のある主階に比べれば落ち着いたものだったのだと、王宮に出入りするようになって初めて知った。
廊下は金細工や骨董品が並べられ、壁には歴史ある絵画ばかりが掛けられている。さぞかし帝王の部屋も贅を凝らしたものだろうと考えたけれど、派手好きなわけじゃない、と最も私的な場所であろう寝室は、質こそ最高のものだけれど、落ち着いた深褐色の家具で整えられた、どこか静かな部屋だった。
この部屋にも隣の男にも、慣れつつある自分が恐ろしい。
今日も今日とて私の膝に頭を乗せて、髪を弄って遊んでいる男―――グランヌス帝国の王、クヴァル・レヴェスターに今日起こったことを報告する。あまり興味なさそうに聞いた男は、膝の上で寝返りを打った。
「数百年単位の腐れ縁だからな。まだ慣れないだろうが、グランヌスについても覚えた方がいいだろう。教師を付けるか?王族付きの者を呼んでもいいが」
今もそうと示してはいるが、俺が目を掛けていると周囲に知らしめれば、彼らにとっても後ろ盾になるだろう、と赤い瞳がこちらを見た。
「それは……。ありがたいことですが、シスターやレベッカとも相談していいですか?」
かまわない、と彼は私の手に指を絡めた。
「そういえば、臣下から国営の孤児院に関する意見書が複数挙がっている。あとで目を通しておけ。……飢えるものに家を、民に仕事と給料を、か。そんな法案を提出すれば俺に名を覚えられるかもとはいえ、おやさしい政策も随分と増えたものだな」
使える者がいるのは確かだが、と。つまらなさそうに、それでも鼻で笑いはせず、絡んだ指を握りこまれる。
驚くほどに、平和な日々だった。
この国の正妃であるかのように公務を行い、合間に孤児院を訪れる。シスターもレベッカも、子供たちも歓迎してくれて、今日は何があったとか、これが楽しいとか、城下街のここに行きたいとかの話をしてくれる。
つい先日は見たことの無い花に喜ぶ子のために花輪を編んで、昨日の昼はこの家は砂糖も果物も沢山あって凄い、と料理好きな子がはじめて作ってみたお菓子を貰いもした。
そうして夜はクヴァルと、彼の部屋で眠りにつく。
最初はいっそ、あの屋敷で寝泊まりしようと思っていたのだ。レベッカも、部屋も寝具も大量に余っているから、と歓迎してくれて、凄く大きなベッドだもの、昔みたいにおんなじベッドで眠るのもいいわね、と言ってくれた。
彼女の言葉はとても魅力的だったけれど、止めたのはクヴァルだった。
「それを望むのは分かるが、ネレイス、お前は放っておいたら孤児院から出て来なくなるだろう。何より、お前の夫は心が狭い。2度と俺以外と共寝は出来ないと思ってくれ」
そう言い切って、孤児院に長居しているとわざわざ迎えに来るのだ。一国の王が。
「ネレイスねーちゃんを連れてっちゃうの?」
「ネレイスが俺達の部屋に帰るんだ」
「おーさまも泊まっちゃえば?」
「お前たちの教育に悪い」
そう、すっかり院の子たちとも顔馴染みになって、臣下が聞けば4度見した後に耳を疑うような気安いやり取りを交わすようになっている。教育に悪いってなあに?と子供たちに聞かれた時にはクヴァルの足を踏みつけようか、一瞬だけ本気で悩んだ。
ついこの間の、久しぶりに本気で思考を回した瞬間を思い返しながら、手を解いて膝の上でくつろぐ男の頬を、ほんの少しだけつまむ。
何をするんだ、と全く嫌がってなさそうな声音でまた指先を捕まえられた。
「ああ、それと。ライワールトからまた文が届いたぞ。いつも通りライヒム直筆のお前宛だ。読むか?」
「いいえ。すでにあなたは読まれたのでしょう?内容を教えてくださるだけで十分です」
返事に、満足そうに彼は笑う。先程までと違って、機嫌は良さそうに見えた。
「はは、そうか。……可哀そうなネレイス、悪虐の帝王に囚われているのだろう、だと。卑劣な手段で賭けに負けてしまったせいで、好色な帝王に気に入られてしまった。あんな男、気に入っていると嘯くのは今だけで、すぐにお前に飽きて、ひどい目にあわされるに違いない。待っていてくれすぐに助ける、と書いてあった。笑えるな?」
あいつはお前を、魔王に囚われた救うべき姫君とでも思っているのではないか、と。
赤い瞳が細められた。
またそんな内容か、とため息を吐く。2度目の賭けの日、ごねようとするライヒムを国に叩き返した日から、1週間も待たずにライワールトから手紙が届く。
内容はずっと私をグランヌスから取り戻してみせる、というもので、国同士の争いの元になりかねない内容を馬鹿正直に送り付ける所業には、めまいを覚えた。
最初こそ一応私に確認を取ってから手紙を破り捨てるか燃やせ、と命じていたクヴァルは、最近はもう手紙を私に見せることすらしない。
「俺は嫉妬深いと言っただろう。他の男からの懸想の文を見せるというのが、いい加減に不快になってな」
そう言って、かつての夫だったライヒムに思いをはせることを良しとしないし、直筆の手紙を読ませることも嫌がる。彼がそういうなら、代わり映えのしない内容をわざわざ読みたがる理由もない。思考を割きたいことは、他に多くあるのだから。
腕を引かれて、ベッドに横たわる。代わるように男は身を起して、そのまますぐ隣、同じ枕に倒れ込んだ。そうするのが当然、とでも言うような手つきで抱きすくめられる。
ふいに、視界の端に赤い果実が映った。
サイドテーブルに置いた、2粒の蛇苺。
子供達から貰った野いちごはあの後口にしたけれど、食べられないそれだけ、どうしてかこの部屋まで持ってきてしまった。
まだ鮮やかな赤から、瞳を逸らす。
「随分と……」
「ん?」
「気分が、よさそうですね」
「はは。まあな」
この時間が一番幸福だ、と髪に顔をうずめてクヴァルは笑う。背に手を添えて、そうですかと呟いた。
この男は私を寵愛していると、周囲は言う。多くの反対を捻じ伏せて後宮を潰し、妃を私一人にした。その家族であるからと平民の集団を王宮に住まわせ、不自由ない暮らしを与えている。
もちろん貴族からの反対は多かったが、そんな言葉よりずっと、彼は優れていた。
人間に興味を持たないだけで飴を与えて利用するのは慣れているし、有能な人間を見極めて相応しい地位を用意も、必要なら根回しもする。
彼の底知れなさを、人の上に立つためにいるような男だということを、この国の政に携わるようになって、改めて知った。
帝位を手に入れてたった2年で、長年の敵国から国境の土地を奪い取るような、前代未聞の王だ。そんな人間が、こんな時間を好ましいと、私が望むなら何でも与えるという。
彼こそ、望むなら人でも物でも、なんでも手に入るというのに。
「あなたは……。いえ、なんでもありません」
どうした、と問われて口をつぐむ。上手い言葉が見つからなかった。代わりに髪に指を通す。
不思議そうな顔をした男から、唇はすぐに降ってきた。
燭台の、炎が消える。




