30 義兄から義妹への
「ロザリー、ここを出るぞ」
「は、はい」
クリストファーはロザリンドを抱え上げると、空中に足場を作って軽やかに飛んで移動していく。
ダンジョンは氷の世界となっているのに、不思議と寒さは感じなかった。
クリストファーの傍にいることで、寒さから守られているのだろうか。
そうして、あっという間にロザリンドが落ちた崖の上まで戻る。ここまでくると氷の影響は少なかった。
(この氷は溶けるのかしら)
魔法の氷だ。そう簡単には溶けない気がする。そうなれば、誰も足を踏み入れられないダンジョンが完成する。
底で封印されたベラドリスも、永遠に戻ってこないだろう。
「……しかし、しまったな。魔導書の回収も任務の内だったのだが……」
クリストファーの呟きに、ロザリンドは驚いた。
(えっ? まさか、うっかり?)
わざとではなく、その場の勢いで魔導書を破壊したのだろうか。
「……聖女様に怒られてしまいますね」
「仕方がない。お前の方が大切だ」
当然のように、聖女の任務よりもロザリンドを優先する。
「……私が捕まってしまったからですよね。足手まといになってすみませんでした」
「それは違う。お前を守れなかったのは、俺の落ち度だ」
「…………」
「いや、これも違うな……ロザリー、お前さえ無事なら、他はすべて些事だ」
少し考え込んでから紡がれた言葉に、ロザリンドはびっくりした。
「足手まといでもない。むしろ、傍にいてくれた方がいい」
「お兄様……さすがにそれは甘すぎます」
失態を犯した相手にする態度ではない。
「本心だ。お前は好奇心旺盛で、勇敢で、それでいて慎重でもある。しかし、だからこそ危なっかしい。傍で守れた方が、俺にとっては都合がいい」
話しているうちに、ダンジョンの外に出る。
太陽の光と、清々しい空気。ロザリンドはようやく安堵の息をついた。
――結果だけ見るならば、魔人ベラドリスは倒され、大きなトラブルもない。
ただ、魔導書が失われたことで、これからどんなストーリーが展開するかまったく見えなくなった。
「こんな時に、変な話をしますが……お兄様は聖女様のことを、どう思っていますか?」
「どういう意味だ」
「心惹かれたりしませんか? 愛しく思うとか」
「まったくない」
断言する。
「では、どうして聖女様の命令を聞いたりしているのです?」
一人での調査任務を与えられたり、魔導書の回収任務を与えられたり。
どう考えても危険なものなのに、どうして命令を聞いたのか。
「俺の地盤を確固たるものにするためだ」
「こ、これ以上ですか?」
「後ろ盾はいくらあってもいいと思っていたが……聖女派と思われるのも厄介だな」
ぽつりと零し、ロザリンドを見る。
「お前を危険な目に遭わせてしまったり、誤解をさせたのも問題だ。聖女と神殿とは距離を置くことにしよう」
「そんなあっさり?」
あまりにもあっさりと身の振り方を変えてしまうことに、驚くと同時に呆れてしまう。
そして、いよいよ思い知る。本気でアリーシャのことは何とも思っていないのだと。
(……あのアリーシャと結ばれることになっても複雑な気持ちだけれど……こうも脈がないとなると、私はいままで何のため……)
十年近くに渡る計画がガラガラと崩れ去っていき、さすがに疲労感を覚えた。
思えば最初から、無謀だった。他人の気持ちを自分の思うとおりに動かそうなんて、おこがましいにもほどがあった。
(もう、やめやめ。私に策略なんて似合わない。やっぱり、武力と魔力よ。『エターナル・リンクス』そのものが、レベルを上げてぶん殴れってゲームバランスなんだから!)
考え込んだところで仕方ない。
結局は、動くしかない。
身体を動かしている方が、頭を働かせているよりずっといい。
自分を納得させていると、クリストファーが面白いものを見ているかのように微笑んでいるのに気づいた。
「どうされました?」
「ん? 元気になったようで安心しただけだ」
――その微笑みは、ずるい。
胸がそわそわして、なんだか落ち着かなくなる。
ロザリンドは何とかいつもの調子を取り戻したくて、何か話題を探した。
「お兄様……そんなに次々と距離を置いていけば、お兄様の周りには誰もいなくなってしまいますよ」
クリストファーは誰相手でもすぐに距離を置こうとする。イザベラのこともそうだ。一言窘めようと思って言うと。
「構わない。お前がいる」
「私がいたところで――」
義理とはいえ兄妹だから離れることはない。だが、ロザリンドは無力だ。
後ろ盾にもなれないし、戦いでも足を引っ張っている。
「他には何もいらない。必要なものは、自分で手に入れる」
クリストファーは自信のこもった眼差しで言う。
実際、彼にはその力がある。
魔力も、剣才も、人を惹きつける力も。そして何より、自己の力に対する絶対的な自信が。
――ゲーム中のストーリーでクリストファーが闇落ちしたのは、愛に飢えていたからだ。生まれてからずっと誰にも愛されなかった――誰にも認められなかった彼は、自分の力を誇示するために、闇の力に傾倒し、やがて世界の敵になった。
いまのクリストファーには、闇の力に誘惑されない力がある。確固たる信念と自立心があるゆえに、他人と距離を置くのも厭わない。
まるで、夜空で一番眩い星だ。
誇り高く、自らの力で輝く。強い星。誰もが憧れ、見惚れる星。
「――お兄様は、いったい何をしたいのですか?」
およそ人が望むものをすべて持っているだろう義兄が、一体何を望むのか。
完璧であり続け、さらに地盤を固めて、これからどうするつもりなのか。
問いかけると、クリストファーはふっと笑った。
「ロザリー。俺の望みは昔から変わらない。お前を守り、傍にいる。それだけだ」
その声は、その眼差しは、いつもの義兄のように優しく、ロザリンドに向けられていた。
(――違う)
いつものようにではない。
いままでと同じようにではない。
――いや、きっといままでもそうだった。
ロザリンドが直視しようとしていなかっただけで。気づかないようにしていただけで。
目の前にいるのは「義兄」ではない。もちろんゲームキャラでもない。
クリストファー・ロードリックという、一人の人間だ。
宝石のような、夜空の一番明るい星のような青い瞳が、ロザリンドを見ている。
――見ている。
「ようやく、俺自身を見たな」
「……あっ……」
クリストファーがロザリンドを見ているように、ロザリンドもクリストファーを見ていた。
初めて、クリストファー自身を。一人の人間として、男性として。
「あ、あの……勘違いでしたら謝ります。お兄様は、もしかして本気で、私と結婚するつもりですか?」
ロザリンドの傍にいることを望み、他には誰もいらないということは――そういうことなのだろうか。
血がほとんど繋がっていないから、法律上は問題のない結婚だ。
だが、ロザリンドには、才能もなければ精霊の加護もない。欠陥だらけで完璧とはほど遠い。そんな自分と、まさか――
「そもそも、結婚したいと言い出したのはロザリーの方だろう」
「あれは、子どもの戯言です……」
クリストファーがそれに気づいていないはずがない。
六歳の子どもの戯言を本気にしているわけがない。
「そうだな。俺も、最初はそう思っていた。だが、共に過ごすうちに、お前のことを知るほどに――……俺自身が、その約束に縋っていた」
クリストファーはどこか嬉しそうに、ゆっくりと言葉を続ける。
「だから、お前が他の男との結婚を考えていることに驚いた。そして俺も、ようやく自分の気持ちに――この感情の正体に気づいた」
小さく笑う。自嘲するような、昏い笑みだった。
「親愛でも、家族愛でもない。愛だの恋だの、そんな綺麗なものでもない」
「…………」
「こんなものに一生囚われるのも不憫だと思い、一年の猶予を与えた。だがそれも、醜い執着だったな」
――そんなことはない、と言いたいのに。
口が動かない。
「――どうしても嫌だったら言ってくれ。ロザリー、お前の意志を尊重する。義兄から義妹への、最後のプレゼントだ」
「……私は」
ぎこちなく、口を開く。
ロザリンドは自分の気持ちを伝えるためにどうしたらいいか悩み、そしてクリストファーの手を取った。
「私は、お兄様を助けたかっただけなんです。結婚したいと言えば、お父様もお母様も、お兄様を大切にしてくださると思って……」
「ああ」
「一生縛り付けるつもりはなかったんです」
――結婚は、婚約は、ただの手段で。
そこにはロザリンドの気持ちも、クリストファーの気持ちも関係なかった。
こんな歪な関係は清算するべきだ。しなければならない。
そう、思っているのに。
どうしてか、涙が零れ落ちていく。
どうしてか、手を離せない。
「それに……聖女様ほどではないですが、私にも、未来が見えていたんです」
「未来だと……?」
「はい。いまはもう随分変わってしまいましたが……あのときは、未来を変えるために、お兄様と離れないといけないと思って……」
クリストファーの指が、そっとロザリンドの涙を拭う。
「ロザリー、お前を怯えさせていた未来とはどのようなものだ」
「わ……笑ったり、怒ったり、呆れたりしないでくださいね」
「しない」
「――お兄様が……お兄様が一人で、とても遠いところに行ってしまう未来です」
すべてを捨てて、ロザリンドでは手の届かないところへ。
その未来にずっと怯えて生きてきた。
その未来を変えようと、ずっと足掻いてきた。
ロザリンドの告白に、クリストファーは小さく吹き出し、笑みを堪えるように口元を押さえた。
「わ、笑わないって言ったじゃないですか」
「すまない。あまりにも、ありえない話だから」
弁解しながらも笑っている。
その表情も、初めて見るものだった。いつもより少し気が抜けていて、年相応の青年のような。
「――約束しよう、ロザリー。俺はお前を置いてどこにもいかない」
その言葉には、眼差しには、ロザリンドに対する深い愛情と約束が込められている。
それを誓うようにクリストファーはロザリンドの手を取り、甲に口づけをした。
ロザリンドは顔から火が噴きそうになる。
「お、お兄様!」
「安心しろ。卒業までは待つ。約束は違えない」
――何も安心できない。余計にドキドキする。
「逃げたいのなら、全力で逃げてみろ」
からかうように笑いながら、その目は真剣で。
(逃げられる気がしません……!)
【絆】
・クリストファー・ロードリック:★★★☆☆ up!




