29 魔人ベラドリス
暗闇と静寂に満ちた空間だった。
ひんやりと濡れた感触に驚いて目を覚ます。思いのほか明るい空間の中――黒い石しか存在しない穴の底に、一人の女性が立っていた。
銀髪に緑の目を持ち、白い服を纏った女が。
「あらあら。せっかく食事をしようと思ったのに、加護なしだなんて……がっかり」
甘くとろけるような声は、どこか不気味な響きを帯びていた。
女性は嗜虐的な笑みをにやりと浮かべる。赤い舌と、二本の白い牙が口元から覗いた。
(魔人……星読みのベラドリス)
――古の占星術師。禁術の使い手。滅びを告げるもの。
ゲーム中では、先読みの力があるので回避率がとても高く設定されていた。
物理攻撃も、魔法攻撃も、ほとんどが回避されて無効化される。攻撃力はあまり高くないが、非常に厄介な敵の一人だ。
ロザリンドは身体を動かそうとしたが、身動き一つできない。
よく見れば、手足に黒い蛇が絡まっている。
(認識される前にスナイパーで倒そうと思ったのに……これじゃあ……)
捕まっている狙撃手ほど役に立たないものはない。
それにロザリンドの基本戦法はヒット&アウェイ。攻撃して逃げる。ここまで接近されて、しかも拘束されているとなると、あとはハンドキャノンを至近距離で撃ち込むしかない。
ないのだが。
「ごめんなさいね。星が囁いてるの。あなたを自由にしたら危険だって」
ベラドリスはとても慎重で、勘が良いようだった。
「えーっと、名前はなんだったっけ……そうそう、ロザリンド・ロードリック」
長い爪が、ロザリンドの肌を引っ掻いていく。
そのまま、ぷつりと爪を刺す。熱い痛みと共に、赤い血が滲みだした。
ベラドリスの舌が、血を舐める。そして、嫌そうに顔を顰め、口の中のものを吐き出した。
「やっぱり、まずーい。舌が痺れちゃう。加護なしって血もまずいのねぇ。魔力も穢れそうだし。うふふっ。こうなると、食べられるのは、絶望だけね」
瞳孔の開いた瞳でロザリンドを見つめ、頬に触れる。
ぞっとするぐらい冷たい手だった。
「精神は強そうだから、いい絶望を取れそうだわ。じっくり堕としてあげる」
「…………」
「まあ、かわいくない。少しは怯えた顔を見せたらいいのに――」
刹那、ベラドリスの腹部に大きな穴が開く。
氷の槍がベラドリスの身体を貫き、大きな風穴を開ける。
「……は?」
――理解できないという顔で、ベラドリスは自分の腹部を見つめる。口の端から血を垂らして。
次の瞬間、氷の槍は粉々に砕かれて消える。舞い落ちる欠片がきらきらと輝いた。
「ロザリーに触れるな」
低い声が響く。
(お兄様……)
ロザリンドの周囲の壁がピキピキと軋むような音を立てて凍っていく。
「あら……随分と、お早いこと」
ベラドリスはすっと腹の穴を撫でる。
すると、傷も、服に開いた穴も元に戻る。口元の血を拭くと、まるで何事もなかったかのように。
「ようこそいらっしゃいました。クリストファー・ロードリック。お待ちしておりましたよ。あたくしめはベラドリス・ネビュラス。以後、お見知りおきを」
優雅な仕草で、クリストファーへ頭を下げる。
「……その名前、禁じられた深淵魔術を追求して封印された、古代の占星術師か。ふん、聖女の予言通りというわけか」
「あら。あたくしも随分と有名になったみたいですわね。あれから二百年は経っている――」
「ロザリーを離せ」
言葉を遮り、命令するように言う。
ベラドリスの顔に、わずかに苛立ちが浮かんだ。
「気が短いこと。少しは会話を楽しみません?」
返答の代わりに、ベラドリスの頭に氷の槍が刺さる。
ベラドリスはにこにこと笑ったまま、頭に刺さった槍を抜く。
破壊された部分は、既に再生されていた。
(どういうこと……ベラドリスは不死なの?)
そんな設定はなかったはずだが。
不死で、再生能力がこれだけ高い相手を、どうやったら倒せるのだろう。
「まったく……ここには、あたくしたちしかいないのですよ。お優しいお兄様の演技をしなくてもよろしいのです」
「何が言いたい」
「本当は、この娘が憎いのでしょう? クリストファー・ロードリック」
甘さと毒を含んだ声で、クリストファーの名前を呼ぶ。
彼の内に秘められた感情を優しく引っ張り出すように。
(本当も、何も)
邪魔者なのは自覚がある。
ロザリンドさえいなければ、父母がロザリンドに公爵位を継承させようとしなければ、クリストファーは公爵家の養子として、次期公爵として、真っ当に育てられたはずだ。
「この娘さえいなければ、あなたは栄光の道をまっすぐに歩いていけていたのに。鞭打たれることも、飢えや寒さを知ることもなかったのに。本当に、目障りな小娘ですわね?」
「…………」
クリストファーは何も言わない。
ただ、ダンジョン内の気温が下がっていくのを感じる。冷たさが肌に刺さる。
(この気温変化……お兄様が怒っている……)
ベラドリスは楽しむように笑う。
「ふふっ、そんなに怒らないでくださいな。暴かれるのは気分が悪いものですわよね。でも、あたくしの占いは、何もかもわかってしまうものなのです。過去も、未来も、いまの心も」
すっと高く手を掲げる。
その手の中に一冊の本が現れた。古びた、分厚い、封印が何重にも張り巡らされた本が。
「今日はあなた様の望むものをお持ちしましたわよ」
ベラドリスは本を胸に抱き、愛しげに見つめる。
「この魔導書の中には、強大な力を手に入れる方法が記されております。この力を手に入れることで、誰もがあなたを認め、平伏し、許しを請うでしょう」
大切そうにしていた本を、クリストファーに差し出す。特別なプレゼントのように。
「さあ、この書を手に取り、この娘を殺してしまいなさい。あなたの解放と復讐の始まりです」
――魔導書が凍りつく。
完全に氷の塊となり、砕ける。本も封印もすべて破壊され、氷の砕ける音の残響だけが高く響いた。
(……この人、自分で闇落ちフラグ潰したんですけど……?)
ここで魔導書を受け取って、更に強大な力を得るのが、フラグのはずだったのだが。
受け取らずに破壊するなんて。
「なんてことを……これは、古代魔法王国の至宝で……」
「俺の望むものは、その中にはない」
氷よりも冷たい声が響き。
周囲の気温が瞬く間に下がっていく。
「存在する価値がないのは、お前だ、亡霊。消滅できないのなら、永遠に封印されておけ」
温度がさらに下がっていく。
ベラドリスの身体が端から凍っていき、ロザリンドに巻き付いている蛇たちも弱っていく。
だが不思議なことに、ロザリンドは肌寒さを感じるくらいだった。
「や、やめて……やめて……あたくし何もしていない」
ベラドリスが泣きながら懇願し、その涙も凍っていく。
ロザリンドに巻き付いていた蛇が一斉に逃げていく。しかし逃げ切れないまま、凍っていく。
ベラドリスを侵食する氷は手足の先から胴体、首、そして顔にも広がっていき。
やがて完全に氷像と化し、その場は静寂に包まれた。
拘束から解放され、その場に座り込みかけたロザリンドを、クリストファーが抱きとめる。
「ロザリー、無事か?」
「は、はい。ありがとうございます、お兄様……」
魔力はあれほど冷たかったのに、ロザリンドを支える腕は優しく、伝わってくる体温はあたたかい。
ロザリンドは不思議な気持ちで、ベラドリスの氷像と、砕けた魔導書を見つめた。
(お兄様、私が手を出さなくても自力でバッドエンド回避しちゃうんじゃないの……?)
力の誘惑をあっさりと跳ね除けてしまうなんて。
いまのクリストファーは、ゲーム中よりも遥かに精神的にも肉体的にも強く思える。
何より、冷静すぎる。ベラドリスを前に眉一つ動かさなかった。
「――ロザリー、傷が……!」
「えっ? あっ……これは、爪を立てられただけなので、大したことありません」
ベラドリスにつけられたのは、ほんの小さな傷だ。
その瞬間だけは痛かったが、いまは何ともないし血も止まっている。
なのに、クリストファーは激しく動揺していた。
「……あいつ、よくも……!」
「ち、小さな傷です。痛くないですから」
怒りを露わにするクリストファーを宥めながら、魔法で傷を癒す。
これくらい魔法を使うまでもないが、そのままにしておくとクリストファーを心配させそうだった。
(少し、意外かも)
クリストファーが割と優しいことは知っていたが、まさかこれぐらいの傷でそんなに慌てるなんて。
何故か、指先と耳が熱くなっていく。
「お兄様、そろそろ、離して――」
――その瞬間、何かおぞましいものを感じて顔を上げる。
暗い光に覆われた虚空から、白い塊のようなものが落ちてくる。
蛇だった。
「――お兄様!」
クリストファーはロザリンドを抱いたまま、蛇から巧みに逃れる。
先ほどまで自分たちがいた場所に、どんっと巨大な蛇が落ちてくる。緑の目の、白い蛇が。
その衝撃で、ベラドリスの氷像が半分に割れた。
「ようやく本体のお出ましか」
クリストファーが冷静に言う。何もかもわかっていたかのように。
(――ということは、これがベラドリス・ネビュラス)
クリストファーの魔力が高まると同時に、ロザリンドの魔力も引きずられるように高まっていく。
【特殊能力】インサイトリンク:Lv.1(絆を感じ取ると、一時的にステータス向上)
(リンクが発動している……?)
ロザリンドの魔力と、クリストファーの魔力が共鳴し、増幅している。
ロザリンドは、流れに抗わずに魔力を委ねた。
「――アブソリュート・ゼロ」
クリストファーの魔法が発動する。ダンジョンの空気が急激に冷え込んでいく。
魔法の影響範囲内にあるすべての物質は、一瞬で氷結する。もちろん、ベラドリスも。
ダンジョン内の壁や地面がひび割れ、壊れていく。
空気中では美しい霜や氷の結晶が舞い上がる。
美しい死によってすべてが凍りつき、命の一つも残らない。
ダンジョン全体からは軋むような音が響き、まるで悲鳴のようだった。
それもやがて静寂に消えていく。
――あまりにも圧倒的な力だった。




