12 大雨の山岳エリア
――婚約者のことをほとんど知らないのは、別段珍しいことではない。
貴族には大抵婚約者がいるが、そのほとんどが政略的なものだ。
本人の意志ではなく、周囲の都合で結婚相手が決められる。
(どういうこと……? 好感度を上げて婚約したわけじゃないってこと……?)
そうでもなければ、相手のことをほとんど知らないなんて言い出さないだろう。
エドワードは静かに続ける。
「聖女であるアリーシャを守るために、僕が結婚することになった。だからまだ彼女のことはよくわからない。これから知っていきたいと思っている」
「そうなのですか……」
話を整理すると、まず、アリーシャが聖女となった。
だから、王族の中で婚約者がいなくて同い年のエドワードが結婚相手となった。
その間にどんなことが起こったのかは、ロザリンドにはわからない。
(アリーシャはもう、私の知っているアリーシャじゃないのかも。彼女は彼女の考えがあって、行動して自分の未来を選んでいる)
プレイヤーの分身が、いきなりとても遠い存在になってしまった。
「あの――私、聖女様という存在についてあまり詳しくはないのですが……聖女様は、どうして聖女様なのでしょうか? どんな素晴らしいお力を持っているのでしょうか」
「彼女は、特別な予知の力を持っている」
特に秘密ではないからか、それともロザリンドが公爵の娘だからか、あっさりと教えてもらえる。
(予知……七色の魔力ではなく?)
さすがにエドワードの言葉には疑う余地はない。
(――まさか、先に起こることを言い当てているとかで? それなら私だって聖女になれるわよ? メインストーリーも、前日譚も、しっかり覚えているし)
だがそれはプレイヤーだったからであって、普通のこの世界の人間にとっては、先のことなど予測できない。
その予測ができたからこそアリーシャは聖女と認められたのだろうが――
(……まさか、主人公も元プレイヤーとか……?)
そう考えるのが一番しっくりくる。
(いや、それならどうしてゲームから逸脱するような行動してるのって話にならない? ゲーム知識で無双しない? せっかく主人公なのに)
モブではなく、特別な力を持つ主人公として記憶を持って生まれたのに、わざわざ別の、未知のルートを選択するだろうか。
考え込んでいると、エドワードが躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「……ロザリンド。できたら君に、アリーシャの友人になってほしい」
「願ってもないことですわ」
「彼女はまだ当分神殿から出られないけれど、自由に動ける日が来たら、ぜひ君に会ってほしいんだ」
「はい。とても楽しみです」
ロザリンドは微笑む。
これで、強力な繋がりができた。
エドワードもほっとしている。
その笑顔を見て、ロザリンドは不思議な気持ちになった。
いままでは距離のあった王子が、いまはすぐ近くに存在するような気がしてしまう。
(そういえば、ゲームでのロザリンドはエドワード王子の婚約者候補でもあったわね)
現実ではロザリンドは既にクリストファーと婚約しているため、そんな話が上がってきたことはなかったが。
ゲームでは、エドワードルートのライバルモブ令嬢としても出しゃばっていた。
(血筋的には最有力候補だもんね。エドワードエンドじゃなければ、私がエドワードと結婚していただろうし)
王家に嫁入りするとしても、エドワードが婿入りするとしても、ロザリンドは最有力候補だった。
――もし。
もし、エドワードがアリーシャと婚約していなければ、ロザリンドの新しい婚約者探しの候補になったかもしれない。
(――ない。ないない。いまのエドワードには婚約者がいるもの。何より、私ごときがおこがましい)
変な想像をしてしまってか、胸がどきどきする。
(そうよ。恋人。お兄様との婚約解消のために、恋人探しもちゃんとしないと)
せっかくクリストファーが提案してくれた一年だ。
ロザリンドが堂々と恋人探しのできる一年。青春を楽しまなければ勿体ない。
(……ちょっと待って。私がお兄様と婚約しているのは学園中の知るところで、そんな状態で恋人を作るって、無理じゃない?)
普通のまともな感性の持ち主なら、婚約者持ちには近づかない。
よほど激しい運命の恋をするか、ロザリンドの素性を知らない相手でないと、恋愛自体が無理ではないだろうか。
(変装して街で出会いを探す? 公爵令嬢がそんなことをしているってバレたら、お父様が絶対に怒る)
いまのいままで真剣に考えていなかったが、これはかなり困難な案件ではないのだろうか。
(――いいえ、私がだめならお兄様がいる。お兄様が妹との婚約を解消する予定と噂を流せば、色めきだつ令嬢たちも絶対にいるわ)
クリストファーは美形で、将来有望で、魔法も剣技も超一流。
憧れている令嬢はたくさんいる。
(アリーシャはもうエドワードと婚約しているから無理だけど、他の女子と恋愛してもらえば、お兄様も幸せな結婚が――)
――その瞬間、背筋にぞわぞわと冷たいものが走る。
ざあっと頭から血の気が引いていく錯覚を覚える。
(……なんだか、よくわからないけれど、私が噂を流したら……お兄様が物凄く怒る気がする)
ただ怒られるならまだいい。
何かとんでもないことになりそうで、怖い。
「ロザリンド、大丈夫か? 顔が真っ青だけど……」
「は、はい、大丈夫です……少し寒いだけで……」
「……そうだな。この風だと、身体が冷えるか……少しごめん」
エドワードはそう言うと、ロザリンドに覆いかぶさるようにして立った。
「え――」
その瞬間、いままで吹き付けてきた冷たい風が軽減される。
飛んできていた雨粒もエドワードの背中で防がれ、身体を濡らすことがなくなった。
――身を挺して風雨から守ってくれているのだ。
紳士的で、思いやりのある行動――彼は、本当に王子様なのだ――……
(ちっ――近い。近い近い近い!)
身体が近い。顔が近い。体温まで感じられそうなほど。
一瞬で顔が熱くなり、慌てて下を向く。
こんな顔を見られてはいけない。絶対にいけない。ドキドキする。心臓が、壊れそう。ちゃんと呼吸はできているのか――
(早く雨止んでーー!)
心の中で叫んだ瞬間、突風が吹く。
魔力を伴った風が爽やかに吹き抜けたかと思うと、風に乗って緑髪の青年が上からゆっくりと下りてくる。
――カイル・スティール。
エドワード王子の護衛の一人が、緑色の瞳でじっとロザリンドを見た。
そしてもう一人。
「エドワード様!」
学級委員のミリアム・アームストロングが、雨の中、慌てた様子で下から駆けてくる。
真面目な彼女もまたエドワード王子の護衛だ。
二人の目は、ロザリンドを見ていた。
その視線には警戒心が滲んでいるように見えた。
(ああ~~っ?! もしかして、王子にアプローチしていると思われてる?)
二人きりで、距離を詰めて雨宿りしているというこの状況――誤解されかねない。というより、されている。
しかもエドワードには聖女という婚約者がいるのに。身の程を知らないモブが付きまとっているようにしか見えないはずだ。
「――君たちが心配するようなことはない。僕も彼女も婚約者がいる。友人として他愛もない会話をしていただけさ」
エドワードが二人を安心させるように言いながら、ロザリンドから離れる。
「単独で行動してすまなかった」
その言葉に、ミリアムがはっと我に返ったかのように顔を上げる。
「――と、とにかく、ご無事で何よりです。ですが、お気を付けください! こちらの方に、大型モンスターが接近してきます!」
刹那、大雨が降り続ける中に切り裂くような鳴き声が響く。
雨雲よりも低い場所で、漆黒の影が風よりも早く飛んでいく。
巨大な翼から猛烈な風が吹き下ろされて、木々が激しく揺れた。
――漆黒のグリフォンが、大きく旋回してこちら側に向かってきていた。




