the dark side of the moon
「お目が覚めましたかしら、セレスト様?」
ネスたちの様子を見守って、確認のようにケイトが問う。
「ああともよ」
応じて、セレストは決まり悪げに頭を掻いた。
「何だな、あれやこれやと世話んなった様子だ。なんやかんやと礼を言うぜ」
「いいえ、お気になさらず! これでようやく、ようやっと少しだけ、ご恩を返せた心地ですもの。それに一番の立役者はネスフィリナ様ですわ。まずは彼女にこそ、存分の感謝を捧げてくださいましね」
この上なく大雑把な謝辞を受け、それで警戒を解いてケイトが微笑む。
指摘されたセレストは、そうだなと頷いて、くしゃくしゃと乱暴にネスの髪を撫でた。
「人の面ァ忘れるくらい、なんてこたねェと思っていた。だが久方に眺めてみれば、えらく懐かしい顔だった。多分。オレが思うよりずっと。世界ってのは優しくできてる。改めてそう思い知った。……そこらも含めて、ありがとうな」
目線を合わせて真摯に言われ、ネスはうにゃうにゃと身を捩る。
懸命に舌を動かそうとするも、ままならない。おかえりなさいを言いたいのに言葉にならない。ひどく歯痒いことだった。
だが当人の意識はどうあれ、そのさまは大分に微笑ましい。口元に手を当て、ケイトが思わず頬をゆるめる。そこへ、苛立たしげな声が響いた。
「なかなかの熱演だったよ、ネスフィリナ。まあ、出来の悪い芝居なのに変わりないけれど」
一体、どこから姿を現したものか。気のない風情で拍手の素振りをするのは、一領の甲冑だった。
おそらく、霊動甲冑だった。断定しかねるのは、そのフォルムがネスたちの繰る従来の甲冑と恐ろしく異なるからである。
まず、甚く小さい。セレストやケイトと変わらない背丈をしていた。ずんぐりむっくりと装甲を着込んだ大型甲冑とは、その時点でシルエットは別物だ。
手足も細く、最早華奢と言っていい。応じて重武装の類は見受けられない。
しかし手を叩く所作は滑らかで、各部関節や指先の細やかな動きまでスムーズである。それは人の扱う兵装のおおよそを使いこなしうる手先だった。
今までどの戦場にも現れたことのない完全な新型である。
確かなのは、これほど小型の甲冑に人体を封入する余地はないという事実ばかりだ。
ならば脆弱と見えるその装甲は、小型化、軽量化による被弾を想定しない高機動か、或いは大量生産による使い捨てかを前提としたものとなろうか。
「だけどお前の舞台はもう終わりだ。疾く下がりなさい。見苦しい」
甲冑がネスへ向ける声音はひどく冷たい。その声の主を悟ったネスが、びくりと身を震わせて、再度セレストの服裾に縋る。
そんな少女を庇って前に立ち、セレストは鼻で笑った。
「おいおい、お里が知れたもんだな」
甲冑の首が回って、じろりと彼を睨めた。人体と同じく、頭部に感覚器官が集中しているものらしい。
「いっぱしの研究者を気取るなら、今のネス公の仕業に目を輝かせなきゃ嘘だろう。実に稀有な我法破りだぜ? だってのに随分と唾棄するご様子なのは、あれだろう? 自分の我法が、カダイン直系の異能に破られたのが癪に障って仕方ないからだろう?」
「……君たちの幸福のために労を執ってあげているのに、どうも足掻くなあ」
正鵠を射られたことを示すひと呼吸ぶんの沈黙ののち、甲冑は――ナハトゥム・アーダル・ペトペは応えた。
最前から甲冑が発する金属的な音声は、霊術的接続による遠方からの伝声であろう。しかしノイズ交じりのその声音には、隠しきれぬほど苦い苛立ちがある。
その根本、ネスへの悪感情の所以はセレストの指摘した通りだ。
カイユ・カダイン直系の象徴たる同調。その異能を持ち得なかったがゆえに、王は無能と謗られ、無価値と断じられた。ゆえにナハトゥムはそれを嫌悪する。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、ネスをも同じく忌み嫌う。
ゆえに王は知的探求よりも自らの感情を優先した。我法破りの解明よりもネスフィリナの排除を先んじた。
セレストの観点からすると、それは無能の証左だ。王としてだけでなく、研究者としても、親としても。
「幸不幸なんて当人の受け取り具合次第です。勝手な決めつけをしないでくださいまし。売り物問わずで押し売りはお断りですわ。それにわたくし、『君のためにしてあげている』なんて口にする人間は全て蹴飛ばすようにと、母に仕込まれておりますの」
論点ずらしの言葉に眉を顰めるのはケイトだ。
魔皇と相討つというウィリアムズの使命を、果たすべき大切な運命を信じるそれを、この娘は哀れまれた経験がある。ゆえに斯様な言葉には過敏だった。加えてこの闖入者の、ネスを貶める物言いが気に入らない。
「無知からの愚昧は許すよ、ケイト・ウィリアムズ。確定執行がこちらに来てくれたのは嬉しいことだからね。でもイツォル・セムがヨアヒムの方へ行ってしまったのは残念だな。千里眼と順風耳があれば、知覚共有の精度向上に繋がったろうに。まあ、自分が捕まえたのに優先権を得る約束にしたから、仕方ない」
「あの、ずっと疑問に思っていたのですけれど、そもそもあなたはどこのどなた様ですかしら? 御名乗りいただければ助かります。ええ、大助かりですわ。だってわたくし、知らない人に懐き過ぎるなと父に遺言されておりますので」
セレスト奪還を含めた全てのことは自分の手のひらの上であったと、自身の描いた絵図であり遊戯であるとでも言いたげなナハトゥムの話の腰を、さっくりとケイトが折った。
「それから気づけばあなた、さっきから自分の話したいことしかお話していらっしゃいません。わたくしもよく先走ってしまいますけれど、会話において『聞く』というのはとっても大切なのですわ。その辺り、ご友人に指摘されたりしませんかしら。……もしかしてお友達がいらっしゃらないのですかしら。心配ですわ。なんだかわたくしあなたのことが、だんだん心配になってきました!」
セレストの皮肉とは異なり、ケイトの言葉の後半は心から案じてのものである。それだけに、王に対して切れ味がよい。
言いざまに甲冑は鼻白み、セレストが噴き出した。
「いやいや、ウィリアムズのお嬢ちゃん」
笑いを押し殺した彼は、けれど楽しげに両手をひらつかつつ呼びかける。
「こいつは王様だよ。アーダルの形式上の統治者で、ネス公の母親だ。でもって遠隔操作の甲冑繰りで顔出しした気になってる、無礼者兼臆病者。そして極めつきを言うんなら、」
それはケイトのための紹介というよりも、確認の作業だった。
「オレの記憶を飛ばしてくれた、物忘れの我法の主さ。なあ、陛下。それとも女官長様とお呼びしようか?」
我法による霧が晴れ、セレストは登城の夜の出来事を正確に思い出している。
顔を見せぬ飾り物の王、ナハトゥム。
彼女は王という呼称の印象に隠れた女性である。敢えて女王と呼ばわらせず、曖昧なイメージの靄に本質を隠してきた。
王配の存在を知らしめぬのもまた、性別をぼやかし続けるための一手である。無論、ネスを含めた子らの父は、彼女を蹂躙した十二洞府のいずれかとしか知れないものであり、公表できたはずもないのだけれど。
とまれ彼女はそうした印象操作と我法とにより、自身は王の信任厚き女官長として王城で立ち回ってきた。
玉座から距離ある対面をするのではなく、至極自然に貴人へ近侍できる女官長、城中を自在に動きうる王の側近という身分の人物を創出し、そこに居着いた。
「仮の姿が欲しかったのは、我法を効率的に扱うためだろう? 他人の記憶なんて個々のものに干渉するんだ。一概で一括の押しつけはできない。対象を絞って、怪しまれずに長時間、近距離に滞在する必要があった。法の制約としてはそんなとこだろう。カイユ・カダインの同調にそっくりなのは、憧れたからか? 自分もそれが欲しかったのか?」
状況証拠からナハトゥムとその我法の在り方を推察し、口に出すことで、相手の反応からより深い真実を見出す。
セレストの口舌は、そのような手口である。
「とすると、法の最大効果発現条件は身体的接触か。……色ボケ爺どもが」
深深度同調のために飛びついてきたネスから気づきを得て、セレストは毒づいた。
十二洞府の洞主、悉くが誑かされる現状の理由に呆れが先立つ。嘆息してから、彼は腕を組んで甲冑を見やった。
「どうした。さっきからお静かだな。沈黙は肯定と見なすぜ?」
言い放ってから、「ああ」と、さも今気づいたように首を振った。
「上から物を言う以外の話し方がわからねェのか。なんせお友達がいねェからなァ」
最前から、王に対するセレストの態度が険悪なのは、当然ながら怒り心頭のためだ。
仲間を忘却させられ、いいように操り人形にされ、彼のプライドはずたずたである。感謝の心に嘘はないが、それでも負うべき子に救われるなど百代までの恥と思うのがこの男なのだ。
加えて、記憶への干渉はセレストの逆鱗だった。
キリを喪ったのち、彼はミカエラと同じく、研究素体として心魂工房のスカウトを受けている。そして一も二もなくセレストは握った。差し伸べられた心魂工房の手を、如何なる代償も厭わずに。
自分は特別でなければならなかった。だからセレストは不完全な術式と承知の上で、霊基構造改変の施術を受けた。
ただ特別であるために。その象徴となる真夜中の太陽を継承するために。そしてキリの仇である、十二洞府の腐れどもを叩き潰す力を得るために。
改変術式は完全に執行されたが、やはりミカエラと同様に、セレストにも障害が出た。それは記憶の欠如である。
施術以降の彼の記憶は、細かなものから抜け落ちていく。
欠けるのは些細な記憶ばかりだ。元来大雑把なセレストの気質もあり、ほとんどの者がこの欠落に気づかない。実際ミカエラに叱り飛ばされる理由の九割九分は性格によるものだ。けれどほんの一分だけは、本当に忘れ果てている。心魂工房の定期調査によれば、この記憶障害は今後拡大していくだろうと予見されてもいた。
今は大事な思い出も、いずれは砂のように、この頭から零れ落ちていくのだろうと、セレストは覚悟していた。
彼にとって記憶とは子供時分に得た飴玉だった。甘く優しく、そして必ず溶けてなくなる。
だからその領域へのナハトゥムの干渉は、憤激に十分な理由だった。
ネスの親だろうと遠慮はしない。数発は確実に拳骨を入れる。そのように心を決めている。
「ああ、もう。まったく、もう。口先ばかりで鬱陶しいな。それでボクを暴いたつもりか? 無駄なことだよ。どうせ、ここで全部忘れてしまうのだから」
甲冑前腕の呪紋が励起し、両の手首からごく薄い霊術刃が形成された。
軽く一振りされたそれは王城の石壁をやすやすと切り裂き、真一文字の斬痕を刻む。
「とりあえず手足は捥ぐよ。それから記憶も全部壊す。セレストの戦闘経験は貴重だから、あとで活かそうと思っていた。それでネスフィリナでも我法が解けた。でももういい。もういらない」
実に人めいた仕草で甲冑は顎を上げ、見下した風情を取る。
「ああ、そういえばセレスト・クレイズ。君はネスフィリナを喋れるようにしてやりたいんだったね。それから、まともに成長できるようにも。折角だからここで結論を教えてあげるよ。言葉はもう無理さ。ボクが徹底的に壊したものは直らない。絶対に元には戻らない。体の方も同じくだろうね。そちらは心魂工房洞主の秘法で、彼は研究と名声が全ての人間だ。それ以外は忘れ果てている。その研究成果を台無しにする方法なんて、他所に教えるはずないだろう?」
王がネスに執行した我法は、彼女がこれまで他者に施した中でも最大級に苛烈な執行だった。
人の脳にはブローカ中枢と呼ばれる部位がある。言語の出力を司る箇所であり、これの機能が不全に至ると発語は非流暢となり、音読のみならず書字にも影響が出る。ネスのこの言語中枢は、王の我法によりその働きを忘却していた。
原因が我法とは読み解けぬままながら、セレストはネスの体の異常を察知し、これを解く研究の遂行を繰り返し進言していたのだ。
そして王が告げた通り、セレストの提言は脳に関することのみではない。
ネスフィリナは発育不全に陥っている。同年代の子供に比して背丈が低く、骨も肉も発達していない。
これもまた、王の都合によるものだった。
カイユ・カダインから受け継いだ貴重な才能を十全に活かす。そういう理由で、ナハトゥムは我が子の発育を阻害させていた。何故ならカダインの甲冑は、大きさが決まっているからだ。入れ物のサイズがそのままなのに中身が勝手に育っては困る、というわけだ。
甲冑繰りという稀有の才覚を、できるだけ長く、できればいつまでも発揮させてやりたい。子を思う親の如きそんなおためごかしで、王はヨアヒム・セルズにそうした調整を要求していた。
「でも君の意見は、まったくの無駄ではなかったよ。お陰でボクは着想を得られた。封入する体を小さくすれば霊動甲冑の軽量化が叶うじゃないか、ってね」
心底得意げなその言葉に、セレストが顔を険しくした。
この新型の、小型の甲冑が完全に無人ではないと理解したからだ。
「察しがついた顔だね。そうさ。この甲冑には、起動に必要最小限の人体だけが組み込んである。その意味では有人機と言えるかな」
人体から取り外され、それでもまだ生かされたままの脳は、甲冑からの逆同調を受け機体に組み込まれる。そうして人体を管理するためのユニットとして、優れたオートバランサとして、霊素感応器として機能を始める。
起動すれども意志のない機体へナハトゥムは遠隔から接続し、フィードバックもなく至極安全に操作する。
簡便に述べれば、それがこの小型甲冑の仕組みだった。
リアルタイムの操作のために、各種知覚には最新の技術が盛り込まれている。たとえばミカエラの目が見た映像を手元に転送してのけるような、最新鋭の技術と霊術式が。
保身を最優先する王の、実に彼女らしい新兵器だった。
「君たちも、同じように有効活用してあげるよ。ボクの礎となれるんだ、実に幸せだろう?」
そうして、己の所業を誇るように。
ここでない場所でナハトゥムは満面の笑みを浮かべた。




