shape of you
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レライエ・キリという女がいた。
若くして霊術師として頭角を現し、初老の歳まで衛士として、対獣戦線の最前線を支え続けた女傑である。
戦い続け、生き残り続け、いつしか魔女として名を馳せた。その戦績と功績を称え、王家から千年樹の霊杖を賜りもした。
そんなキリが一線を退いたのちの働きは、誰もに意外を覚えさせた。なにせ彼女は私財を投じ、孤児院を作ったのである。
獣害による死者は、国を問わず多い。
特に街道を行く隊商の死傷率は群を抜く。
が、それでも人は道を行く。交易が絶えれば都市が死ぬからだ。人体にたとえるならば、街道は血管であり、隊商は血であった。
彼らを守るべく各都市は衛士として兵を出したが、それでも少なからぬ人命が失われ続けた。
だが隊商は、他所者と蔑まれずに歓迎される存在である。
険しい道には一攫千金の夢があり、また商人として名と顔を売れば、親しんだと都市に迎え入れられ、土地に根づいた店を持つが叶いもする。
都市防壁外に生きざるをえない者らにとって、この可能性は正規住民として認められる起死回生の一手だったのだ。
ために我が身を顧みない成り手は多く、旅慣れないその数のぶんだけ死者もまた多い。
食い詰め、思い詰めて隊商に加わるのは、無論独り身の者ばかりではない。
当座の食事を求め、子連れで参加する人々もいる。隊商一座の中で生まれる命もある。
そうした幼い者たちの親が、旅の危難によって命を落とした場合、子らは近隣の都市に捨て置かれるのが常だった。労働力にもならない足手まといを養う余力など誰にもありはしないからだ。
もちろん不意に親を亡くし、暮らしに窮乏するのは旅行く子供たちだけではない。
まだ都市として成り立たないような寒村でもまた、同じような扱いを受ける児童らがある。稀有にも法に至った犬無し、空臼もこの一例だ。
売られるですらなく、ただ捨てられた子供たちの末路は無惨の一言に尽きる。
捷く生き延びる幸運児など、百人に一人もあればよい方で、その大半が飢え、病み衰えてやがて死ぬ。そうして防壁外清掃の者に、舌打ちされながら遺骸を焼かれる。弔いではない。ただ疫病を避けるためだけの行為だ。
獣に人の味を覚えさせぬようにと、生きたまま土中深くに埋める慣習を備える都市までもがあった。
キリが拾い集めたのは、そのような児童である。
近隣のそれらを無差別に拾い、教育を施したのち、周旋して適した仕事に就かせた。
口入れの成功は、衛士時代に築いた広範な人脈の為せる業である。が、それのみならず、彼女が院の開設に当たり王家と十二洞府から金銭を工面していたことも大きい。これが信用手形として機能し、国が後ろ盾の場所からならばと人材の迅速な受け入れが叶ったのだ。
キリが突然、このような篤志を現した理由を誰も知らない。
だが院の効能は目覚ましかった。
数年のうちに流民、浮浪児の姿が減り、周辺の治安が改まった。
国と洞府から更なる助成を受けることにも成功し、キリの孤児院はアーダルにおけるモデルケースとなった。彼女の院は、土地の名を取ってクレイズ院と呼称され、これを手本として各地に同様の施設が設けられた。
所の者たちがキリに親しみ出したのもこの頃からである。
経歴から、さぞ武張った男勝りか、噂に違わぬ魔女の婆さんが仕切るのだろうと院を恐れた人々も、キリの人物が知れ渡るにつれ、彼女に親しむようになった。
数多の霊術に通じ、時には界獣の撃退すらしてのける恐るべき相手を、「キリ姐さん」と心やすく呼ばわれるのは、キリの人格に対する厚い信頼の証左と言えよう。
が、どこにだって例外はいる。
『おいこら婆!』
レライエ・キリを斯様に呼びつける少年の名を、セレストという。
界獣に村を襲われ、獣の食べ残したちを率いて、クレイズ院のある都市まで落ち延びてきた少年である。
その中で院に引き取られたのはセレストただ一名だった。獣害により天涯孤独となったのは皮肉にもは彼のみであったからだ。
共に都市に来た他の面々は、その家族と共に落ち着き先を見つけていた。壁外暮らしといえども、それはそれなりに幸運なことである。ただ流浪を共にした彼らが、少年に手を差し伸べることはなかった。
だから、というべきだろうか。彼は他の子に馴染まず、大人を信じなかった。
まだ十と半ばの齢ながら大人たちを引率してきたエピソードからも窺える通り、セレストは幼くして度胸とリーダーシップを備えた人間である。同時に小賢しく知恵が回り、敵に回った相手に容赦しない性格をしていた。
その狷介具合は、村からここまで落ち延びてくる間に研ぎ澄まされたものであろうと思われた。
そして困ったことに、この小僧っ子は霊術を扱うに十分の霊素許容量をも備えていた。無自覚ながらに霊素を賦活、反応させる術を理解しており、風雷炎氷を具現させるには至らぬものの、身体強化を己に施すことができたのだ。
その強度は子供の喧嘩において負け知らずどころか、心得のない大人相手なら、互角の殴り合いをしてのけるほどのものである。
『今日こそ目にもの見せてやる。覚悟しろ!』
とはいえ、所詮十代の小僧である。歴戦のキリに及ぶべくもない。
それに才があるとはいえ、それは凡百のものだ。朝日が昇り陽光が差し込めば気づかれなくなる程度の、ほのかな星灯りに過ぎない。加えて、才覚とは自ら掘り起こし磨き上げるもの。表層の煌めきだけに価値は薄い。
『随分吠えるじゃあないか、洟垂れ』
従ってキリは、院に来たその日のうちに、この小僧をしこたま叩きのめしている。それで折れればよし。なお噛みついてくるなら可愛げがあると考えてのことである。そしてこの少年は、露骨な後者だった。
体術で、霊術で、或いは盤上遊戯で。
院にあるあらゆる書籍を貪欲に読み込み、以後事あるごとに、キリに勝負を吹っかけるようになった。
『何で挑みにきたのか知らないが、負けたらアンタ、また飯抜きだよ』
『うるせェ! そう言っておいて後で用意されてるのが一番の屈辱なんだよ!』
読んでいた本を閉じ、キリはくつくつと意地悪く笑う。対するセレストが、顔を真っ赤にしてまた喚く。
『まったく、懲りないことだねぇ』
『懲りるか。オレは諦めねェぞ。今日立たなかった奴が明日歩ける道理はねェんだ。勝つまでやるぞ。やるからな』
ババア、ババアと罵りながら、少年がキリに心を許すのは明白だった。
ふたりの勝負は大概拮抗した。その上で、いつもあと一歩のところでセレストが敗れた。彼が院に住まってから半年が過ぎても、一年が過ぎても、その力関係は変わらなかった。あと一歩の距離は縮まらなかった。
『くっそ、人生下り坂の婆が、どうしてこんなに強ェんだよ!?』
『アタシが夕日だってんなら、アンタはちっぽけな蝋燭明かりさ。てんで負ける気はしないさね』
『ちくしょう、とっとと沈み切れ』
『嫌だね。アタシはアンタより長生きするよ』
ふんと鼻であしらってから、キリは問うた。
『そもそもアンタ、まだまだガキなんだよ。アタシに挑むなら、せめてもう少し大人になってからにしな』
骨格に乗る以上の筋力がつかないのと同様に、霊素許容量も体格に比例して高まるとは知られた事実だ。
戦士術師どちらの道を選ぶにせよ、まだ成長期という時点で不利である。
『間に合わねェんだよ。……間に合わねェんだ、それじゃ!』
が、少年は強く首を横に振った。固く握ったその拳に、後悔を見て取るのは容易だった。
突然に村が襲われ、家族や友人が食われた。その時何もできなかったことを、彼はひどく悔いていた。大人ですら仕方ないと諦めることに、あろうことか責任を感じていたのだ。
『大きくなってから、なんざ言い訳だ。今やらない言い訳だ。それを許せば、オレはきっと逃げ続ける。だから駄目だ。今日立たない奴が、明日歩ける道理はねェ』
折れない少年は、折れないままに生きようとしていた。足掻こうとしていた。
『どうも困った洟垂れだ』
優しい呆れ声で、キリは椅子から立ち上がる。
『なら、存分に叩きのめしてやるさね』
背丈が伸び、筋力がつき、術式を学び、けれども。
やはりキリとの間に横たわる、あと一歩の壁は越えられなかった。この頃にはセレストも、それが意味することに気がついている。けれど彼は、悪態を突きながらキリに挑み続けた。それしか、甘える方法を知らなかった。
『ま、アタシに勝てたなら約束通り、アンタのことを呼んでやるさ。ちゃあんと、セレスト様、ってね』
『その言葉を忘れんなよ! 絶対に忘れんなよ!』
だが少年が彼女に勝つ日は、ついぞ訪れることなく終わった。
レライエ・キリは悔いていた。
院の開設に際して、国と関わりを持ったことを、である。
クレイズ院としての行動を、キリは彼らに報告せざるを得なくなり、その情報はのちに悪く用いられた。
孤児院という形態を、王家と十二洞府は自らに都合のよい実験素材を獲得するための方策として機能させ始めたのだ。
子供たちを救わんとした行動が、未来の子供たちの運命を定めてしまった。
その感覚はキリの心を責め苛み、手を打つべく彼女は活動を開始した。
十二洞府もまた、自分たちの開設した院がクレイズ院と比較されることを、その差異により疑念の目が向くことを厭うていたのだろう。
つまるところキリの動きが引き金となったのだ。
その日、都市内部で獣害が発生した。
ありうべからざる事態であり、のちの調べには、十二洞府へ研究素材として持ち込まれる途中だった界獣の一体が陣図を破り、そこに封じられていた獣の群れが溢れ出た結果と記されている。
解き放たれた巨獣どもは、棲み処ならざる土地に怯え、興奮し、攻撃性を剥き出しにした。
都市崩壊にも繋がりかねない大災害であったが、この時の人的被害は、驚くべきか死者一名に留まっている。
何故なら界獣どもは、狙い澄ますかのように、ただクレイズ院へ殺到したからだ。
始まりは街からの悲鳴だった。
何の騒動かと窓に鈴なりになった院の子らは、窓から巨獣の群れを見た。平屋の屋根を越える身の丈を持つ十数匹の界獣どもが、壁を、道を、家々を、そしてもっと柔らかいものたちを打ち砕き、引き潰しながら殺到してくるさまを見た。
怯えるなという方が無理な光景を目の当たりにし、子供たちは泣き叫んだ。パニックが起きかけたところへ、声がした。
『ガタガタと、騒々しいね』
それはキリの一言だった。特に張り上げたではない声が、ひどくよく通り、一瞬で場を静めた。
千年樹の霊杖を手にしたキリはぐるりと子供らを見渡し、最後にセレストへと視線を向ける。
『ガキどもを連れて逃げな。全員だよ。動けなくなってるのもいるだろうからね。ひとりだって見落とすんじゃないよ』
『婆は、どうすんだよ』
『もちろん、あの騒々しい連中を始末してくるに決まってるだろう』
『おい!?』
『心配なんぞ二百年早い』
杖で額を小突かれ、とっとと動けとばかりに顎をしゃくられる。
多勢に無勢の無謀としか思えなかったが、セレストは時を惜しんで頷いた。腹の底から声を張り、院の子供たちをまとめ上げるや、彼らを率いて衛士たちの詰め所までの逃げ延びる。そうして振り返れば、院の辺りから赤炎が噴き上げるさまが見て取れた。
キリが執行する霊術炎に相違なく、界獣どもは次々と撃退されゆく様子だった。
これならば、と思ったセレストだが、そこでふと奇妙に気づく。キリは、明らかに孤軍奮闘している。誰も加勢に向かっていない。
国軍も他の衛士たちの動きも、全てが恐ろしく鈍いのだ。いや、鈍いのではない。機能していないに等しい。
考えられない事態だった。手近の衛士を見やると、彼は気まずげに目を逸らす。少年はそれで何かを悟った。クソくだらない大人の事情が横たわることだと察しをつけた。
手製の杖を握る。院の子らの不安の声も、衛士の静止も、何も聞かずにまた駆け戻る。
そうしてセレストは目の当たりにする。
中庭には、いくつもの巨獣の屍があった。その全てが焼け焦げていた。黒く炭になるまで、頭部を、或いは胴部を、およそ急所を思しき部分を、圧倒的火力で炙られていた。
そこに動く影は、セレストを除けばふたつだけ。
ひとつは言わずと知れたレライエ・キリ。
大きな外傷はないようだが、肩で息をしていた。ふらつきながらもしぶとく霊杖を構えるが、眼光は流石に弱い。短期間で霊術砲火を執行しぎた結果であろう。だがそれでも彼女の両眼は、鋭くもうひとつの影を、残る界獣を睨めつけている。
彼女の視線の先にある、もうひとつの影。
それは亜龍と呼ばれる獣だった。龍に似て非なるものである。
身体構造は人間に近い。二足で歩行し、両腕を備える。が、体に体毛はなく、代わりに全身を鱗が覆う。これはなまじの金属では傷もつかない、恐るべき硬度を誇るものだ。
二本の腕は長く、そして太い。直立したまま、器用に動く六本指が作る拳が地面に届くほどである。やや前傾気味となる体構造のバランスを保つためなのだろう。尻からはやはり鱗に覆われた、しなる金属のような尾が伸びている。
セレストの頭がかっと熱を帯びた。
その界獣を、彼は知っていた。
その尾が軟な陶物を打ち壊すように、父の体を叩き潰すさまを見たことがあった。
その牙が熟した果実を咀嚼するように、母の頭を噛み潰すところを見たことがあった。
その指が古い人形の四肢をもぎ取るように、弟の手足を引きちぎるさまを見たことがあった。
だから思った。
――二度も、オレの家族を食われてたまるか!
キリを助くべく、沸騰する血のままに少年は杖を構え、火弾を執行する。横合いからの不意打ちのつもりだった。
哀れなことに、彼は知らなかったのだ。
鰐めいたこの獣の視野が、人のそれとは異なって側面から後方にまで広いことを。
そしてキリの疲弊が、半ば偽りであることを。
彼女のそれは、擬傷に近い行為だった。自身が深手を負うと見せ、攻撃者の注意を引き寄せる演技である。霊素を多分に含んで仕留めやすい獲物を、つまりは自身を餌に、獣の群れを院に釣り上げていたのだ。
無論、これはあくまで半ばである。
彼女の肉体は衰えている。前線を離れて久しいこと以上に、加齢による弱りがある。霊素許容量も同様に、また。
亜龍とは恐るべき界獣である。
群れを成し、知恵がある。その知性により他の獣を飼い、罠を扱い、時に霊術の執行までする。魔獣ならずして、狡猾な人食いだった。
それを仕留めるほどの霊術執行は難しく、ゆえにキリは逃走の機を窺っていた。
己の動きの衰えを見せ、獣の判断の裏をかいて逃れ去るつもりだった。亜龍を除く界獣は屠ったのだ。あとの始末は国軍なり何なりに押しつければよい。
これが少年の目にも窮地と映ってしまったことは、皮肉と言うより他にない。
尋常の視野しか持たないキリは、セレストの乱入に気づくのが、亜龍よりもわずかに遅れた。
雄叫びとともに少年が執行した火弾を、亜龍はただ煩わしく、腕を振るのみで払った。
視線は一瞬もキリから外さない。セレストなどひ弱な羽虫に過ぎないと、ひと呼吸で看破しての挙措だった。次いで、重たい尾がうねる。セレストの胴を薙ぎ払おうという角度だった。
こんなものを少年の肉体が受けたなら、どうなるかなど知れている。人の形が残ればまだいい方で、まず尾の太さのぶんだけ骨肉が消し飛び、上下ふたつになった骸が転がるだろう。
だから。
障壁を多重展開したとはいえ、それを身代わりに受けたキリが生き延びたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
しかし、明らかに致命傷である。
セレストの身に打撃を及ぼすまいと、吹き飛ばずに踏みとどまったのがまたよくなかった。腹部の骨は粉砕され、その下で臓器がいくつも破損している。
『な、ババ……』
『まったく、足の速い洟垂れだ』
だが、血を吐きながら、キリは笑った。
ただ善性だけで飛び出した少年へ、余裕めかして彼女は口角を上げて見せた。
『しようがないから、そこでアタシの勝つとこ見てな』
亜龍の追撃がひと呼吸遅れたのは、キリに気圧されたからだ。
眼前の人間は弱り切っていた。もうひと噛みで屠れようというところだった。明らかに逃げ腰を見せており、そこを如何に仕留めるかの駆け引きの段にあった。
が、別の羽虫の現われにより、その気配が変わった。
亜龍が言語能力があったなら、そのさまをを「腹をくくった」「覚悟を決めた」と評しただろう。
実際にその通りであり、獣は一瞬の勝機を逃した。
キリの正面。杖と自身の障壁で体を支える彼女の胸のほどの位置に、ひと抱えもある青白い火球が姿を現す。
わっと周囲の気温が増した。霊術火の放つ高熱が、それを包む多重積層型障壁を抜けて放射されているのだ。執行開始と同時に自動生成されるこの霊術的遮断がなければ、無尽蔵の熱により一帯は焼滅していたろう。
真夜中の太陽──ありえぬものの名を冠された、純粋無垢なる熱。その召喚である。
王宮に縁深いキリは、この禁術式を知っていた。
だが真夜中の太陽は、人の霊素許容量では執行できない術式である。
そのような霊術の、詠唱棄却による執行。それは魔皇並みの霊素許容量を持つ存在にしか許されない仕業であり、到底人の身に行える所業ではない。
しかしキリは、我々はこの法則の抜け道をも知っている。
確定執行。ウィリアムズ家の血が伝える特殊能力。
己の命を燃焼させることで、どのような術式も必ず執行してのけるこの力は、過去、幾度となく研究されてきた。皇禍への備えとして、人類の希望として。
欲された結果はついぞ得られなかったが、この過程において、キリのような失敗作が幾人か生まれていた。命を賭せば、辛うじて真夜中の太陽程度は執行できる。そんな成功例は誕生していたのだ。
他世界干渉や魔皇討滅すら確定執行するウィリアムズの異能には及ばぬながら、魔女と称されたキリの霊術の礎はそこにある。
ゆえに可能だった。
命を擲っての、真夜中の太陽執行が。
霊術遮断が消失する。そうして解放された炎と熱は、完全な形で執行された術式の何百分の一かであろう。
が、それは亜龍を蒸発させるには十分すぎる代物だった。
瞬きの半分の時間で獣の五体は影も残さず焼き尽くされ――どさりと、キリが頽れた。
『婆!』
慌てて母親の体を抱き起こし、セレストは愕然とする。
この人はこんなにも細かったのか。軽かったのか。
『おい、婆!』
『……うるさいねぇ』
気だるげに息を吐くと、キリは弱い声を発する。それからセレストの顔を見て、揶揄うように口の端を上げた。
『なんだい。最近の男ってのは、人前で泣くのかい?』
キリのありさまに、セレストはただ絶句する。死相というものを、彼は初めてはっきりと見た。
『なんで、なんでオレなんかを庇ったんだよ。婆だけなら逃げれてたろ。オレを見捨てりゃ生きられたろ!』
『見くびるんじゃないよ。見どころのある若いのを生かすのは、年寄りの本懐ってものさ』
『でもよ!』
『時間がないから、アタシだけに喋らせな』
おそらく指を突きつけようとしたのだろう。
だが彼女の右手は、もうぴくりとも動かなかった。情けないとでも言いたげに、キリは首を竦める。
『アンタはアタシを頼ってよかった。アンタは洟垂れで、アタシは大人だからね。でもその上でもし、アンタが受けたものを借りだと思うなら。何か返したいと思える男なら。その時は振り返って、後から来るガキどもの世話をお焼き。――アタシみたいにね』
ぽたぽたと、キリの顔に涙が注ぐ。
もうそれを拭ってやれもしないのを、ひどく残念に彼女は思う。
『受けて継いで、渡していっておくれ。そうすりゃアタシもここで死なない』
セレストが幾度も頷くのを見届けて、キリは片目を瞑った。
『いい子だ。アンタは、自分で歩ける子さね』
もう一方の目が閉じるまで、さして時間はかからなかった。
――オレが殺した。
セレスト・クレイズはそう思う。
自分が枷になったのだ。自分がキリを殺したのだ。
オレは特別でなければならない。でなければ。もし、そうでないなら。
レライエ・キリが、無駄死にになる。
そんなことが許せるものか。
だから彼は積み上げる。墓標のように。
たった独りで歩き続ける。自信満々に、決して負けない大人の体を装って。
期待を背負い、重圧を担う。その上で傲慢に、不敵に笑う。大丈夫だと言ってやる。
自分にはそれくらいしかできないのだから、それくらいは努めよう。あの太陽のように、明るいものの象徴たろう。
決して折れない。諦めない。膝は突かない。
今日立たない奴が、明日歩ける道理はないのだ。
だから、足は止めない。止められない。
そうして彼は、彼のかたちを決めた。
自らを特別だと嘯き、英雄の如くに振舞った。
笑われもした。謗られもした。
だがいつしか、彼はこう呼ばれ始める。
その術式からだけでなく、アーダルの太陽、と。
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彼の奥で泣きじゃくる少年に触れた、その時。
ネスの意識の髪を掻き乱して、何か風のようなものが吹き抜けた。水から大気の中に抜け出たように、ふっと解き放たれる感触がした。
同調解除。
現実の時空間軸に押し戻されたネスフィリナは、セレストの体にしがみついたまま顔を上げる。恐る恐る、確かめるように。
「よう、ネス公」
降ってきたのはぶっきらぼうに優しい、ネスがよく知る彼の声だった。
くしゃくしゃの涙顔でより強く縋りつく彼女を支え、セレスト・クレイズは不敵に笑んだ。




