夜明け前
夜闇が包むアーダル王城内を、ふたつの影が歩んでいる。
王の居室を目指し手を繋いで行くそのふたりとは、ケイト・ウィリアムズとネスフィリナ・アーダル・ペトペの両名であった。
水先人を務めるのは城内暮らしの長いネスだ。ケイトは手を引かれるがまま、呑気にその後へついてゆく。
如何にも貴族めいた衣装の長衣を纏うネスに対し、今宵のケイトは戦装いだ。兜に胸当て、手甲、足甲。いずれも体の動きを阻害しない軽量の品ながらもしっかりと身を鎧い、更には左前腕に固定した円形盾に帯剣の出で立ちである。
本来ならば城内において目を引かずに置かない姿だが、オショウの陽動と、それに当たるべく出撃した機械化歩兵たちの国軍とは異なる姿が幸いし、今のところ誰何の声を受けてはいない。
このことを、ケイトはネスのお陰と信じて疑わない。
セレスト・クレイズやミカエラ・アンダーセントいった身分の低い者を側に置くことで知られた第三王女ネスフィリナである。異装の娘が侍ろうと、ネス自身がそれに心を許すようなら、周囲は王女の新たな護衛と見るばかりだ。
加えてネスには同調能力がある。これがもたらす精神干渉により、ケイトは自身が隠されていると考えていた。周囲の認識能力を低下させることで、誰もが自分に目をくれなくなっているのだ、と。
ゆえに繋いだ手の先を進む小さなその背を、大変頼もしくケイトは思う。
一方でネスも、ケイトへの評価を大きく上方修正していた。
実を言うとネスは、ここまでほとんどその特殊能力を用いていない。ここまでの無事を確保したのはケイト当人である。
ネスたちは、これまでに幾人かの騎士や侍女らとすれ違った。
一瞬訝しく向けられる視線に、しかしケイトはゆったりと、ただ微笑んで会釈する。すると彼らは自分勝手に合点して、会釈を返して去っていくのだ。
霊術でも技術でもなく、ケイトの持つ空気、備える雰囲気といったものの働きだった。
もし仮に仮に隣を歩くのがテラのオショウであったなら、どうか。
明らかな威風を放つ異彩極まる彼の存在感は、ネスの干渉すら押しのけて、人々に怪訝を抱かせたことだろう。
しかしケイトは違う。ごく自然な仕草で、自分を無害だと錯覚させてしまう。
無論、これはただの呑気ではない。武装した兵の数人程度であれば、たちまちに無力化する手並みをケイトは備えている。それゆえに緊張も力みもなく自然体であり、だからこそ誰もが、居て当然の人物と判断を誤るのだ。
こういう立ち居振る舞いがあるのだとネスは感嘆しきりだった。
平素から朗らかで頼れる優しいお姉さんだと思っていたし、オショウや魔皇を叱りつけられるのは彼女くらいなものだろうと一目置いてもいた。けれど現在は戦時であり、戦場である。ならば自分が守らねば。そう、ネスフィリナは気を引き締めていた。
だがそんな心配が無用なくらい、ケイト・ウィリアムズは出来る人物だったのだ。
親しい相手が秀でる姿が、ネスにはとても嬉しく思える。つい振り返って見上げると、ケイトは小首を傾げつつも、にっこりと笑んでくれた。自身も笑顔を見せてまた前へ向いたその時、「あら」と不意にケイトが零す。
再度振り仰げば、口を押えるようにした彼女の表情には曇りがあった。
「?」
「ネスフィリナ様。ええ、困ったことになりましたわ」
「??」
「イツォル様との繋がりが、途切れてしまいましたの」
ケイトの浮かべた憂いとは、ミカエラ率いる別動隊との霊術リンクが不意に途切れたことが理由だった。
只事でないのは明白である。
連絡術式の執行と維持を担うのはイツォル・セム。テトラクラムという都市の防衛をただひとりで請け負う凄腕なのだ。そんな彼女がケアレスミスで術機能を損なうはずはなかった。
そもそもイツォルはカナタの相方として立ち回るだけの武も心得えた人物でもある。たとえ急な戦闘が発生しても務めを完遂することは疑うべくもない。
であるからこそ、この断絶は異常事態だった。即座の撤退を決断すべき状況である。
だが。
「ええ、由々しき事態です。わたくしたちは、どうするべきですかしら」
片膝を突いて目線を合わせ、敢えてケイトはネスに問うた。
一行の誰よりもセレスト・クレイズの奪還を熱望するのはこの少女だ。王城潜入を遂げ、一旦与えた希望をすぐさま除くのは心苦しいことだった
何よりケイトの主観としては、この潜入行はネスなくして成り立たない仕業である。精神干渉なしでは退くも進むも覚束ず、ならば進退はネスフィリナに委ねるべきだとケイトは考えた。
「……!」
ネスはしばし逡巡したのち、繰り返し大きく首を横に振った。
頑是ないわがままではない。状況を把握し、判断し、その上で示した意志だと見極めて、ケイトはぱんと手を打った。
「わかりましたわ。では作戦続行と参りましょう。ええ、そういたしましょう」
のんびり笑んで、立ち上がる。
「いいの?」とばかりに見上げるネスへ、大人ぶった風情で語りかけた。
「ネスフィリナ様、戦場というものは、刻一刻顔色を変えるものなのですわ。ですから作戦もまた、その変化に応じて自在とすべきなのです。オショウさまも以前、柔軟性の大切さについて強く説いていらっしゃいました」
ちなみにオショウが語った柔軟性の肝要さとは運動前のストレッチについてであるが、もちろんその事実を明かすつもりはケイトにない。
「ですから、お仕事を完遂しましょう。王様をお尋ねして、空振りならその時はその時ですは。また柔軟に考えましょう。それまでに、イツォル様との交信も回復するかもしれませんし」
「!」
ぶんぶんと頷いてから、それとは異なる仕草でネスは深く頭を垂れた。
何も問わずに無茶に同行してくれるケイトへ、心よりの感謝を示してである。
セレストを救いたい気持ちは、ネスの中に強くある。
だが彼女が作戦続行を主張したのは、確信があったからだった。
親の顔は、ぼんやりとだけ覚えている。
だがその人から向けられた憎悪は、骨身に染みて記憶していた。
幼い頃はよかった。だが同調能力――カイユ・カダインの直系を示す何よりの証しとなる、その能力をネスが生まれ持つと知れてから、その人は豹変した。
ただ身の回りからネスフィリナを遠ざけるのみならず、積極的に加害した。肉体的にではなく、精神的に。
言葉をはじめとした意思疎手段を忘却させ、同調以外に価値のない存在として吹聴した。自ら、自らの子を霊動甲冑改良のための研究素材として扱った。
更には城中に噂を立てた。心を読み、心を操る厭わしい子だ、と。
そうしてネスが人々から遠巻きにされるよう図らった。本当にそれをするのは、我法を用いる王自身であったというのに。
また事あるごとにネスを呼びつけては、ちくりちくりと彼女を謗った。
勉学や行儀作法を不出来を細々と取り上げ、その非を鳴らした。
そうして至る結論はいつも同じだった。
――お前は人に好かれない。誰からも愛されない。何故なら無能だからだ。
――その証拠に、満足に喋れもしないじゃあないか。
そんな親の感触を覚えるからこそ、ネスは確信している。
あの人は自室でわたしを待ち受けている。出来損ない、才能だけの失敗作と罵られるのは、いつだってそこでだった。
だから今夜も同じだ。あの人は同じことをする。あそこでわたしを待ち構えている。セレスト・クレイズを侍らせて。何故なら我が子が、ネスフィリナが一等欲しいのが彼だと知っているから。
案内を務めながら、ネスはぎゅっとケイトの手を握った。
この道を行く時は、あの人のところへ向かう時は、いつも怯えていた。傷つけられると知っていたから。嫌われていると思い知らされたから。
でも今、この心に怯えはない。
立ち向かう力をくれた人たちがいる。為さねばならないことがある。
助け出したい、人がいる。
確たる意志で唇を結び、ネスフィリナは王のもとへと歩みを進める。
そうして彼女の予想した通り、果たして彼はそこに居た。
術的装飾を施された、メタリックな印象の霊杖。霊素集積の紋様が織り込まれたマント。一目で霊術師と知れる、特徴的な出で立ちで。
アーダル王の居室の前に、それは人形のように佇んでいた。
「迷子を届けに参りましたわ、セレスト様」
気後れもなく、ケイトが開口一番そう告げる。
が、反応はない。ガラス玉のように感情のない目が、じろりとこちらを向いたのみだ。
やがて、内部で幾つかの反応が噛み合ったのだろう。糸で繰られる傀儡のように、彼は杖をケイトへ向けた。
「!」
「ミカエラ様の、ご推察通りですわね」
身を竦めるネスの背へ、ぽんとケイトが優しく触れた。
「それではネスフィリナ様、打ち合わせ通りに参りましょう。わたくしが道を開きますから、しっかり機を窺ってくださいましね。薄情者を、ばしんとひっぱたいて進ぜましょう」
「!!」
強くネスが頷くのと、セレストの杖周りに複数の炎珠が生じるのとはほぼ同時だった。
テトラクラムにおいて、ケイト・ウィリアムズの戦闘能力の序列は高くない。
確定執行を除けば秘技も秘術も彼女は持たない。よく鍛錬してはいるが、武術も霊術も衆より頭ひとつ抜ける程度だ。自らを評して述べる、「それなりにそれなり」という言葉は的を射ている。
しかしながらそれは、テトラクラムという異常環境においての評価だ。
一般的な視点からすれば彼女は、刀槍剣戟の術を修め、治癒から破壊まで各種霊術に精通した女傑である。確定執行という得物を最大限に振るうべく研がれた人類の牙なのだ。その手札は数多く、嗜みは深い。
一種のオールラウンダーであり、ネスの同行者として選ばれたのはその器用さを期待されてのことである。
しかしながら命に直結する判断を刹那の間に下し続ける戦闘という状況において、選択肢の多様さは絶対的なメリットではない。
切るべき札を選ぶ判断の時間は必ず生じ、それは思わぬ隙を生む場合がある。ひとつことに特化した者が、多彩を売りとする者を打ち破る要因だ。迷いなくそれだけを狙う一芸の速度は、しばしば多芸の多彩を凌駕する。
だがこの点においても、ケイト・ウィリアムズに不足はない。
自身の技術を、彼女は十全に把握している。様々な局面で、様々に組み合わせての立ち回りを仕込まれている。条件反射のように、複数から最善を選び出す速力に長けている。
結果を優先し、最短だけ尊ぶ突飛な言動を時折見せるケイトであるが、その先走りの根はここにあるとも言えよう。
怜悧極まる判断で、盤上、盤外問わぬ躊躇なく戦術の限りを尽くす。それもまた彼女の一面である。
だから、この邂逅は戦いにすらならなかった。
鋭い呼気と共に、ケイトが一剣を振るう。そのひと振りで、セレストが生んだ炎珠のいくつかが消失した。
瞬間的に、刀身そのものより長く伸ばした霊刃により薙ぎ払ったのだ。
炎珠は剣呑な霊術である。
凝縮された火は霊肉問わずわずかな接触により起爆し、爆風と爆炎を撒き散らす。このような閉所において、その暴威から逃れるのは困難だ。場合によっては術者自身の身を焦がしかねず、本来のセレストであれば決して用いぬ術である。
だが驚くべきか、ケイトの斬撃はその炎珠に、火の粉を散らすことすら許さずに消失させていた。
無論、彼女の動きはただひと振りに留まらない。
するすると足を運び、更に刃を閃かせる。
生成から射出までのわずかの間に、霊術火の全てが撃ち落される。一流の武芸者に見られる、舞に似た美しさと速度による仕業だった。
これに応じて、セレストが対応を変える。
逆腕を横振りし、詠唱棄却で火の壁を起こす。これによりケイトの接近を拒み、更に霊杖にて照準。火弾を連続照射する。炎珠より小さな弾体は、それでも或いは人体を貫通し、或いは直撃箇所から炎上させるだけの火力を秘めている。加えて執行速度も炎珠に数段勝る。
が、当たらない。
無数の射撃のひとつたりとも、ケイトを捉えるに至らない。
盾で、剣で、障壁で。彼女はゆるゆると全てを逸らす。炎壁をただひと打ちに打ち崩し、風に乗るようにして距離を詰める。
ケイトとセレストは、元来相性が悪いのだ。
セレスト・クレイズという人間は、野放図に見えて律義である。自然その立ち回りも盤面で、ルールの内で思考を尽くして構築されている。
対してケイトの戦術とは、先に述べた通りのものだ。彼女は盤外から殴りつけることを厭わない。
セレストが時折ケイトに絶句させられるのは、こうした噛み合いの悪さが一因だ。
それでも常のセレストであれば、ケイトのこの動きに対応してのけただろう。彼には積み重ねた経験が、これまでの生の記憶がある。
けれど今、セレストはそれらを喪失している。我法により、そのほとんどを忘却している。
つまりケイトにとって、あまりに容易い相手だった。状況に適した霊術をそのまま撃ち出すばかりなのだ。その攻撃は素直で真っ直ぐで、実に読みやすい。
セレストの最大の長所は、自由奔放に見せた理詰めだとケイトは評している。とても読めない着地点を、段階を踏んで達成してくるのだ。引っかけられてからやっとそれと知れる謀略の糸を、常に幾本も張り巡らしているのだ。
大雑把に見えて繊細。絶対に力任せではなく、常に布石を敷いている。ひとつの目標のために十、二十の策を弄し、それでいてそのいずれにも固執しない。
たとえば、本来のセレストであれば、炎珠をああは使わない。ケイトに直撃させようなどとは絶対にしないだろう。
少数生成した霊術火を壁、或いは床に着弾させ、避けがたい爆風と高熱とでケイトを削ってくるに違いなかった。
火弾もそうだ。当たるべくもない、現在位置へただ放り込むだけの霊術砲火など決して放たない。移動先を予測した偏差射撃はもちろん、逃げ場を失うような誘導やネスを巻き込む位置取りだって、当然のように行ってきただろう。
そもそも何の支度もなく、ただ相手を待ち受けるだけという愚策は絶対にするまい。
アーダル王は彼を駒とするに当たり、そうした手練手管の全てを奪ってしまった。
そうしてしまったなら、もう。
結果は見えているというものだ。
とは言え、この点においてアーダル王が愚かだったと切り捨てるのは忍びないことだ。
この感慨は、ケイトがラーフラの魔群を単身切り抜ける実力の持ち主であるからこそ抱けるものであるのを失念してはならない。傀儡化されたセレストであっても、並の、いや、一流どころの戦士をたちまち炭にするだけの力は備えている。
「セレスト様の一番お怖いところはその臨機応変。柔軟極まるご判断ですわ。なので、今のセレスト様はちょっぴりもも怖くありませんわ。ええ、ほんのちょっぴりも!」
剣士に間合いを詰められ、術師が腰を落とした。
わずかに曲げた膝で飛び退り、距離を設けて次の霊術を執行しようというのだろう。
が、その体がぴたりと止まる。
跳ねようとしたその時、ぴぃぃっと間近で鋭い音が鳴り響いたからだ。
それは指笛の音だった。アンダーセン邸が襲撃されたその夜、セレストが戻った折に吹き鳴らしてみせるべく練習を重ねていた、ネスの指笛だった。
セレストが、はっとそちらを振り向いた。
ケイトに気を取られるうちに、驚くほどの近くまでネスの接近を許していた。
咄嗟にそちらへ向けようとした杖が、がくりと引き攣るように止まる。
――そうじゃねェよ。こうして、こうやって、こうだ。よし、それで吹いてみろ。
それは不自然極まる停止だった。空白の中でわずかに生じた、何かの感情の動きだった。
その隙を許すケイトではない。一足飛びに間合いを詰め、霊刃を宿した剣を横薙ぎにする。狙いはセレストの杖だった。アプサラスに長逗留していたから知っている。セレストがいつも握るのは千年樹の霊杖だ。あのような機械的金属杖ではない。
だから直感的に、ケイトはまずそれを断った。
「があッ!?」
判断に誤りはなく、杖をふたつに断たれたセレストが苦鳴を上げる。
身を折っての呻きもまた、平素のセレストなら決して見せない挙動だったが、致し方ないことであったろう。彼の杖は、機械化歩兵たちの機械部分と同様の逆同調機関。空白の人格を自在に操るために添えられた補助輪である。
新型霊動甲冑と同じく、この杖もまた逆同調中の感覚を共有するものであり、つまりセレストは今、自身の肉体を両断される苦痛を味わわされたことになる。
「ネスフィリナ様!」
「!!!」
ケイトの声と同時に、ネスが走った。ケイトが作ったその隙を、今度はネスが活用した。
セレストの腹の当たりへ体ごと飛びついて、ぎゅうとその背に両腕を回す。肉体的接触を経ての深い同調により精神を接続、施された我法の破壊を狙う意図だった。
――届け。
斯様に強い強度の同調はネス自身の心へも変革と傷をもたらしかねない。が、迷う道理はなかった。
セレストと、初めて出会った日を思い出す。
子供扱いされたのは、あの時が初めてだった。子供扱いしてくれたのは、貴方が初めてだった。
軍用兵器。霊動甲冑の中身。心を盗み聞く薄気味悪い娘。
周囲の大人たちはそんなふうにしか自分を見なかった。ミカエラは優しかったけれど、やはり関係は立場を弁えたものだった。王族と騎士のそれだった。
ネスフィリナ・アーダル・ペトペという子供を、案じる心で叱ってくれたのは彼だけだった。
彼が現れてから、ミカエラも少し変わった。いや、自分自身が変わりもしたのだろう。
それから、ふたりに色んなことを教わった。色んなことをふたりから学んだ。生き方も歩き方も考え方も戦い方も。嬉しい成功も、苦い失敗も、全部全部、あのふたりの記憶と共にある。
――届け!
声なき声で、ネスフィリナは叫ぶ。
もしも、貴方が忘れてしまったとしても。
貴方がくれたたくさんを、わたしは決して忘れない。
子供扱いされた時に始まった気持ちは、今もずっと、この胸の中に灯っている。
きっとそれが、わたしの幸福のかたちだ。
祈りのように同調の指先を、心の深い場所へと伸ばす。法に焼かれた荒野で、今も燻る傷へと触れる。
そうして彼女は、彼の原風景を垣間見る。




