開戦前夜
「――以上が、今日ここに至るまでのあらましになる」
アンダーセン邸襲撃からテトラクラムまでの逃走劇を語り終え、ミカエラは一同を見渡した。
テトラクラムに城はない。が、政庁としての機能を持つ館はある。カナタが有する屋敷がそれだ。その一室、平素は都市行政にに関する会議室に会するは8名。
最高執行機関の長たる聖剣、カナタ・クランベル。
その副官、千里眼にして順風耳なるイツォル・セム。
都市防衛顧問の地位に座すソーモン・グレイ。
アプサラスからの派遣戦力であり、確定執行の名で知られたケイト・ウィリアムズ。
ケイトの従者にして界渡りたるテラのオショウ。
彼ら人類最高戦力の監視を受ける、人の天敵たる魔皇ラーフラ。
そしてアーダルよりの逃亡者となったミカエラ・アンダーセンと、ネスフィリナ・アーダル・ペトペ。
魔皇を除くいずれの顔にも、軽い動揺が見て取れた。
さもありなんことである。ミカエラの話を額面通りに受け取るならば、それはアーダルの太陽、セレスト・クレイズの敵対を意味するからだ。この場の全員が、霊術師としてのセレストの力量を弁えている。
だが一同を真に揺るがしたのは、彼の能力とそこから予想される脅威ではなかった。
セレストは、自ら任じて集団の士気と雰囲気を取り持つ役割を果たしていた人物である。程度の差こそあれ、ゆえに自然、誰との間にも信頼や連帯の感を生じていた。
その男の離反は、年若きが多くを占めるこの面々には十分すぎる精神的衝撃であったのだ。
「じゃあ、ミカエラさん。セレストさんは……」
確定を恐れるように、しかし確かめずにいられずにカナタが問う。
その不安に、ミカエラは笑みを返した。
「決して裏切ったわけではない……と、私は考えている」
「でもセレスト様が、おふたりを襲撃なさったのは事実なのですわよね?」
希望的観測に異を唱えたのはケイトだ。
この娘は理想を見ながら、決して現実から目を逸らさない。
「ああ、順を追って、それについても話さなければね」
ミカエラは言葉を切って、隣に座るネスの肩を揺すった。舟をこぎ始めていた少女は、慌ててしゃんと背筋を伸ばす。
今日までの逃亡で、ネスは随分無理を重ねていた。
子供の体力を案じ、ミカエラのみならずテトラクラムの面々もネスを休ませようとしたのだが、彼女はいっかな肯じない。セレストとアーダルに関わることだからと主張し、とうとう周りを折れさせて席に加わっていた。
「まず明確に告げておこう。私とネス君、そしてセレストは肉体的、霊基的な改造を受けている。私の目やネス君の同調、セレストの霊素許容量はその産物だ。だが施術者が我々に与えたのは力のみならず軛もだった。有体に言えば、工房の調整を受けぬまま一定期間を経れば死に至る。そうした霊術式を密かに仕込まれていた」
「ならふたりは、必ずアーダルに戻らないとならない?」
イツォルの確認へ、ミカエラは首を横に振る。
「セレストがそれに気づいていてね。既に私と彼のものは解呪済みだし、ネス君には元々術式が施されていなかった。その点の問題はない」
存じております、とばかりにケイトが頷いた。
アプサラスで時限呪が発覚した際、その解呪に彼女も携わっている。
「が、我々に施術した心魂工房洞主とその裏に居たアーダル王は、想像以上に狡猾だった。時限式の死は、発覚を前提とした警報装置の一種だったのだろう。おそらく術式の解除を、施術者が感知できるよう仕組まれていた。大人しく調整を受け続けることを拒絶し、この死へ対処すること。それがそのまま、二心の証しになるというわけだ」
「するともちろん、その先の対策があったわけですね?」
「ああ。真夜中の太陽という秘術式を託したセレストには、もうひとつ首輪がつけられていた。憶測になるが、その正体が忘却だ」
真夜中の太陽は魔族を、魔皇を焼くほどの霊術式である。
それほどの力の委託に際し、セーフティを用意しないはずがないのだ。たとえばウィリアムズの召喚術が被召喚者に、召喚者への絶対遵守を書き加えるように。
「あの夜、セレストは私やネス君を見知らぬ相手のように遇した。あれは実に大雑把な男だが、我々の顔を忘れるほどの間抜けではない」
「その一事のみで忘却とやらを結論するのか? アーダルの神眼は、随分都合のいい視野を持つようだ」
嘲弄したラーフラが、「めっ!」とばかりにケイトに睨まれる。
応じて憎まれ口を返そうとした様子だが、オショウが腕を組み直すのを見て口を噤んだ。
「無論、そのことだけでたどり着いた着地点ではない。ネス君の異能も関わっている」
「!」
最前で眠気を振り払っていたネスが、元気よくその手を挙げる。
残念ながら、その口から言葉は出ない。代わって、ミカエラが引き継いで説明を続けた。
「ネス君に与えられた同調能力は、主として封入式霊動甲冑を繰るためのものだ。が、これは器物のみならず人間へも効能を及せる。この子は他者へ接続し、その記憶と認識を書き換えることができるのだ。念のため申し添えておくと、精神崩壊をもたらすような干渉はありえない。ネス君自身も強烈な反作用を受けることになるし、そもそも好き好んでそんな真似をする子ではないからね」
「! !」
ミカエラの言いに全力でネスが頷く。そんな振る舞いを自分は決してしないという最大限の意思表示だ。この顔ぶれならわかってくれる、自分を信じてくれると、ネスはそう思っている。
それでもおっかなびっくりの風情で一同の顔を見渡したのは、その同調能力がゆえに、かつて宮中で忌まれ、疎まれ続けた記憶があるからだ。
そんな視線の意味を鋭く察し、真っ先に動いたのはケイトだった。駆け寄って、大きく広げた両腕で、椅子ごとネスを抱き締める。ひと呼吸遅れたイツォルが、緩くウェーブしたネスの髪を撫で、指先で梳った。
カナタが、浮かせかけた腰を落とす。ふたりに任せれば大丈夫だと、そうわかって見守る姿勢だった。
ミカエラと目線を交わし、「うむ」とオショウが息を吐く。
「さておきこの同調は、カイユ・カダインの血筋に発生する異能だ。ならば同じくカダインの血を引く王にも、そのような業があるのではないかと思った。その見地から振り返って、愕然としたよ。ナハトゥム・アーダル・ペトペ。私は王がこの名を持つことを知っている。が、それ以外は何も知らない。否、覚えていない。王の顔も、声も、年齢も。確かに謁見したというのに、何もかもわからないのだ。それどころかこの記憶の欠落にすら、事ここに至るまで気づけなかった」
しばしののち、弛緩した空気を引き締めるべく、ミカエラは再度口を開いた。
「アーダル上層部には、予てから我々の横行を目こぼしする風情があった。それも、この伏せ札があったればこそだろうね。ネス君のものよりも数段強力な、我法めいたものをあちらは備えているのだ。そしてこの推定我法の恐ろしさは言うまでもあるまい」
手を止めて、最も強く同意を見せたのはイツォルだ。
諜報の心得がある彼女は、やはり最も深くこの脅威を理解している。
「セレストのような大規模改竄には、おそらく仕込みが要る。不要だというのなら、世界を丸ごと都合よく描き変えてしまえばよいのだ。忘却の陰に自身を隠す必要はない。だが、簡易的な干渉が、どこまでの効能を備えるか不明なのが恐ろしいところだ」
「たとえば防諜のために、知らない人を警戒するのは当然。でもこれは、『相手を知らない』という事実や『警戒しなければいけない』という認識自体を欠落させてくる」
イツォルの補足に、「その通りだ」とミカエラは頷いた。
「そうして無防備の接触が続けば、じき大規模改竄の条件を満たしてしまうことになるだろう。これは人格の改変に近い行為だ。オショウ君がウィリアムズ君のことを、クランベル君がセム君のことを忘れ去った場合を思えばいい。判断基準が大きく変わってしまうことは、想像に難くないだろう?」
カナタが険しく眉を寄せた。
真っ正直な彼は想像したのだろう。自分が大切に想う人をそのように忘却させられるさまと、その不快感を。
オショウの表情は未だミカエラには読めないが、それでも彼の面にも、危機感が生じたように思う。
「だがそれは決して、完璧ではない。初期段階ならば記憶の虫食いは推論で埋めうる。また、アーダル王城の推移を振り返れば、徐々に浸透させる他ない時を要する法なのも確かだ。そしてもう一度言おう。効果のほどは強烈だが、これは完璧なものではない」
夜襲の折の光景を、改めてミカエラは思い返す。
セレストは当初、まるで知らぬ者を見る目で自分と対峙した。だが攻防の内、そしてネスの霊動甲冑が乱入してのち、彼は混濁を見せた。まるで知らない記憶に戸惑うように。
その動揺が深いものであることを裏打ちするように、セレストの姿は追撃者の中になかった。
無論、甲冑二領に加えてアーダルの太陽まで動員するのは過剰戦力というものだ。しかしセレストのような指揮官を戴いていれば、あの霊動甲冑たちは今日のような無様を晒さなかったろう。
明らかにアーダル王は控えたのだ。セレスト・クレイズを前線に出すことを。自らの傍から、法の圏内から遠ざけることを。
「つまり、セレストさんを元に戻せる可能性があるんですね?」
「ああ。当然ながら、これは希望的観測だ。完全な事実ではないかもしれない。だが正鵠に近い箇所を射ているはずだと、私はそう考えている」
視界の隅に魔皇を置いてそう答えてから、ミカエラは居住まいを正した。
「アーダル王のこの脅威を伝えた上で、もうひとつ付け加えておきたいことがある。それは王が大樹界に深い関心を持ち、その足掛かりとしてテトラクラムを狙うという事実だ」
セレスト・クレイズの変心という札を切るのはいつでもよかった。
逆に言えば、もっと有効的な場面で用いることもできた。より長く伏せて、警戒されないままミカエラやネスフィリナを自家薬籠中の物とすることも可能だったろう。
が、彼が改竄を受けたのは王城に上がった直後である。
引き金となったのはまず間違いなく、ロードシルト文書だ。グレゴリ・ロードシルト。かつて大樹界を最も深く進攻した男の手記である。
王はどこにも内容が漏れぬ今のうちに、それを確保することを優先したのだ。
「もちろんこれらは、ただの憶測と一笑に付されても仕方のない見解だ。それでも以上を踏まえて、私は君たちに願い奉りたい」
席を立ち、ミカエラは一同へ深く頭を下げた。
「何卒、我が友を。セレスト・クレイズを救ってはもらえないだろうか。見返りもなく、頼ることしかできず。君たちに、テトラクラムに火の粉を及ぼすと知りながら、厚顔無恥にもここへ来たのはこのためだ。この懇願をするためだ。どうか――」
ケイトたちから離れ、ネスフィリナもまた彼の隣に並ぶ。
そうしてやはり深く、静かに頭を垂れた。
「臆面もなく友誼に縋るか。馬鹿げた話だ」
真っ先に切って捨てたのはラーフラである。
彼にしてみれば、人の内紛は好むべきところだ。勝手に相争って数を減らし、戦力を失ってくれるなら万々歳に違いない。
だから魔皇は、テトラクラムがアーダルへの介入するを好まない。物理的圧力で全てを解決してしまう、面倒な切り札がここにいると知悉するからだ。
「そうだ。我々は厚意に縋るしかできない身だ。それは熟知した上で、今一度ご一同にお願いしたい」
「ミカエラさん。いえ、アンダーセン卿」
悪意めいたラーフラの意見へも耳を傾けたのち、カナタが言いを改める。
顔を上げて、ミカエラはその視線を真っ向から受けた。
「僕は、してもらってばかりというのは駄目だと思います。手を伸べてもらったら、ありがとうの後に、いつか恩返しをしたいと考えます。助けてもらって当たり前の顔なんて、絶対にしたくありません」
そこまで告げて、カナタは厳しく作った表情をふっと緩めた。年相応の、少年の顔になる。
「ですから、頼っていただけて嬉しく思います。やっとセレストさんに、そしてミカエラさんとネスちゃんに、恩返しができますね」
「後々の対立が予測できるなら、敵地の内情を知る人へ恩を施すのは実利。危難を事前に制するのは兵法の基本。それに何よりわたしだって、アーダルのみんなにはお世話になっている」
「!」
カナタとイツォル、ふたりの言葉に、ネスがぱあっと顔を輝かせた。
お人好し極まる判断に、ラーフラは鼻を鳴らすばかりだ。
「あ、ごめんなさい。勝手を言ってしまいましたけど……」
「異存はない」
振り向いたカナタへ、オショウが強く頷きを返す。
「臆さず一歩を踏み出すことが肝要と、俺の憧憬する女から教えを受けた。最早動くことに迷いはない。ゆえに、俺の名を呼べ。その声に応えるために、そのためにこそ俺は在る」
前半はカナタへ、後半はミカエラとネスへ向けた言いであった。
隣でケイトが、ぱんと両手を打ち鳴らす。
「ではでは至極残念ですけれど、おふたりの歓迎会は後日にいたしましょう。セレスト様も加えて、賑やかに開きたいですものね。ええ、賑やかがいいに決まっています!」
「またしても依怙の沙汰か、アプサラスの巫覡。君は傲慢なのだな」
「ええ、そうですわよ。わたくし、傲慢でわがままなのです。ですから大好きな人たちのためになら、いくらでも働きますわ」
せめてもの嫌味として放った一矢は、またしても一刀両断だった。
「……なるほど。裏を返せば君は、いけ好かない者は悉く見捨てるというのだな。君に縋る力無きを、まるで悪しきのように扱うのだな」
「そうは申しませんわ。ただこうは思います。力不足を知りながら、備えないのはよくないことだ、と」
ぐうの音も出なかった。
他の者の言いならば鼻であしらいもできたろう。だが彼女は確定執行のウィリアムズ。人類のために、魔皇と相討ちになるためだけに備え続けた一族である。そしてケイトは実際に、死力を尽くしてラーフラを討ち取らんとした女であった。
「まあ、いい」
魔皇が深々と息を吐いた。
「ソレが一時でも私から遠ざかってくれるなら重畳だ。そのためであれば、私も世のため人のために助力しようさ」
「あら、魔皇様。それでは今回もテトラクラムをお守りいただけるのですわね。ありがとうございます!」
「うむ、助かる。是非にも頼らせてもらいたい」
吐き捨てを逆手に取られ、ラーフラはぐっと押し黙る。
なお、オショウとケイトにそのような意図はない。両名とも完全な善意と感謝からの発言である。それが一層、ラーフラを歯噛みさせた。カナタとイツォルが、こちらへ温かな眼差しを注いでくるのも気に入らない。
憤懣遣る方ない魔皇を捨て置き、ケイトはネスの傍へ寄った。その両肩に手を乗せて、力強く宣言する。
「それでは、殴り込みですわね!」
「うむ」
「ケイトさん、言い方!」
思わずでイツォルが諫めた。
状況的にはその通りだが、都市間、延いては国家間の問題である。あまり物騒は言わずにおいて欲しい。
あ、と口に手を当て、ケイトは素直に詫びた。
「失礼いたしました。わたくし、また先走ってしまいましたわね。ええ、先走りですわ」
「うむ」
理解を示してくれたと胸を撫で下ろす間もあらばこそ。ケイトが再び胸を張る。
「いざ、開戦ですわね!」
「うむ」
「だからケイトさん!!」
「オショウさんも、安易に頷きすぎです」
喧しい若者たちの横で、ソーモン・グレイは無表情を崩さない。
都市を揺るがしかねない指針決定の場において、彼は一言も口を挟まぬ、泰然自若のさまを維持していた。
彼を見る者があったなら、それを大人の余裕と受け取ったろう。若きの判断を支える、縁の下の力持ちの心積もりである、と。
(太陽君と縁のある人は皆アーダルに行きたい。でもって前言通り魔皇様は動く気がない。つまりテトラクラム残留確定。となるとおじさんのお仕事は、魔皇様とふたりで都市防衛戦線維持だー。やったー。……これ、おじさんの胃が凄くしくしくするヤツだよ!)
無論、その内心を知る者はない。
各々に先を見る一同へ、ミカエラは改めて深く礼をした。
そののち上げた顔で、遠くアーダルの方角を見やる。思うは友人であったが、案じるのは彼の身の安全ではなく、行動の方である。
もしこの仲間たちの記憶がセレストから失せていたなら。
あの男は必ず、状況を独力で打開しようとすることだろう。迂闊な暴発をしていなければよいのだが。
居ても居なくても手のかかる奴だと眉根を押し揉んでから、ミカエラは微かに笑った。
アーダルを逃れてのち初めて浮かべた笑みであり、やっと生じた心の余裕だった。




