歩み
もっと、多くを学ばねばならない。
そして、より深く思考せねばならない。
テトラクラムへの帰途を踏みながら、オショウはそのように思う。
胸中にあるのは無論、最前ラーフラに惑わされた己の不甲斐なさである。
これまでは、元の世界では、ただ眼前の敵に対処すればよかった。
戦いは即ち人と蟲との生存競争であり、銃後拳後の平和を守るという意志のもと、ただそれだけの生きざまが許された。
それはこの世界でも同様だった。
ケイト・ウィリアムズという尊敬すべき人物に頼まれ、頼られ、それを受けた。
理由は、己の外にあったのだ。
が、剣祭の折に経た旅路で、オショウはただそれだけの自分を脱却すべきとの結論に至っている。
幾人もの面識を得、旅路を経、世界を見た。ほんの一部であるけれど、それらはオショウの中の判断基準として息づいた。アプサラスで暮らすうち、ケイトとケイレブ、ウィリアムズ姉弟から受けた影響の結実でもあった。
ゆえに、ある。
今はあるのだ。
この拳を振るう理由が、己の中に。
誰の決断でもなく、己の働きの責を己が担って歩く。そのなんと峻険で、なんと誇らしいことか。
しかし、足りない。足りていない。歩むべき道を見出しただけでは不足なのだ。
ラーフラの口舌が如く、ひとつの真理を提示されただけで揺らぐのがその証拠であろう。
翻って、ケイト・ウィリアムズを見よ。
同じ舌に晒されながら、何ひとつ動じることなく、己の抱く真理を示して見せた。彼女の姿勢の美しさに、改めてオショウは敬服した。魔皇すらたじろがせるそのさまは、まさに光輝と呼ぶべきだろう。
人生経験の少ない自分が、すぐさまケイトの境地に至れるとは思わない。
だが、一日でも早くその隣に並べるようになりたいものだと、オショウは無表情のまま心の内で嘆息する。
この世界には死が多い。
次善と最善を自身の目で選り分け、未来への道筋を見据え、それでもなお、多くの人々が無辜に死ぬ。自分とて、いつ終わりを迎えるか知れたものではない。時は有限だ。千里の道と知ればこそ、寸刻を惜しんで歩みゆく必要があろう。
ゆえに自分はもっと多くを体験し、その体験から最大限を得ていくべきなのだ。
まだ自分は十分ではない。どのような回答にも至れていない。
頼まれ、必要を告げられてようやく動いているだけの存在だ。気遣い、心遣いをはじめとした何もかも不足している。
指針となる解を見出さねばならない。
もっと視野を大きく持ち、他を、その存念を知り、その上で確たる意志に則って、しかし過たず活動を可能とせねばならない。
かつて、釈尊は108の武術流派を修めた。
立ち技寝技手技足技投げ技締め技。あらゆる術技に精通したのち、こう結論した。
葬式をせぬ出家はよい悟入をする、と。
出家とは仏道使いの意である。つまり、対戦相手を死に至らしめない格闘技者こそがよい仏道使いであるとしたのだ。決して殺す者となってはならない。
敵手を屠らばそれで争いの種は絶えよう。だが闘技とは相手あらばこその切磋琢磨だ。
関わり合べき存在悉くを葬り、何もしない、何とも関わらない、己だけの完全な世界を築く。それは果たして是なるか、非なるか。
この問いの答えに至るべく、釈尊は菩提樹の下で数知れぬ野試合を行っている。肉体言語を用いた、膨大な対話の積み重ねである。
つまるところ、必要とされるのはコミュニケーションだ。
「うむ……」
ひとつ唸り、オショウは誰にも気づかれぬほどわずかに眉を寄せた。
テトラクラムの人々は自分に優しい。厚遇と言うべき扱いを日々受けている。が、この温かさはオショウ当人への親しみを意味しない。オショウがケイトやカナタの知己であることを前提に生じる厚意である。
それは自分に接する折とケイトに接する折の表情を見比べれば明らかだ。オショウと人々の間には、皮一枚ながら確かな距離がある。
オショウとて、自身の口下手は承知している。怯えさせぬよう、恐れられぬよう振舞ってもいるつもりなのだ。
しかしながら、ともすれば魔皇の方が親しまれるよう感じられるのは、どうにも得心いかぬことである。
やはり、パケレパケレを手懐けるところから始めるべきであろうか。
「オショウさま、オショウさま」
手のひらに目を落としたところで、声がした。
目を挙げれば、軽やかに駆け寄ってくるケイトの姿がある。どうやら思案に没頭しすぎていたものらしい。
うむ、と応じてわずかに笑めば、ケイトもそれににこりと返した。
「おかえりなさいませ。ところで、魔皇様は?」
「む……」
口をつぐむと、オショウは首を横に振る。
最前、ケイトに置き去りにされたオショウとラーフラはは気まずく顔を見合わせのち、別々の道を辿ってテトラクラムへの帰還を開始した。もちろん、殴り合いはしていない。仲直りの握手もだ。
「では魔皇様は、オショウさまとは別口からお帰りですのね」
「うむ」
「困りましたわ。わたくし伝言役でしたのに。でもきっと、イツォル様が見つけてくださいますわね。ええ、必ず見つけてくださいますわ。ですから大丈夫でしょう」
手を打ってから、彼女はオショウに並んで歩き出す。背の高い彼の顔を下方から見上げるようにして覗き、それから問うた。
「それで、オショウさまは何かお悩みですかしら?」
オショウの感情はほとんど顔に出ない。表情から内心を読み取るのは至難の業だ。が、この娘はどうしてか、甚く容易くそれをする。
幾度目とも知れぬ体験であるが、やはり驚きを伴ってオショウは「うむ」と受けた。
「ラーフラに、惑いを受けた」
端的に告げてから、短い帰途の間の想念を、やはり短く付け加える。するとケイトはくすくす笑った。
「オショウさまはご存じありませんですのね。世の中に絶対の正答なんて存在しませんわ」
「しかし」
ラーフラをやり込めた弁舌は即ちケイトの解であろう。そのような反論をしようとするオショウを、人差し指ひとつ立ててケイトは制した。
「だって、世界は誰かが作った問題ではありませんもの。その時、その場合ごとに状況は異なりますし、事態に対処する人それぞれに、最善も異なってきますわ。だって皆様、それぞれがそれぞれに違っているのですから」
さくじた仕草で、歌うように娘は続ける。
「たとえば10人の命と5人の命が天秤にかかった時、10人を助けるのが道理になりますでしょう? でもわたくし、5人の中に弟とお母様が入っていらしたら、間違いなくそちらを優先しますわ。それを非難する方がいらっしゃるなら、こう申しもいたします。『ではあなたが10人の側を助けてくださいましね』」
「……」
「あ、もちろんオショウさまが5人のうちのひとりでしたら、わたくしオショウさまを優先しますわ。ご安心くださいましね」
「うむ。助かる」
「はい!」
オショウの沈黙をどう解したか、ケイトが慌てて付け加えた。こっくり頷き合ってから、
「そういう具合に、人それぞれ答えは異なる思います。だからオショウさまと魔皇様が違うのも当然で、それゆえ素晴らしいとも思うのですわ」
「その心は?」
「だってオショウさまと違う相手を、魔皇様は守れるということではありませんか。実際、ラムザスベルの時もそうでしたわ。オショウさまがロードシルト様を懲らしめている間、魔皇様はテトラクラムを守護していてくださいました。助け合いですわね」
言い切るとケイトはくるりと横回転。それにつれ衣服の裾が花のように広がる。
体術の心得を有するだけあって、体の芯が少しもぶれない動きだった。
「それに、魔皇様だけではありません。陛下、陛下も素敵ですわよね!」
ケイトの言う陛下とはアプサラス王、タタガタ・アプサラス・マハーヤーヤナ6世を指す。
穏やかな微笑でケイトの語りに耳を傾ける常日頃のさまはまるで祖父と孫のようで、唐突なケイトの回転は、慕う人物の顔を思い出したことによる喜びの発露であったろう。
彼女の感情表現はひどくわかりやすく動的だと、内心でオショウは思う。
「わたくしが頑張ったのなんて、ほんの少しの間だけ。でも陛下は、わたくしが生まれるよりずっと前から、国のことを考え続けていらっしゃるのですわ。それに
わたくしのような小娘の話だってお耳に入れて、真剣に受け止めてくださるのです。わたくし、陛下を大いに尊敬しておりますわ」
その賛美に関しては、オショウも大いに同意するところである。
アプサラス王と言葉を交わしたのは、片手の指で足りるほどの回数のみだ。そのうちで最も印象の強いものを挙げるなら、やはりロードシルトの一件を終え、アプサラスに戻った折のものだろう。
ラーガムの半分殿。グレゴリ・ロードシルトは国の富の半ばを有すると言われた人物だった。その男の不祥事は国家を鳴動させかねぬものである。
が、報告を聞き終えたアプサラス王はふたりを労い、そののちにまずオショウへ問うた。
『僭越ながら伺いたい。此度の旅は、楽しめたかな」
『うむ』
『この世界は、美しかったかな』
『うむ』
『重畳』
『わたくしも! わたくしも楽しかったですわ、陛下!』
ケイトが割って入り、王が相好を崩したので、それ以上の言葉はなかった。
だがケイトを見やる眼差しの光で、オショウは彼を信じられると思った。
このことのみならず、元よりアプサラス王に対するオショウの評価は高い。
宮廷内で蠢動する貴族はあれども民草は大いに安らぎ、鼓腹撃壌を体現する治世を続ける手腕は無論。好々爺然としながら、魔皇の股肱たる五王六武を前にいささかもたじろがぬ胆力も有するさまも既に見ている。
更にはオショウとケイトが不得手とする権力闘争劇を、一手に引き受けてくれる節もあるのだ。
ふたりと自派閥に取り込み、自家薬籠中の物とせんという動きは、アプサラスの貴族の中に少なくなかった。
しかし様々な誘惑と詐術が降り注いだのはほんのわずかな期間のみ。以降はぱたりと絶えている。自ら功績を誇示せぬものの、これが王の働きかけであることに間違いはなかった。
ケイトとオショウをより軍事的に、他国への圧として用いろという突き上げも、やはり全て王が封殺する風情だった。
ふたりがテトラクラムに在籍する現状もまた、王の手腕の一端である。
一種最前線への派遣であるが、魔獣界獣の害は、オショウとケイトならば案じる必要がない。またぞろ益体もないちょっかいを出す輩が湧き出る前に、自由の利く土地へ逃がしておこうという差配だった。
無言ながらも格別の配慮の数々に、オショウは深く恩義を覚えている。温情の感触はケイトも同様に受けており、それゆえ生じたのがこの敬慕の声であろう。
「ですからわたくしは、政に関して陛下に及ぶべくもないと自負しておりますわ。武威についても、わたくしとオショウさまでは比ぶべくもありません。でも、ことパケレパケレの世話に関してならどうですかしら。陛下もオショウさまも、わたくしの後塵を拝するのではありませんかしら!」
鼻息荒く、少女は後半部分を自信満々に言い切った。
おそらく適材適所、向き不向きの話であるのだろう。
「さておき、そんな陛下やオショウさまが見守っていてくださるから、わたくしどんどん他のことにも挑めますの。ずんずん進んでいけますの。もし間違った時は正してくださる、悩んだ時は声をかけてくださると安心していられますから。肝要なのは過たず行くことではなく、恐れず一歩踏み出すこと。わたくしそう思いますのよ」
ちょこりと足を速めて、ケイトはオショウの前に出る。そうして後ろ歩きに振り向いて、ゆっくり一度、まばたきをした。
「ですからもし今オショウさまが、何かお悩みなのでしたなら。オショウさまにとってのそういう人に、わたくしはなれませんかしら?」
虚を突かれて、オショウは息を呑んだ。珍しいほどの不覚である。実戦の最中ならば、次の一挙動で仕留められていたことだろう。
「――うむ。助かる」
辛うじて絞り出した焼き直しのような応答に、ケイトがまたくすくすと笑った。
「では卒爾ながら、もうひとつだけオショウさまに」
言って、ケイトが足を止めた。連れてオショウも立ち止まる。
「オショウさまは、時折ご自身を不甲斐なく思われるようにお見受けします。でも、そんなこと少しもありませんわ。だってオショウさまにご助勢いただけなかったら、わたくしもう生きておりませんもの。オショウさまはあの時あの場所にいて、わたくしを救ってくださいました。わたくしの、英雄ですわ」
伸ばされたケイトの両手のひらが、静かに武骨なオショウの拳を包んだ。
「ですから胸を張ってくださいまし。ね?」
「……」
オショウは深く息を吐く。
少し、泣きたいような心地だった。
「やはり俺は、より学ぶ必要がある」
「わたくしにできることなら、いくらでもお手伝いいたしますわ!」
「うむ」
願うべきはパケレパケレの世話の勘所、つまりはコミュニケーション能力の向上からであろうか。
益体もないことを思いつつ頷いて、オショウはもう一方の手でケイトの頭を不器用に撫でた。機嫌よく尾を振る犬のように彼女はされるがままになり、それからはっと思い出した顔をする。
「いけません! わたくし伝言役だったのですわ!」
「む?」
「どうしても至急でしておきたいお話を、ミカエラ様がお持ちなのだそうですわ。なので歓迎会は後回しで、それを皆で拝聴することになりましたの。ですからこちらへ。速足で、どうぞこちらへ!」
握り直したオショウの手を、言い立てながらケイトが引いた。
その導きに従い、足並みを合わせてオショウもまた歩き出す。




