導法・至福
「あれ。死んじゃったか」
王城の一室で、小さな呟きが漏れた。
「ネスフィリナの心は薄弱だから、臆してひとり逃げるはずだったのだけれど。……おかしいな。これも太陽の影響かな? 意外と面倒だね、彼は」
もとより高い王の声が、苛立ちを示して更に高まる。
魔皇により手もなく獣型霊動甲冑が破壊され、搭乗者の少年が胸を貫かれるさまを、アーダル王は手にした水晶板で眺めていた。
びっしりと複雑な呪紋を施された板状端末は、固定位置間の長距離映像通信に用いられるものに酷似している。が、これは決まった空間の映像を切り取るだけのものではなかった。
そこに投射されるのは、ミカエラ・アンダーセンの眼球が映した光景である。視覚転写の霊術紋であり、つまりこれがミカエラをネスフィリナの護衛騎士に任じた理由だった。研究対象は自分の目で、具に観測できるに限る、というわけだ。
視覚転写の記録は媒体の問題から今後の課題となっており、現状、水晶板に送られてきた映像はリアルタイムに観測する他にない。また、転写対象はワンセットの眼球に限られるため、視野の制限も同時に受ける。
だが遠隔地から安全に実験結果を観測するにはこれ以上ない術具であり、王はその性能に概ね満足していた。
確かに突発事態の視聴は難しいが、今回のように襲撃時間を事細かく指定しておけば問題のないことだ。それにミカエラは視力が良いぶん視覚に頼る。基本射手としてよい位置を確保して立ち回ろうともするから、映写機としての性能は折り紙つきである。
それにしても、まだテトラクラムから距離のある地点で魔皇に感知されたのは失敗だった。
お陰で次々の闖入者を招いてしまった。これは都市の目であるイツォル・セムに察知された結果だろう。
――くれぐれも深追いするなと釘は刺しておいたのに、子供はこれだから。
苛立ちまぎれの息を吐く。
結果として新型の具足をひとつと、乗り手を失う羽目になった。
今回のミカエラとネスフィリナに対する追撃戦は、新型霊動甲冑と我法使いの双方の運用実験でもあった。
我法使いへの我法干渉がどこまで働くか、そして記憶の抹消を受けた我法がどう変質するか。王としてはこの二点を特に観察したいところだった。
予測に近い結果は見れたが、それにしても。
「空臼かあ。要らない方が残っちゃったなあ」
細い眉を寄せ、ひとりごちる。
兄妹揃っての我法使いという珍しい存在ではあったが、王がより価値を認めていたのは兄の側だ。
探法・犬無し。
こちらには、まだ様々な使い道を想定していた。
あれは己の求めるものを探し出す法だ。現在は指定した存在を追うばかりだったが、それは射撃戦のみならず、探索にも応用できる。今回、逃亡するミカエラとネスフィリナの位置を探り当て続けたのもこの法だった。
適当な小物に我法を施し、低速で標的を追わせれば、それだけ追跡対象の方角を常に示す羅針盤が完成するという理屈だ。
法に至った折、あの兄は確信してしまっていた。自身は決して見つけ出せないと。父も母も、幸福になる道筋も。
心底では、そう信じてしまっていた。つまりは法の限界である。
だからアーダル王は、自らの我法を以てその信仰を忘れさせた。上手く手を加えていけば、まさしく犬無しが望んだ通り、幸福のような概念を探し出せる法に至ったかもしれない。
だが法の変移という道は潰えてしまった。これ以上なく完璧に。まったく、魔皇とは無慈悲をするものだ。
対して、挽法・空臼。
これは単に目を塞ぐだけの代物だ。ただ蹲り、閉じ籠もるばかりで先がない。一歩も前へ出ない法なのだ。
我法とはこうも当たり外れの著しいものかと思う。そのような愚妹が賢兄に庇われておめおめと生きるなど、最早ため息しか出ない。
そう、犬無しの死因は明らかに空臼にあった。
我法の改変のため、王は兄に妹を忘れさせた。が、犬無しの我法の核には家族のことが、今は唯一残された妹のことがあった。それゆえ雑に扱った妹よりも、彼は多く肉親の記憶を有していた。
もう関係も思い出せないはずの空臼を、土壇場で犬無しが庇ったはそのためだろう。
まだまだ、自分の我法は完璧ではない。
だが今回のことでまたひとつ、我法について知見が得られた。
やはり我法は人格に付随し、人格とは記憶によって象られるている。
それは我法が霊術式の一種であることの証明であった。人の意志に感応し、霊素は力として、霊術として織り上がる。そうして物理法則を越えた働きを為す。法もまた左様は等しい。それは強い意志が、絶望や希望が形成する個々人の願望、すなわち歪みの表出なのだ。
ならば状況と精神の双方を精妙に整えてやりさえすれば、きっと望むがままの法を産み出すことも叶おう。
自由選択可能な我法の発現と、その変移、変質。
それを自在に操れるとすれば、やはり我が法だ。
ゆえに、と王は思う。
そこに干渉可能な我が法こそが至上であると、もっと確信を強めねばなるまい。
成ると信ずれば成り、成らぬと疑えば成らぬが法なのだから。
当代アーダルの王について問うたなら、答えはすぐに返るまい。
アーダルという国は、実質十二洞府が牛耳っている。王は神輿であり飾りに過ぎない。最前の皇禍に対する対応も全て十二洞府が行っており、外界への露出が皆無に近いほど少ない。
ゆえに王の業績を知る者もなく、有能無能の論以前に、無難という評しか出なかろう。まさしく無味無臭の王である。
では私人としてのナハトゥム・アーダル・ペトペに対する問うたならどうか。
こちらの答えは、誰からも返るまい。
何故ならそれを知る者は――覚えている者はほとんどないからだ。王の実質は秘匿のベールに包まれ、誰もがそれを自分が知らぬという事実すら忘却し果てている。
血の繋がった肉親すら忘れているのだ。王の顔も、声も。
このような異常な状況を成立させるのは、無論、王が至った我法の力によるものである。
初めて毒を飲まされたのはいつだったろうか。
初めて刃を肉を裂かれたのはいつだったろうか。
もう忘れてしまった。忘れてしまうくらい、それが、それと類似のことが繰り返されたからだ。
ナハトゥムは、幼くして王位を得た。
資質を見込まれたではない。カダインの血を継ぐ者の中でもっとも幼かったからだ。つまりそれは、もっとも十二洞府に操りやすい存在という意味である。アーダルにおいて王座とは、神輿を飾る場所でしかない。
だが同時に王とは、十二洞府の大事な玩具なのだ。丁重に磨き置き、お飾りとして価値があることを喧伝すべき存在である。本来ならば、それを傷つける者などあるべくもない。
幼王を虐げる者あらば、それを選んだ洞主たちの嚇怒は予想がつくというものだ。
が、それをしたのは彼らだった。
十二洞府は一枚岩ではない。
かつては至純に学究を追い求めた彼らは、やがて好奇と知識を満たすだけの所業に耽溺。今や権勢を愛好し、自己顕示の色を露わにしている。
洞主らは不可思議にも同様の精神的醜怪と現し、王をただの遊具と見た。
玉座の子供を、如何に手早く従わせるか。玉座の子供に、如何に自身の洞府を優先させるか。つまりは、如何に上手く躾けるか。
陰ながらそれを競い合う遊びのための駒と見なしたのだ。
幼王がもっとも優先する洞こそが、もっとも優れた洞である。
その認識のもと、彼らは幼い子供へ容赦のない手練手管を用いた。
無論、これは遊戯である。王を死に至らしめるはその規則に反するものだ。よっていくつもの痛苦を与えられつつ、ナハトゥムが命を落とすことはなかった。悪意により傷つけられた王は、同じく悪意により辛うじて生かされた。そこにはカイユ・カダインへの――己がはるかに及ばぬ存在への意趣返しもあった。その血族を嬲ることで、洞主らは昏い歓びを得ていたのだ。
斯くして満身に嗜虐を浴びつつナハトゥムは育ち、強い学びを得た。
――人間を信じるな。
十数年のうちに刻み込まれた教訓であり、常に答え合わせし続けられた玉条である。
洞主らの遊びは肉体のみならず、王の精神を苛むものでもあった。
姉のようだと懐いた女官も、共に霊動甲冑の研究をした学友も、誠心誠意尽くしてくれた護衛騎士も、迷い込んだのを拾った子犬すらも。
全てが彼らの繰り糸であり、育んだ関係性は、最終的に王を手ひどく裏切るべく用意されたものでしかなかった。
この世に味方などないことを、救いなどないことを、ナハトゥムは絶えず教え込まれた。そうして、人とは自分を傷つけ、裏切り続けるものだと確信した。
ならば。
傷つけられないために、裏切られないためにはどうするべきか。
これに対して、ナハトゥムは解を得た。
大切を作らなければいい。
両親だけではない。友情も、衣服も、宝石も、人形も、研究も。大事にしたもの、気に入ったものの全ては、ナハトゥムの心を傷つけるために利用された。壊され、破かれ、捨てられ、損ねられ、奪われた。
大切なものを持たないことは裏切りへの予防であり、自身の心が砕けないための護身だった。
とはいえ、心はままならぬものだ。どうしても情は生まれる。
愛情に飢えればこそ、甘い言葉に、優しい挙措に、今度こそをと思ってしまう。
苦しんで身悶えし続け、王はまた答えに至った。
忘れてしまえばいい。そして、忘れられてしまえばいい。
忘却とは幸福である。
ないものが痛むことはない。
思い出をなくしてしまえば、誰も信じないで済む。誰にも期待せずに済む。
自分という存在が失念されれば、誰も傷つけに来ない。誰にも裏切られない。
魔境、野狐禅と呼んで差し支えない境地である。
が、我法とは絶望が形成する、個の歪みの顕現だった。
導法・至福。
それが、アーダル王が至った法の名だった。認識を歪め、阻み、全ての過去を忘却させ、曖昧模糊とした幸福に至る法である。
忘れてしまえば、皆、幸福だ。欲さなければ、望まなければ、諦めも挫折も起こりはしない。
悲しいことも辛いことも何もない。あらゆる人は、忘却という法の下に平等だ。
そして何かを忘れたという事実すら、この我法は忘却させる。ゆえに法に服した者は足掻くことすら叶わない。否。足掻く必要がなくなるのだ。
何故なら幸せはそこにある。
誰だってそうだ。未知の明日に挑むより、漠然とした幸福感、無能者の全能感に包まれたまま、安寧に微睡むことを選ぶだろう。
――ボクが、君たちを幸福にしてあげるよ。
――苦しいこと、悲しいこと、辛いこと。全て、忘れてしまえばいい。そうすれば後に残るのはいい思い出だけだ。つまりは、幸せだ。
意識の死角に住まう王に対して、誰もが無防備で、無警戒になった。
斯くしてナハトゥムは、ゆっくりと自らの巣を広げていった。
至福の法にかかれば、母すら我が子を忘れ果てる。すると自分の愛する子供のために、目の前の見知らぬ子供を傷つけるを厭わなくなる。
そのようにして人間の核となる箇所を忘れさせてしまえば、交渉は甚く容易だ。
王に疑念や反意、危機感を抱く者も現れなくはなかったが、彼らもやがて、それを忘れた。
己が法を浸透させ、やがて忘却された空白の王として、ナハトゥムはアーダルに君臨するに至ったのだ……
この我法への覚醒は、思わぬ作用を王にもたらした。
それは同系統への我法、霊術干渉に対する抵抗力向上の結果であったろうか。
とまれ脳髄の霧が晴れたように、ナハトゥムはふと気づいたのだ。大樹界というものの異質さに。
そも、この魔界を取り囲むよう、三角の形に在る三国の位置関係が不審である。
大樹界は、目見えた明らかな脅威だ。何故その近隣に文明を育んだ?
森は恵みをもたらすとはいえ、大樹界は別だ。享受できるメリットよりも、危険度の方がよほどに高い。都市と国家が形成され、移動のデメリットが増加した今日ならばさておき、都市建設時において本来、遠く避けるべき対象であろう。
また、三国それぞれの機能も不可思議だった。
冶金をはじめとした各種技術に精通するアーダル。
牧畜を主とし、特殊霊術の数々を擁するアプサラス。
組織構築に秀で、人界最大の軍事力を備えたラーガム。
奇妙にも相互補完の性質を持つかに見える。交流と道はあれども国土を接せず、大樹界に往来の自由を阻害された関係でありながら、だ。
まるで国々は元々ひとつの国家であったかのように――まるで、ある日突然大樹界が国土の中央を食い破り、人類を分断したかのようにナハトゥムには見えてならない。
が、王権を活かし、どこをどう浚っても、このような説も、歴史も見当たらなかった。
誰もこの不自然を意識しない。どころか、指摘しても忘却してしまうのだ。
ある学者に、このことを四度伝えた。五度目にあった時、彼は王の話に頷き、『初めて耳にする説ですが、実に興味深い』と応じた。
何者かの作為と干渉は明らかである。
しかもその何者かは、三国を覆い尽くすほどの広範囲へ、大樹界誕生以後からずっと、認識阻害を紡ぎ続けているのだ。
更に手を尽くすうち、王はひとりの人物にたどり着いた。
幕を開けた男。
界渡りであり、この地で霊術式の基礎を組み上げたと伝えられる存在である。霊術の一大派閥として世に名高いアッシャードマン学派は、その名の通り彼の流れを汲むものである。
が、術式以外の記録はほとんどなく、その人物も全貌は窺い知れない。辛うじて、烏と兎を使役したとされるばかりだ。
そもそも、と王は思う。
界渡り、他世界という認識もまた、出所の知れない知識だ。我々はどうして、ここ以外の世界の存在を確信し、そこへ干渉する霊術を編むに至った?
調べれば調べるほどに不可思議は増えた。けれど、ひとつ確信したこともある。
大樹界だ。
おそらく全ての答えは、その奥地に眠っている。
だから、ナハトゥムは決断したのだ。テトラクラムへの干渉を。
あれは大樹界に挑む、人類の前線基地とも言うべき都市である。そしてそこには数多の英俊英傑が集う。足掛かりとして、是非とも取り込みたい勢力だった。
テトラクラムの全てを私兵とし、かの地へと玉座を移し、望むがまま、思うがままに大樹界を調べ尽くすことを王は希求している。何、交渉は得意とするところだ。幸せを与えて跪かせれば、皆、喜んで付き従ってくれるに違いない。
この解き明かしは、人類と人類史に対し、凄まじい功績となるだろう。カイユ・カダインに匹敵すると称えられるは想像に難くない。
だが王の心に根差すのは、自己顕示と承認の欲求ではなかった。
大樹界に封じられたが何らかの罪であると、ナハトゥムには予想がついている。
だからそれを暴き立て、犯したものを白日に晒して知らしめることを、人全てを責め立てることを、王は希っている。
ナハトゥムは、この上なく人間が嫌いだった。焼きついた憎悪を、決して忘れられずにいた。その我法の核なるゆえに。
「それに、欲しかったんだよね。ウィリアムズと魔皇。あと、テラのオショウだっけ? あれにも興味があるなあ」
その手始めがアーダルの太陽――セレスト・クレイズを手駒とすることだった。現状は若干難航しているが、これまでの例に漏れず彼もいずれ、素直に協力してくれるようになるだろう。
ミカエラとネスフィリナという種も撒いた。
お人好しのテトラクラム勢は、この餌に必ず食いつくことだろう。セレスト・クレイズを奪い返しに、ここまでやって来てくれることだろう。
「ああ、楽しみだなあ。本当に楽しみだ」
くつくつと喉の奥で笑ってから、王は手を叩き人を呼んだ。
賓客をもてなす、その準備のために。




