三十九話
* * * *
ぱきり。
凍てつく音が鳴る。
ぱきり、ぱきりと音を響かせ、零下に凍えた空気がその範囲を刻々と拡大させて行く。
そしてそれは一人の女性の仕業であった。
抜き身の刃のような印象を抱かせる銀髪の女性。まるで能面を思わせる無表情を貫く彼女の名は————ビエラ・アイルバーク。
ぱきり。
そんな彼女の側には一人の男の姿があった。
侵食し、広がり、拡がり、覆い尽くされて氷に染まるは〝ミナウラの街〟。
廃墟の街から一変。
氷原世界に瞬く間に早変わりしてしまっていたこの惨状。
そして彼方此方で何処かに潜んでいた魔物が姿を見せるや否や、生まれる氷像。
————これ、は、完全にキレてますね……。
隣を歩くビエラが如何に人格者であると知っていようとも、これだけの馬鹿げた力を側で見せられていてはまともに生きた心地がしないと。
背中を濡らすじっとりとした気持ちの悪い汗を直に感じながら、男————アバルドは口を真一文字に引き結び、どうにかしてこの場を乗り切ろうと彼は必死に思案する最中であった。
ぱき、り————。
そして、漸く音が止んだ。
同時、足音も止む。
「……ビエラ様が予定より早く〝ミナウラ〟へ到着なさった事は本当に僥倖でした」
「嫌な予感がしたんですよ。こういうのを虫の知らせって言うんですかね。気は進みませんでしたが、役目は私の供回りの二人に任せて来ました」
「……成る程」
相変わらず貴女のその厄介ごとに対する嗅覚だけは、人並外れ過ぎている。アバルドは人知れずその言葉を密かにのみ込んだ。
「それで、亜麻色の髪の少年と赤髪の男でしたか」
それが、フィオレ・アイルバークが向かった先にいるとされる人物二人の特徴。
「それは、あそこで寝そべっている者達で相違ありませんか?」
鼻が曲がるような死臭。
あたりに蔓延する鉄錆と肉塊の匂いにぴくりとも表情筋を動かす事なく、ビエラは起伏ない声音で眼前に映る事実をありのまま言葉に変えた。
そこにはこれでもかとばかりに斬り傷を負わされた物言わぬ肉塊が一つ。
大の字で仰向けになっている赤髪の青年と、フィオレ・アイルバークに介抱されながら、痛い痛いと喚く少年が一人いた。
赤髪の青年の顔色は蒼白。
それは魔力を使い過ぎた際に陥る欠乏症の人間に現れる症状に似ており、亜麻色髪の少年の腕は力なく垂れ下がっている。
あの状態だとまず間違いなく折れているか。
一目で状況整理をしながらビエラはため息を一度。
「————姉さん」
「うん? っ、て、あ! あ! あ! ビエラちゃんだ! それにアバルドも!」
ぱぁあ、と真新しい物を見つけた童女のように、花咲いた笑みを浮かべながらフィオレが立ち上がる。
その際、介抱していた筈の少年をぽいっ、と手を離した事で痛苦に塗れた「い゛でっ」なんて声が上がるも、然程気にした様子もなくフィオレはビエラの下へと駆け寄った。
「……見た感じ、怪我人みたいですけど……あの、大丈夫なんですか?」
腕を押えようにも押さえられないのか。
ただ、左右にゴロゴロと身体を動かし、悶えるしか出来ない少年の姿を前に、ビエラがそう言って気を使うが、その状況を作り出したフィオレといえば、問題ない、問題ないと面白おかしそうに笑うだけ。
「あの子、頑丈の二文字が服着て歩いてるような子だから全然!」
「い、いだいいぃ……」
「……そうは見えませんけど」
「自分で腕を折りに向かうような子だし、大丈夫だと思ったんだけどなあ。……ま、そういう事ならアバルド。治してあげて」
「……承知いたしました」
数時間前に折れた腕を治した張本人であったからか、顔に刻んだ呆れは人一倍。
どういう戦い方をすればそう、毎度毎度腕を折る羽目になるんだと少年の常識を疑いながらも彼の下へと歩み寄っていた。
「それで、アレはどなたが?」
そう言って視線を向けるは最早痙攣すらしない事切れた化け物の亡骸。
————〝ジャバウォック〟の残骸である。
「それは、あの二人が倒したよ。ビエラちゃんを大人しく待ってたら良いのに、倒すって言って聞かなくて。片や〝魔法〟の使い過ぎでぶっ倒れ、片や両腕をばっきばきに骨折。ほんっと馬鹿だよねえ」
「…………」
しかし、フィオレのその発言に然程関心を見せず、ビエラは無言で〝ジャバウォック〟の亡骸へと一歩、二歩と歩み寄り————血に塗れたひしゃげた外殻を手に取った。
程なく、
「……これは、本当にこの人達が?」
「そうだけど、それがどうかしたの? ビエラちゃん」
繰り返される問い掛け。
その様子に疑問を覚えたフィオレは若干、眉根を寄せながら聞き直す。
引き結ばれる唇。
数秒ほど間を挟み、やがて彼女は口を開いて続きの言葉を語り始める。
「……いつ何が起ころうと対処出来るように、私、辺りを凍らせながらやって来たんです」
ビエラの言葉通り、あたりは冷気に覆われ、まごう事なき氷原世界が周囲一帯に広がっていた。
「で、この魔物の亡骸ももしもの事がないように凍らせようとしたんですけど、」
そこで言葉が止まる。
外殻にビエラが手を伸ばし、手が触れると同時、彼女はやはりと言わんばかりにため息をついた。
「……凍らないの?」
「……この外殻が邪魔をして凍らないんです。恐らく、この魔物に〝魔法〟は軒並み通じなかった事でしょう。膨大な〝魔力〟を込めれば何とか少しは凍りますが、現実的ではないですね」
「ま、まって。待って待って。それって事は、じゃあ、」
「案外、私達はそこの二人に助けられていたのかもしれません」
それは、眼前の〝ジャバウォック〟に斬り掛かった戦闘馬鹿二人だけが知る事実。
この〝ジャバウォック〟は普通ではなく、〝魔法〟を操る変異種でもあったのだ。
〝魔法〟を拒む強固な外殻。
接近すれば、平衡感覚を失う正体不明の魔法。
そして圧倒的体躯から繰り出される一撃。
本当に〝ジャバウォック〟は、まごう事なき強敵であったのだ。
もし仮に二つ名を付けるとすれば————魔法使い殺し。そんな名が妥当だろう。
「————にしても、『星斬り』、ですか」
「あれ? ビエラちゃんもユリウス君の事を知ってるんだ?」
「……唯一、私が回った村の中で〝ミナウラ〟に向かいたいと志願した人です。流石に忘れられません」
「だろうねえ。そもそもあんなに頭おかしい考え方をしてる人が何人もいるわけが……って、村人!?」
「あの方は間違いなく村人ですよ姉さん」
なにせ、村長や彼の父親から、彼をどうか関わらせないでくれと懇願されましたから。
だから、紛れもなくユリウスという少年は冒険者でもなく村人であるとビエラは繰り返す。
「とはいえ、『星斬り』とはまた、骨董品のような呼び名をよくもまあ持ち出してきたものです」
それも、歴史を知ってるかどうかすら定かでないただの村人が口にする機会があるとは。
「……あれ? ビエラちゃんってば、もしかしなくても何か知ってる?」
「あの時は唐突過ぎて思い出せませんでしたが、今なら少しだけは。……ただ、『星斬り』は三百年ほど前に消された名前ですけどね。ですが、知ってる人は知ってると思いますよ。私のように」
「消された?」
「詳しい理由は存じ上げませんが、『星斬り』とかつて名乗っていた人物の生はあまり、良いものではなかったのでしょうね」
「……ふぅーん」
本当に知らないと判断したのか。
はたまた、興味を失ったのか。
フィオレはビエラから視線を外し、再び少年の下へと歩み寄る。
そして、何やら和かな笑みを浮かべて話しかけようとしていた。
「……流石に、真に受ける人間はいないでしょうが、それでも————」
言葉を、止める。
「……いえ、やはり考え過ぎですね。私らしくもない」
ここまでの芸当が出来るのであれば。
と、考えるビエラであったが、〝魔法〟が通じない外殻を砕き割るほどの攻撃を放った剣士という事実は、まだ己とフィオレしか知らない事実である。
そして、痛みにのたうち回るあの様子から察するに、本人はこれがどれだけの行為であったのか気づいていない可能性が極めて高い。
だから、その事実はビエラとフィオレが口を噤んでしまえば闇の中。仮に吹聴したところで信じる人間は一人とていまい。
まさか、〝魔法〟を全く通さない堅牢な外殻をただの斬撃で砕き割るような規格外の存在がいるとは————誰も思うまい。
「ですが、」
ビエラはふと思う。
〝戦姫〟と呼ばれ、王国有数の実力者に数えられる彼女だからこそ—————。
「————『星斬りの剣士』。その名は、貴方が考えているよりずっと重いものかもしれませんね」
そう、述べる事にしていた。
名を消される人間というものは、得てして当時の上層部の人間から疎まれ、怯え、恐れられていた者達が大半だ。
なにせ、彼らは王国こそが何より尊く、何より優れているものであると領民に言い聞かせる必要があるから。そうでなければ、彼らの望む王国にとって一番都合の良い治世は叶わないから。
故に、たった一人で全てを覆すような規格外の連中共は、彼らにとって何よりも不都合な存在であったという事は最早言わずもがな。
……実に下らない話ではあるが、もしかすると、『星斬りの剣士』に限らず、名を消された者達の偉業はそのまま、過去の王——つまりは輝かしい国の歴史に書き換えられている可能性すらある。
そんな中で、一つ確実に言える事は『星斬りの剣士』と認識されていた人間が、名を消されるだけの何かを成してしまった人間であるという事。
間違いなく、生易しい人間でない事は確か。
そして人はそんな人間を——————化け物と呼んだ。








