84記憶を開きます
「……というわけで、わたくしは最近自分の弱さときちんと向き合っているのですよ」
「ふうん、知らないうちになんだか成長したようだね」
先生はいつもの特等席であるご自分のソファに寛ぎながら、相槌をうってくれます。
今日は久しぶりの何も用事はない日の、先生の家、お宅訪問日です。
最近はハーブティー関連だったり、魔術具を作ったりと用事があったから先生とお会いする、ということが多く、わたくしの手元には先生に相談したい作りかけの魔法陣がたくさんあったので、こういった何もないけどとりあえず行こう、という日があるのはとてもありがたいことなのです。
「それで最近は魔法陣の改良もしていますし、マルトの魔法陣生産体制も少し整えようと思っているのですよ」
「それもいいけど、君はもっとすべきことがあるんじゃなかな?」
「すべきこと……」
先生の緑の瞳はわたくしを射抜くように見ています。
「君は……いわば転生してこちらにきたのだろう? それにしてはそちらに関する知識がとぼしすぎる。リジェット。君は自分の粛の要素で、自分の前歴者の記憶を消しているらしいってこと、忘れていない?」
その言葉にわたくしはハッとします。そういえば、わたくしが変わりたい、強くなりたいと願うたびに、忍だった頃の記憶が奥へ奥へ追いやられていくような感覚を覚えていました。
まさかそれが、自分がもつ粛の要素が記憶を閉ざしてしまう事案に関与していたとは思っても見ませんでしたが。
「そうかもしてません……。スミにも言われましたが心のどこかで、わたくしの前歴者である忍の記憶を開くことを拒否していたのだと思います」
「だろうね。僕から見ても前歴の君の記憶はやっぱりどこかおかしいんだよ。まるでスクラップを施したかのようにつぎはぎだらけだ。まあそれも君が粛の要素で塞ぎ込んだ部分だったのだろうけど」
「ええ。でもわたくしは自分の弱さと向き合わねばならないのだと思います。シハンクージャとの戦いが怒る前に、克服すべき項目だと思います」
「そう……。決めたんだね」
「先生。粛の要素もつ人間が一度消した記憶は取り戻すことは難しいのでしょうか?」
そう聞くと、先生は難しい顔をします。
「本来はできないね。ただ、君の場合はできる可能性がある」
「え! どうすればいいんですか⁉︎」
「僕なら記憶が残る場所まで、君を連れて行ける」
「連れていく……」
「うん。でもね、リジェット無自覚に消した記憶には自分が考えていないくらいに苦しい記憶が含まれているのだろう。それを取り戻したら、君の心は壊れてしまう可能性だってあるんだ。——君にはその結末を受け入れるだけの覚悟があるかい?」
先生は射抜くような視線でわたくしを見ていました。
それはまるでわたくしをふるいにかけているよう。
このまま目を逸らしていた方が楽だってことは明らかです。でも、それでも……。
わたくしは現実を、忍として生きた前歴を受け入れなくちゃいけません。
「覚悟は……あります」
「そう。じゃあ、準備をしよう」
そう言って立ち上がった先生はソファの後ろに置いてある飾り棚から鍵のようなものを取り出します。
先生はそのまま廊下を歩いていきます。
以前わたくしが押しかけた寝室、材料と資料が詰め込んである納戸、水回りが集められたバスルームの扉を見送った先生は、今までにわたくしを案内したことのない、深緑色の扉の前にたちました。
密かにわたくしはその部屋のことを開かずの扉と呼んでいた場所です。
ここが、わたくしの記憶を開くこととどう関係が……?。
真鍮色のドアノブをかちゃりとまわすと、中には見たこともない光景が広がっていました。
「……え?」
先生の部屋の開かずの扉を開けると、極彩色のマーブル模様の空間が現れます。
何これ……?
なんだか液体がぐるぐる回っているように見えますけど、気体なのかしら。
先生がたまに使う、空間のあわい、といういろんなものを収めておく収納庫の中を覗き込んだ時に見える部分を拡大して広げたような景色に見えます。
「さあ、リジェット。中に入って」
足を一歩踏み入れると空間から白と黄色の混ざった強い光が放たれ目が眩みます。
ツンとする刺激臭が鼻を刺し、次にすぐ、胃を圧迫されるような気分の悪さに見舞われたわたくしは、一瞬で意識を失ってしまいました。
*
「ここは?」
目を覚ましたわたくしはあたりを見渡します。
周りには先ほど扉の前で見た、極彩色のマーブル模様に包まれています。あまり見すぎると、画面酔いのような症状が出そうなので、わたくしは少しだけ目を細めて視界を狭めます。
刺激臭は気がついた時には消えていました。今はなんの匂いもしませんが……あれはなんだったのでしょう。
どこだかもわからない場所にいきなり引きずり込まれていたことで、ヒヤリと冷たい汗が背中を伝いますが、幸いにもすぐ隣には先生が座っていて、わたくしの手を握って異空間で迷子にならないようにしてくれています。
「ここは時間のあわいだ」
「時間のあわい……? 先生の家が建っているところですか?」
「あれは空間のあわいであって時間のあわいではないね。時間のあわいは時を自由に行き来することができる特殊なあわいだ。普通の人間には操ることはできないけれど、僕は女神の力を一部引き継いでいるからね。君も本来は招くことはできないけれど、色盗みで僕の神力を取り入れたことで足を踏み入れることができたみたいだね」
これも先生が湖の女神から受けた恩恵の一つなのでしょう。
よくよく話を聞くと、先生は自分が決めた場所に時間のあわいを設置し、過去を見にいくことができるそうです。……ちょっと便利すぎません?
「先生が異常に記憶力がいいのはこのあわいを使って前に遡っていたせいなんですか?」
「それもあるね。あとは……。逆に時間を早く済ませたい時にも便利なんだ。ここにくると時間の流れが歪むからね。辛い時間をやり過ごしたい時とか。王城に住んでいた頃はよく使っていたよ」
そういった先生の表情は暗く、翳りが窺えます。きっとこう言った陰のある先生の表情を見てとても素敵だ、という女性も多いのだと思います。
でもわたくしは先生の一人ぼっちだった時間を想像してしまって、胸が苦しくなります。
「ここにくることができれば、本当になんでもできますね……」
「いや意外と制約が多くて使いにくいよ。過去起きたことに関して介入することはできないし、僕にできるのはそれを見ることだけだ。未来のことは一切わからないし……。できないことが多くてもどかしいよ」
「過去を知るということはいいことばかりじゃないんですね……」
「まあね。……さて、僕慣れているから問題ないけれど、君はここに長くいるとどんな影響があるかわからない。早く用事を済ませよう。ただでさえ君の前歴の記憶は第一層にあるから、記憶として引かずられやすい」
「あの……層ってなんですか? この前スミと話していた時にも出てきていましたが……」
「ああ。層って言うのは女神たちがこの世界を定義する時に用いる言葉だ。地球のように魔力がない世界の総称のことを第一層、魔力があるこの世界と同じような世界のことを第二層、神々が司る神力がある世界のことを第三層と女神たちは定義しているんだよ」
「へ、へえ……?」
ちょっとした疑問のはずが、とんでもないスケールのことを語られてしまったわたくしは目を点にすることしかできません。そんな様子を見て、先生は仕方がない、という優しい顔をします。
「……この辺は難しすぎると思うから、今日は説明を飛ばそう。さ、もたもたせずにサクッと記憶を取り戻そう」
そういった先生は右手の掌を何もない空間に伸ばします。
わたくしには見えませんが、白い空間の中に手を泳がせ、何か縄のようなものを引っ張ったような仕草をしました。
「……よし。糸口は掴めた。ここから一気に入るよっ!」
その言葉とともにわたくしたちはぐん、と力強く引っ張られます。
「わ、わわわわあああ!」
わたくしたちは縄のような何かに引きずられていきます。そのスピードが生み出すあまりの風圧に目を開けていられず、ぎゅっと目を瞑ると耳の奥にぽちゃんと、水が一滴水面に落ちるような音が鼓膜に響きます。
風圧が病み、恐る恐る目を開けると、そこには忍が暮らした土地、日本の風景が広がっていました。
「嘘……。本当に日本だわ」
ハルツエクデンではあまり見ない木造建築、ボロになった着物を上に羽織り、下にモンペを着て走る女学生の姿……。頭には防空頭巾に、腰に救急袋。足元を除けば、下駄に足袋に草履。
それは若かりし頃の忍が日常に纏っていたもの、そのものでした。
目に飛び込んでくる景色、匂い、その全てが懐かしくて涙がポロリと出てしまいます。
「僕が住んでいたイギリスも戦時中はそこらじゅうが燃えて、その後もなかなか復興が進まなくて酷いもんだったけれど、ここも随分退廃しているね……」
そう言った先生はわたくしの隣で日本の景色を見つめています。
度重なる空襲で建物は焼け落ち、食べるものも少なく、自分が明日生きている保証もない、そんな環境。
ここは1945年、戦時中の日本です。
度重なる空襲で、街のあちこちが焼け落ち、人は飢え、それでもなお、生きながらえようと誰もが必死に生きている街。
それがわたくしの前歴者、忍が生きた世界だったのです。
「そっか、忍が生まれ育ったのは第二次世界大戦の真っ只中だったんだわ……」
「僕が生まれたのは第一次大戦後だったけど……そのあと第二次世界大戦もやっぱり起こったんだね」
「ええ、人間は愚かで、無謀なことを繰り返しますから。……あ、あそこに『わたくし』がいますよ」
視線の先にはわたくしの前歴者である忍がいました。年齢はあちらの数えで、十一歳くらいでしょうか。
十一歳と言ってもあちらの一年は365日とこちらより五十日近く短いですからもっと幼く見えます。空襲から逃れるために両手を幼い妹と弟と両手を繋ぎ、防空壕へ避難しているところですね。
「お姉ちゃん、もう走れないよ」
「走って! 走らないと死ぬよ!」
喉を裂くような悲痛な叫び。一寸先は闇。その言葉そのものの世界。
燃え盛る炎の中で、懸命に彼女達は走っていました。
「あ!」
わたくしが声をあげた瞬間、忍とその弟妹たちが横切った付近の建物の柱が燃え、ドン、と地響きをたてて崩れ落ちます。
あちらは、あわいの向こう側。異なる世界ですし、わたくしが干渉できる範囲ではありません。それでもわたくしは、聞こえないに決まっているのに声を張り上げます。
「逃げて!」
その声も虚しく、柱は彼女達の方へと倒れていきます。
ぐしゃり。
肉を潰す、音。
耳に残る、不快な音が鼓膜に直接響きました。
「やめて……、死なないで、ねえっ!」
気がついたら、わたくしは喉が裂けそうなくらい大声で叫んでいました。
「リジェット、これは過去であって、今の君に起こっていることではないんだ!」
「だとしても、だとしても……」
そこからは見ていられないような無惨な展開が待ち受けていました。
柱の下敷きになったのは忍の弟でした。
ぐしゃりと、人が押しつぶされる音が聞こえ、忍が後ろを振り向くと、血に塗れた弟はもう人の姿を保っていなかったのです。
その光景に瞠目し、動けなくなる忍。
「あ、ああああ……」
「そこの姉ちゃん、走って! 諦めな! ここにいたらだめだ!」
後方から来た見知らぬ人に腕を引かれて、弟の骸を拾い上げることもできずに走り去ります。
忍は何度も後ろを振り向き、涙を流しながらも自分と、残された妹の命を守るために、懸命に足を前後に動かします。
脂肪がなく骨と筋が浮き出た足は、思うようには動きませんが、それでも生きるという目標を持って、懸命に。
息を吸い込むと、燃えた建物から押し寄せてくる粉塵を吸ってしまい、喉が焼けるよう。
苦しい、怖い、逃げなくちゃ!
*
その後履き物が壊れ泥だらけになりながらも、忍はなんとか防空壕に逃げ込みますが、その中でも飢えで妹を亡くしてしまいます。
ガリガリに痩せこけた妹を抱いて終戦を迎えた忍は、この世を憎んでいました。
「どうしてこの世は私たちに優しくないのだろう。死んでしまった弟妹たちはもうここにいないなんて嘘だ……」
自分の無力さに嘆き、悲しむ忍を見ているとわたくしの未来を見ているような錯覚に陥ります。
痛い、痛い、苦しい。
尋常ではない量の涙が瞳から無抵抗にこぼれ落ちます。
*
「リジェット、大丈夫?」
先生は心配そうな面持ちでわたくしの顔を覗き込みました。手渡されたハンカチをありがたく受け取り、涙を拭います。
「わたくしは……。小さい弟妹を亡くしたんですね……」
「そうみたいだね」
先生はいろいろ思うところはあったでしょうが、何も言わずにわたくしに思考する時間を与えてくれました。
時間のあわいの中で時間が早送りのように進んで、最後、忍がなくなるまでの記録を見終わるまで、ただただ隣にいてくれました。
「また……。わたくしは同じことを繰り返そうとしているのかもしれません」
「同じこと?」
「ええ。きっとこのままだと、わたくしは兄弟の誰かを王位継承争いなんてくだらないもので亡くすでしょう。それだけでなく、屋敷のものや事業に関わりのある人たち、それに友達も。みんな、みんなバラバラになって喪って……。今のままではだめなのです。……自分の無力さを嘆くような真似を繰り返していたかもしれませんね」
なぜわたくしはこんなに戦いたいのだろう。湧き上がる闘志がどこから来るものなのか、いつも疑問に思っていました。
忍のように泣き叫ぶだけの、無力な存在でいたくないからだったのですね。
「わたくし……。やっとわかりました。わたくしがなんのために強くなりたいのか。そして、どう強くありたいのか」
涙を流しながら、震える言葉で先生に懸命に自分の考えを伝えようとします。
「必要なのは純粋な強さではなく、大切な人を失わないための手段です」
メラニアやエナハーンに自分を頼れと言われたこと。
先生に自分の命を粗末に扱うなと言われたこと。
へデリーお兄様に遠回しに手段を選ばず生き残れと言われたこと。
その全てが、やっと自分の中で理解できた気がしました。
「ずっと自分自身が個人としてもっと強くなければいけないと思っていました。しかし、本当に威力を発揮するのは個人ではなく、組織としての強さです。一人が完璧な存在になろうとしなくともいい。苦手なことを補い得意なことができる人に、得意なことは任せればいいのですから」
「そうだね。それは大切なことだ」
先生は優しい目をしてわたくしの顔を覗き込みます。
「先生。正直に答えていただきたいのですが、今の騎士学校及び、騎士団は組織として優れていると思いますか?」
「残念ながらそうは思わない。本当に優れた組織であればシハンクージャという脅威が立ちはだかっている今、王位継承争いなんてしている場合じゃないね」
先生の言葉にゆっくりと頷きます。
「わたくしもそう思います。騎士学校に入って一年……。わたくしはここに入って強さも手に入れられましたが、同時にこれしかできないのかと残念に思ってしまった部分もあるのですよ。この体制のままではいずれわたくしは、いえわたくしたちは国を滅ぼすでしょうね」
頭の中に派閥が違うお兄様たちの顔が思い浮かびます。同じ親から生まれたのに、主人の違いで争わねばならないお兄様達。
三人とも気質は違いますけど、わたくしの大切なお兄様だということには違いないのです。
誰一人として失いたくなんかありません。
きっとこんなことをいうと、ステファニア先輩には甘いって言われてしまうと思います。けれども、この甘さがわたくしなのです。
大事に育てられて甘やかされたわたくしだからこそ打てる手段はいくつもあるのです。
「わたくしはわたくしの大切な人が失われていくのをただ見ているだけの人間にはなりたくありません。お願いです、先生。わたくしに力を貸してください」
「それは僕にとって面白い展開になるっていう自信がある?」
先生は、目を三日月型にします。
あ、こういう表情を見て、人は先生のことを魔物だというのだわ。
人間の営みをその掌でゲームのように楽しむ、人がもつ力以上の能力をもつ者。
恐ろしくて、美しい。
敵方にいたら、怯んでしまいそうな微笑みでわたくしを真っ直ぐに見る先生。
こんな人が味方でいてくれるなんて、わたくしは幸運ですね。
「ええ、先生が満足するような最高の展開をご覧いただけるよう努力いたしますわ」
わたくしは自分が作れる最高の笑顔を先生に向けました。
閉ざしていた記憶は痛くて、でも忘れてはいけないことだったようですね。
このお話、もっと深く書きたかったのですが私の今の文章力ではこれが限界でした。




