間話 ある女の記憶
大聖堂の冬は厳しい。
信仰の中心地として国家としても国民にとっても、重要な地ではあるが、内部の資金は常に心許なく、修道女や収容された子供たちは皆、ひもじい思いをしている。
大聖堂にたどり着けば、どんなにひもじい孤児も、もう安心——なんていうのは嘘だ。
辿り着いた場所には、辿り着いた場所なりの地獄がある。
老婆のような見た目をした(実際は四十を過ぎたあたりの年齢だったが)白灰色の髪を持つ女性——エラはそんな大聖堂で、ある程度の権力を持つ女性だった。
彼女に対しては、とある理由から、教皇も、上役も、彼女には強く出られないのだ。
時刻は昼過ぎ。やっと凍ってた井戸水が溶け、洗濯ができるようになった時間だ。
エラは自室で大聖堂における生活費の支出表を書き記していたところだった。今月も、予算はカツカツ……。
どうしたら、大聖堂の子供や職員たちにもう少しマシな生活を与えてやれるだろう。
エラは眉間にぎゅっと皺を寄せて、思考をめぐらせるが、考えても考えても、答えはでない。
そんな時、扉から控えめにノックの音が聞こえてきた。どうぞ、と声をかけると、立て付けの悪い扉がゆっくりと開いた。
「グランドマザー! もう、暖炉に火をくべるための薪がないみたい……」
困った顔をして、エラの部屋に入ってきたのは、最近、大聖堂に来たばかりの、腰ほどの背丈の呪い子の少女だった。
年齢は二十を超えているのだろうが、呪い子は地域によっては忌子として、密室に隔離されて育てられていることがあるため、言動や精神が見た目のままの幼いそれであることが多い。
この呪い子の少女も、長年、人間とかかわらずに生きてきたと聞いている。幼いのも仕方がない。エラは慈愛に満ちた表情を少女に向けた。
「それは大変。急いで手配しないとみんなが凍え死んでしまうわ」
まったく。お上の方々は装飾品だの、王家への政治献金だのにお金を使って……。私たちに少しでも分けてくれたらいいのに。
お上の散財具合は考えるだけでイライラしてくる。エラはふうっと息をついた後、お金のかからない解決法を脳内で模索し始めた。
「……そういえばうちの家に勤めていた家令の実家、王都付近に広い森を持っていたはず。歳をとって枝打ちもできなくなったと言っていたから、みんなでお手伝いにいけば、きっと喜ばれるわ」
そういうと、呪い子の少女はぱあっと目を輝かせた。
「わあい! じゃあ、お兄ちゃんお姉ちゃんたち集めてくるね」
ぴょんっと元気に跳ね上がって、部屋を出ていく幼児を見て、エラは片眉を下げならがやれやれ、と息をついた。
枝で喜ぶ子供が信仰の中心であるはずの大聖堂にたくさんいるなんて。皮肉ね。
しかし、そんなことを自分が考えたところでこの状況は好転しないのだ。
「さて、私も出ますかね」
エラは帳簿を閉じ、部屋を出た。
*
エラはとある伯爵家の庶子として生まれた。
そういうと、不遇な生い立ちだと勘違いされることが多いが、実際のところ、彼女の家の人間は良心的な人たちばかりだった。
実母はエラが幼い頃に亡くなってしまったが、父である伯爵はかつて愛した女である、母と顔がよく似たエラを王都の外れの隠れ家で大切に育ててくれたし、義母にあたる、伯爵夫人もエラの存在を知ってはいたが、疎ましがらずに「まあ、貴族の男は、愛人を持つことが一種ステータスのようなところがありますから」と寛容な姿勢で彼女に接してくれていた。
そんなエラは生まれた頃から髪が白い『白纏の子』であった。
しかし、貴族の間でも色盗みの女の基礎情報はあまり出回っていないため、彼女が王家にとって利用価値が高い、色盗みの女であることを家族は知らなかった。
エラの家族はエラの髪が白くても、魔力がないなんて不憫な子供だ、と思っただけで、それをどうこう調べようとはしなかったのだ。
そんなエラは初め、白纏の子としてではなく、魔力純度が高い子供として、大聖堂に招集をされた。
十歳の頃だった。
父が呼びつけた家庭教師がエラの魔力要素を鑑定する魔法陣を使ったことで、その事実が発覚したのだ。
色盗みの女は、総じて純度の高い聖の要素を持っているため、この発見は知識があるものにとっては順当な結果にしか映らない。
しかし、知識がない彼女と彼女の家族は、高い聖の要素を持っているという部分に酷く動揺した。
修復を司る聖の要素を持っていると、壊れた物——例えばアクセサリーや魔術具——を治すことができる。
修復の要素配分が多い魔法陣を、他の人よりも効果が高い状態で使えるため、聖の要素持ちの人間自体の需要は驚くほど高い。
しかもエラはそれだけではなく、高い純度も持ち合わせていた。彼女は、魔法陣を使用しなくとも、人体の損傷を治すことができたのだ。
エラは知識のない人間の目から見ても、利用価値の高い少女だった。
しかし、伯爵は娘を利用するような人間ではなかった。
彼は自分の娘が稀有な能力に恵まれたことを知っても、どう生きてもいいのだと、エラに言ってくれた。
だが、エラは自分自身に利用価値があったことを知り、安堵の気持ちを覚えていた。
——よかった。この力があれば、誰かの重荷のままでいなくて済む。
エラは自分が庶子であるにもかかわらず、いいところのお嬢様のように大切にされていることに対して、強い罪悪感を持っていた。
父である伯爵と本妻の間には息子しか生まれず、娘はいないと聞いている。だから自分は可愛がってもらえているのだろうが、普通であればこんな扱いは許されない。『いらない子供』なのだから。
今の自分は運がいいから、この状況をしのげているけれど、今後の人生がずっとうまくいくとは限らない。
だったら、誰かにも頼らずに、自分自身の能力だけでこの世に生き残りたい。
その思いを父に伝えたエラは正式に伯爵家の養子に入り、そこから大聖堂に所属した。
そうすることで、伯爵家が国と大聖堂に恩を売った実績が作れるからだ。
そうしてエラは修道者への道に進む事になった。
彼女は大聖堂に入ってから、自分が『白纏の子』——もとい『色盗みの女』であることを知ったのだ。
*
色盗みとは儚い生き物だ。
大抵の色盗みの女は王の呪いを取る特効薬として使い捨てにされてしまう。
実際にエラと同時期に大聖堂にやってきた白纏の子たちは、徐々に黒く染められ、その命を散らしていった。彼女たちは爵位を持たない、平民の家庭から集められた子供達だった。
しかし、エラは彼女たちとは微妙に立場が違った。彼女は伯爵家の娘であるが故に、生き残ることを許されていたのだ。
エラを生かしていることは、大聖堂にとっても旨みがある。
父である伯爵は、エラが大聖堂に入ってからも、生活に困らぬよう、個人的な献金を送ってくれていた。
初めはエラも、これでは自立したとはいえず、あまりにも申し訳ないので、献金を断ろうとした。しかし、大聖堂の実情を実際の生活の中で知り、その考えをあらためなければならなかった。
大聖堂では、教皇をはじめとした上位聖職者たちが、国から与えられる資金の大半を横領していたからだ。
大聖堂内で大多数を占める、階位を持たない聖職者たちに与えられる資金はごくわずかで、このままでは明日の食料さえ危ういほどだった。
エラは自分に与えられた献金を使い、聖職者や子供たちの腹を満たすしかない。
迷惑になりたくないから、家を出たのに、出て行った方が家に面倒をかけるなんて。
そう思えば思うたび、無力感が体を蝕む。
だが、こうするしか自分にはできなかった、というのも事実だ。それほどに大聖堂は貧しかった。
ありがたい慈悲に甘んじることしか彼女にはできない。
私が生きているうちはこれでいいのかもしれない。だけども、私が死んだら、この献金すら途絶えてしまう。
四十歳になったエラは、自分の寿命があとわずかしか残っていないことを悟っていた。
色盗みの女の寿命は、術を使わなくとも、他の人間より短い。
その性質によって早くに老いた彼女の体には、四十の女性とは思えない、老婆のような皺が刻み込まれていた。
*
自分の身を削りながら大聖堂の人々を支えてきたエラは、いつの間にか、幹部外の聖職者たちから敬意を持ってグランドマザーと呼ばれ慕われる立場になっていた。
彼女も家族のような聖職者たちと子供にそう呼ばれることを嬉しく思っていた。弱い自分が、多くの人を守れていることを実感できたからだ。
しかし、エラが献金で彼らを守れるのはあくまでも自分が生きている間だけ。寿命が短い色盗みの彼女に残された残り期間は無情なほどに少なかった。
「もう少し私が長く生きられたら……いいのだけども」
貴族時代の家礼の家に向かった子供たちを見送った後、
大聖堂の未来を案じていたエラは。祈りの間へと続く回廊で、ぽつりと独り言をこぼす。
すると、回廊を覆うステンドグラスの真上から、優しく甘い、体に染み込むような美しい声が突然降ってきた。
「ねえ、もう少し生きたいと思っているでしょ?」
エラは驚いて振り向く。
誰……?
慌てて周りを確認する。誰もいない。
私……疲れているのかしら?
そう思ったところで、もう一度、同じ声が聞こえた。
「ここよ」
慌てて振り向くと、驚くことに女の姿をした生き物が空中に浮いているではないか。
女がなんの魔術具も使わずに浮いているという異常事態にエラは叫び声をあげてしまった。
しかし、よくよく見ると、その女性は自分たちが毎日祈りを捧げている、肖像画と全く同じ顔であった。
とはいっても、大聖堂に飾られている肖像画は、魔術具になっているらしく、その人間にとって一番美しいと思う顔が映し出されるようになっているらしい。
湖の女神は人によって見せる顔を変えると言われているからだ。
エラの目の前に浮いていたのは、毎朝、彼女が祈りを捧げる際に現れる、彼女にとって一番美しい顔。
それは紛れもなく、彼女にとっての『湖の女神』その人だった。
「……え?」
驚きすぎて、無礼極まりない腑抜けた声が出てしまった。
慌てて口を塞ぐと、目の前の空中に浮いた女はにこりと美しい笑みを見せた。
「急に来たから、びっくりした?」
「び、びっくり……。そ、そうですね。わたくしが毎日祈りを捧げているお方がいきなり現れたので……。驚きました……」
声を震わせながら言うと、女神は褒められた子供のように嬉しそうな微笑みを見せた。
「私への信仰心が厚いのは素直に嬉しいわ。ご褒美に、あなたの願いを叶えてあげましょうか?」
「ええっ!?」
エラは喜びで、目眩を起こしかけた。
「ええ。特別に叶えてあげるわ。これを触ってちょうだい?」
女神が取り出したのは、まるで羅針盤を半分に割ったような魔術具だった。
「これは……一体?」
「願いを形にする、素晴らしい魔術具よ。……さあ、あなたの願いを頭に、強く思い浮かべて」
私の願い……。
エラは自分の願いを強く心に念じ始める。
『私は大聖堂の仲間たちを守るために、もう少しだけ生きていたい。……彼らを守れるだけの力が欲しい』
彼女の思い描いた『願い』はひどく善良で、無垢そのものだった。
*
エラは湖の女神から受け取った魔術具に『願い』を込める。すると、体の底から血が沸き上がってくるような奇妙な感覚を覚えた。
これは……何?
あまりの勢いに、何も考えることができない。
『私は……の……を……ために、もう少しだけ生きていたい。…………を……だけの力が欲しい』
先ほどまで浮かんでいたはずの思考の端々が、自分の意思とは関係なく、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていく。
『永く生きたい! 力が欲しい!』
違う!
エラは浮かんできた言葉が自分の願いとは全く違うものになっていることに瞠目した。
けれども、心の中なら湧き上がる欲は決して止めることができなかった。
そのまま、『私は大聖堂の仲間たちを守るために、もう少しだけいきたい』という願いの中から、『生きたい』の部分と『力が欲しい』の部分だけがクローズアップされて、エラの心の中を大きく支配し始めた。
——どうして!? これは何? なんなの!?
焦り、狼狽えるエラだったが、次第にその焦りすら『生きたい』という強い欲に塗り替えられてしまう。
抗えぬほどの欲の塗り替えに、エラは自分の感情の主導権を奪われていた。
濁流のような魔術具による思考の蹂躙が終わると、エラの脳内は恐ろしいほどにスッキリとしていた。
悩みがまるでないのだ。
私は一体、今まで何を気に病んでいたのだろう。
私が幸せになるのは、こんなに簡単なことだったのに。
様子が変わったエラを見て、湖の女神は上出来ね、とつぶやいた。
「さあ、あなたの願いはなあに? エラ」
「私の願いは……『もう少しだけ生きたい。力が欲しい』」
従順な子供のように、自分の望み通りの言葉を口にしたエラを見て、湖の女神は微笑みを凶悪なものに変化させた。
「そう。いい子ね。……賢いあなたなら、何をすればいいか、わかるわね」
エラはコクリと頷き、自室へと一直線に走っていった。
*
エラは自室に入ると、そのまま真っ直ぐ部屋の最奥まで進み、壁一面に設置されていた本棚の一つを左にスライドさせる。
そこにはエラしか存在を知らない、隠し部屋が設置されていた。腰に下げていた鍵を取り出し、そこにずらりと並ぶキャビネットの鍵を開錠してゆく。
ガラス戸のついたキャビネットには、魔術書がぎっしりと詰まっていた。一見、この部屋はこの魔術書を隠し通すために作られた部屋に見える。実際に、貴重なものもいくつか仕込んであった。
しかしこのキャビネットに置かれたものの中で一番、重量な品は、裏側に仕込まれた隠し棚に仕込まれている。
手順通り本を一冊どかし、奥にある突起を押し込むながら、ゆっくりと隠された引き出しを取り出す。
そこにはキラキラと輝く、色盗みたちの宝石がまるで錠剤のように詰まっている、小瓶がいくつも詰め込まれていた。
欲に踊らされ始めたエラが最初にやったのは、自室に置かれた色盗みの女たちの初石を自らの体内に取り込むことだった。
色盗みの女は、他の術者に自分の体の色を盗まれることで、色盗みの術を発現させる。
初石には盗まれた側の人間の寿命が籠るため、色盗みの女たちは信頼ができる人間に、その寿命を託すのだ。
自身の寿命が短くなったときに、延命治療を施すために。
大聖堂の色盗みたちはほとんどのものが、エラを信用し、エラに初石を預けていた。
——これを取り込めば、私はもう少しだけ生きられる!
エラは、初石をつまみあげ、おもむろに口に含んだ。
一つだけでは、大きな変化は見られなかった。風が吹いたように、少しだけ体が軽くなっただけだ。
もっと。もっとよ。
エラは次々に体内へ初石を取り込んだ。
預かっていた小瓶を一つを取り込み終わったところで、目に見える変化が訪れた。
それまで、老婆のようだったエラの肌が、髪が、爪が、どんどん艶を取り戻していたのだ。
エラはその変化を目の当たりにして、目を大きく見開いた。
「すごい! どうして私はこれをもっと早くに試さなかったのでしょう!」
すると、また天井のあたりから声が聞こえた。
振り向くと、先程の回廊と同じように、湖の女神が体をまるで人魚のように艶かしくくねらせて空中を泳いでいた。
「ふふふ。若返ったあなたの姿、とっても魅力的ね。どんどん、私に近い存在になっていっているわ」
「あなたさまに……近い存在?」
「ええ。神に近い存在」
神に近づく。それは聖職者のエラにとっては何よりも甘美な響きを持った言葉だ。
エラは力が欲しかった。
巨大な力を持って、弱い人を今よりも強く守りたいたかった。
だけど、今はどうだろう。
力が欲しい、という一点だけは変わらないが、なんのために欲しいのかわからない。
でも、欲しい。
欲しくてたまらない。
心が体が、自らの全てが。色盗みの命である初石を強く欲しているのだ。
「……どうすれば、あなたに近づくことができますか?」
「私に近づくにはもっと綺麗な石が必要よ。まだどの色も盗んでいない綺麗な石。それを取り込めば、あなたはもおっと、私に近づけるの」
エラは湖の女神の助言通り、石を奪い続けた。
まだ幼い白纏の子から、寿命をたっぷりと含ませた石を奪い取り、体内に取り込んだ。全ての寿命を初石に取り込んだせいで、その場で命を落とす者も中にはいたが、そんなのは今の彼女にはどうでもいいことだった。
今のエラは純粋に『永く続く己の生と、強い力』だけを心の底から求めていく。
大聖堂の聖職者たちは彼女の変化に目を疑うことしかできなかった。
あの優しかったグランドマザーに何が起こったの?
そんな動揺の声はいつしか化け物とかした生き物への畏怖へと変わった。
今まで彼女のことを慕っていた人間たちとは裏腹に、それまで大聖堂を牛耳っていた教皇らは、エラの変化を好意的に受け入れていた。
新たに現れた特権階級の人間を紳士的に受け入れるように。
エラはその後も欲に溺れた。
全てを求め、それに抗う全てを廃した。
そうして、エラは、グランドマザーは。
バケモノになったのだ。
*
しかし、エラのバケモノとしての力の維持期間は長くは続かなかった
エラは初石を取り込み続けないと、その若さと力を保つことができない。
しかし、大聖堂に初石が出回らなくなってしまったのだ。
王が呪いを排出するために、色盗みの女や白纏の子を奪っていったため、エラのもとに初石がまわってこなくなったのだ。
体内の初石が少なくなると、ふいに思考が正気に戻ることがあった。
あれ? なんのために私は長く生を持ちたかったんだっけ?
思考が揺らぎを見せると、心の中がぐずぐずと澱んで、気分が悪くなる。
最初はその揺らぎの理由を知ろうとしたが、次第に、エラはそれを自分にとって不必要な汚れのように思うようになった。
——湖の女神様が望んだことが、この世界にとって一番望ましいはずだもの。
エラの信仰心は、恐ろしいほどに強かった。
その信仰心の追及の結果、彼女は彼女の弟子に刺されて、倒れることになったのだが。
*
「魔力封じが織り込まれた布で、体を包め!」
エラが目が覚ましたとき、もう彼女の体は自由に動かなくなっていた。スミが取り込んだ石を全て体外に出したことで、寿命が元に戻ったのだ。
エラは湖の女神がやってきた時には、ほとんどの寿命を使い切っていた状態だった。もう、一日二日もつか、という状態だったが、ロイが指揮を取り、エラが再び動き出すことを警戒して、大聖堂にある魔術具を使い、動きを封じ込めているようだ。
そのまま、体は異端者が収容される格納室へと運び込まれた。
抵抗する気はさらさらなかった。
今のエラは、女神の羅針盤の支配下を抜け、以前までは持ち合わせていた善悪の区別を取り戻していたからだ。
みんなになんて申し訳ないことをしたのだろう。
心の中は悔やむ気持ちでいっぱいだった。
*
それにしても、自分の暴走を止めたのが、スミだったなんて。エラは意外に思った。
スミがあんなに、意志の強い娘だとは思っていなかった。いつだって従順で、他人に興味がなくて、暇があれば絵を描いていたような娘。
石を完全に抜き取られ、地面に崩れ落ちていたエラは、残された短い命の中で、スミが自分の体から奪われた石を抜き取った瞬間のことを思い出していた。
強い目だった。決して自分を許さないという視線。あの視線からエラは逃れることができなかった。
きっと彼女は生きるためにかなりの回数の色盗みを繰り返したのだろう。
彼女は自分の欲を使いこなして、生を終える。
私は自分の欲を制御できずに、たくさんの人に迷惑をかけて生を終える。
エラは、自分の弱さを目の当たりにして、心中で失笑していた。
弱い人間だった。
誰かのために生きたかったはずなのに、最終的には自分のことが一番大切な人間だった。
そのことを、エラはスミという鏡を通して、見せつけられたような気がした。
最低の幕引きだ。
そう思ったときだった。
また、あの時と同じように真上から声が聞こえてきた。
「あーあ。また失敗しちゃったわ。どうして人間というものはこんなにも脆いのかしら? 良心? そんなもの捨てちゃえばいいのに」
そこにはやはり湖の女神が浮かんでいた。
だが、以前と違うところが一つだけある。
エラは二度目に見た彼女のことを美しいとは思えなくなっていた。
恐ろしく酷薄で、下品で、醜悪な笑みを浮かべていた。
どうして自分はこんなものを信仰していたのだろう、と疑ってしまうくらいに。
「もう一度チャンスをあげましょうか、エラ。あなたの希望は何?」
「わ、私は……。許されないことをしました。もう、何も望みません」
「じゃあ、いらない。盤上を掻き回さない奴なんて、この世界に必要ない」
ふわり、と音も立てずに、女神はエラに近づく。
首元に伸びた手は、柔らかかったが、女性の腕だとは信じられないほどの握力で、エラの首の皮膚を潰していく。
「あ、ああああ‼︎」
「サヨナラ……。歪な私のお人形さん?」
ぐしゃりと肉が地面に落ちる音が、石畳の回廊に揺れを伴って響いた。
「あら、爪の間に血が入っちゃった。きったなーい」
眉を顰めながらも、どこか彼女の声は楽しそうな音を持っている。
その日、ロイたち大聖堂の職員は、彼らがエラから目を離した一瞬の隙に、何者かによってエラが殺害されているのを発見する。
エラは二度と目を覚ますことはなかった。




