世界で一番幸福な女
グランドマザーの亡骸や、この大聖堂を食い物にしていた上層部の人間をロイやその部下と共に片付けたあと。
私は大聖堂の南に位置する、小さな貴賓室のベッドの上に横たわっていた。
ここは私の最後のために整えられた部屋だった。
*
グランドマザーを廃した後、私は自分の体が長く持たないことを見越して大聖堂内で働くロイや、若手の聖職者たちに事前に、この部屋を手配するように指示していた。
ここは大聖堂で寿命を全うする聖職者たちが、最後を迎えるための部屋だ。
部屋の四隅には、病気の人間から漏れ出る瘴気が部屋から漏れ出ないようにするための、魔法陣が張り巡らされている。
それがあるおかげで、部屋の外にいる人間には、瘴気の影響が出ない作りになっていた。
ぼうっと視点を定めずに部屋の中を見ていると、キイと扉が開く音が聞こえてきた。
「スミ、調子はどう?」
入ってきたのはやっぱりマハだった。手に持たれたトレイには、粥が入った小さなお椀がのっていた。
私がこうなってしまってから、マハはこの部屋を離れようとしない。死に近い私の瘴気を浴びようがお構いなしだ。マハは呪い子だから、自分に瘴気が影響しないと思っているんだろう。世の中では呪い子は正気の瘴気の影響を全く受けないという説が通説だからだ。けれども、実態は通説とは少しだけ異なる。
彼らは瘴気の影響を受けるが、寿命があまりにも長いため、そこで寿命を縮められても、気にしないだけなのだ。
有り余る富を持つ人間が、百円二百円の金額に頓着しないように。
マハも、多くの呪い子がそうであるように、躊躇なく正気が漂う私に触れてくる。
けれども私は、これ以上私で、マハを削りたくはなかった。少しでも、ほんの微かであっても。
だから、自分自身の体にも、瘴気もれ防止の魔法陣をかけることにしていた。旅の中で瘴気を持つ人間に出会ってしまった時に使おうと、シュナイザー商会でクリストフから購入したものだったが、まさか自分に役立つとは思ってもいなかった。
マハはトレイをベッドの傍に設置されたサイドテーブルに置いてから、隣にある一人掛けのビロード張りのソファに腰を沈めて、私を上目遣いで見る。私の枯れ枝のような手とは違う、ふっくらと水気のある手が、私の頬を撫でた。
こんな短時間で、感情を揺さぶられた、マハの目には彩度の低い、疲れが滲んでいた。
「スミは勝手だ……本当に、本当に」
「ごめんね」
私はカサついた声を喉の奥から絞り出すようにして言った。
私はマハの意見を無視して、勝手に彼の収まるべき場所を定めてしまった。
本当に申し訳ないことをしたと思う。
だけれど、私が考えた中で、これが最善の未来だった。
もう少しで、この国はシハンクージャとの戦争を始めるだろう。
もしそうなったら、マハのような魔力の多い、髪の黒い子供は国に強制収容をされてしまう。
攻撃系の魔法陣を起動させるための燃料として、戦争の道具になる未来しか用意されていないのだ。
ここ数年、旅の中でマハにも私以外に頼ることのできる知人はできていた。
だけど、それだけじゃきっと足りない。脆弱なつながりでは、マハという強力な武器になりえる子供を守れない。
そう判断した私は、マハを大聖堂の要職に据えることをロイに提案した。
湖の女神を讃える、宗教団体である大聖堂は、王の命令にも争うことができる独立組織だ。そこで権威ある地位を手に入れることができたら、王だって、マハを自由に使うことはできない。
私が死んだ後も、周りの人間がマハを守る仕組みを、確立したかった。
するとロイは「ではいっそ、教皇にしてしまいましょう」と一足飛びとも思える提案してきた。
考えが幼いところがあるマハのことを考えると、教皇としてやっていけるか、不安に思った。けれども、最終的にはロイの補助も見込めるだろうと見通し、私は彼の提案をのんだのだ。
恨まれても仕方がないと思う。
——でも、どちらかというと私はマハに恨んで欲しかった。
マハは外の世界からきた私を、雛鳥の親のように信用している。
それはもはや信仰にも近く、それを見るたびに、私はなんてことをしてしまったんだろうと心苦しく思った。
マハを拾った時、私はあまりにも事態を楽観的に考えていた。
そういえば私、教会や国から許可は出ているのに従者を持ったことがないわ。一度くらいは経験として従者がいる生活を送ってみてもいいんじゃないか。
どうせ世間知らずなこの子供は、誰かが面倒をみなければ、どこかでのたれ死んでしまうのだろうから。
——そうだ、これは保護だ。
この子供が、定住する場所を見つけられたら、そこへ解き放てばいい。
そんな、気まぐれから始まった出会いだった。
けれども、彼は定住場所を私の側に決めてしまった。
同時に私も、マハがいる生活を気に入ってしまっていた。
私はめんどくさい人間である自覚はある。
他人と一定の距離を保たないと、心が疲れてしまうし、踏み込まれると不快になる。
そんな、気難しい私の線を、マハはどんなに甘えても決して踏み越えることはなかった。
私たちはお互いが足りないピースを見つけたように、気が合って、二人でいる時間はいつだって心地よかった。
私もマハもいつの間にかお互いの存在に依存をしていたのだ。
だからこそ、最後は潔く、嫌われてでも彼を私という呪縛から解放してあげなくちゃならない。
ちゃんと、マハに私の命の終わりを見せられたのは幸運なことだった。
呪い子は、特に寿命が長い一型の呪い子は自身の寿命が長いため、死者の肉体を蘇生する、禁術の研究に手を出してしまう人が多いと聞く。
彼らは、大切な人の決定的な死に触れていなければいないほど、故人がまだ生きているのではないかという幻想に駆られて、禁忌へと足を踏み入れてしまうのだという。
そんな無駄な時間は彼には必要ない。
私というつまらないもののために、彼の人生を消費してはならない。
クゥール様にもそばにいてもらって、聖女にも色盗みの女の寿命は延ばせないということを知ってもらうことも必要だった。
この世界で女神に一番近い力を持つ聖女でも、死という圧倒的な運命を変えることはできないことを彼自身が実感として理解する必要があったからだ。
そのためにリジェット様には少しだけ危ない目に遭ってもらった。
あの経験があったおかげで、マハはクゥール様が大切に、宝物のように思っているリジェット様であっても、寿命を伸ばすことはできないことを思い知っただろう。
これで、全ては私の思惑通りになった。
これで安心して、死ねる。
そう思っていたのに、誤算が一つだけあった。
*
「どうせ、スミは俺を勝手に教皇にして、自分の知らないところで、物事を進めて、何でもかんでも勝手にやることで、俺に嫌われたかったんだろう?」
ベッドに横たわる私を見たマハはなんの疑いもない、といった様子で言い切った。
その瞳には、理解と、僅かな呆れが垣間見れる。
「どうして……」
「どうしてもこうしてもないよ。俺はスミのこと、誰よりもわかっているつもりだから」
「は……」
思わず息が漏れた。マハはみたことのないくらい悪い笑顔を浮かべていた。
もしかしたら私には見せなかっただけで、マハはこういう表情をする人間だったのかもしれない。
「スミは馬鹿だね。俺の思いが、その程度のことで消え失せると思っている。俺はスミが思うより、執念深いし人間だよ」
思わず息を呑んだ。
今までのマハが見せてきた、感情的なそれとは全く違う、落ち着きを併せ持った——老獪ともとれる表情をしていたのだ。
「俺はスミのことを、心から愛しているんだよ」
ドキリ、と心臓が高鳴った。
今までの私はマハを子供だと認識していた。
けれども、今のマハは私が無視できないくらい、大人の表情をしている。
「でも、スミが俺を受け入れられないっていうのもわかる。スミ、見た目が年下の男は恋愛対象外だもんね」
「……気がついていたの?」
「そりゃ気がつくよ。だってスミが見たときに『わ、かっこいい』って顔する男っていつも四十オーバーのおっさんばっかりじゃん」
自分の趣味趣向を暴かれた私は、恥ずかしくなって、布団を顔まで上げる。
「あーあ。俺だって、年齢だけであればいい線いってるかもしれないのに、俺は呪い子だから……。見た目は子供のまんまだ。スミの好みではないよなあ……」
マハの顔が、真面目な表情から、不貞腐れたような砕けた表情に変わった。マハはやっぱり、そういう顔をしていた方がいい。
私は手を伸ばし、マハの手を握りしめた。
「ふふふ。そうね。恋人とは思えなかったわ。私はね……。マハのこと、勝手に相棒みたいに……。ううん。もっと深い関係に。家族みたいに思ってた」
「家族かあ……。恋人じゃなくて」
マハは残念そうに、眉を下げた。
「私、この世の二人組の中で『恋人同士』が一番強い結びつきを持っているなんてだなんて思ってないわ。それよりも、強い結びつきを持つ『二人組』はいっぱいいるでしょう? 私にとっては家族っていう関係性の方がよっぽど強固な結びつきを持っているように思えるけれど」
「それでも、俺はスミと愛し、愛されたかった」
「恋人なんて、別れてしまったらそれで終わりよ」
そういうと、マハは傷ついた顔をした。
「なんでそんなに悲しいこと言うの?」
「マハが、私があなたを大事に思っている気持ちをちゃんと受け取ってくれないからかしら。私はこの世界の誰よりも、あなたを愛していたわ」
マハは、目を見開いた。
私は、鈍く痛みのはしる体を無理やり起こし、マハを抱きしめる。
「私のただ一人の愛しい人。あなたはきっと長く生きるでしょう? あなたを一人ぼっちにするのが悲しい。でも、これは私のわがままだから許して? 私は自分の欲望のままに生きたわ」
「スミのばか……。大馬鹿者……」
抱きしめられた腕の中で、マハは声を震わせながら泣いていた。きっと彼もこの終焉を受け入れられたのだろう。
「最後まで勝手ばかりでごめんね」
そう言うと、マハは掠れた声で懇願してきた。
「ねえ。嘘でもいいから今、俺の恋人になるっていって」
「そんなこと言ったら、あなたは一生私のことを思い続けて一生を棒にするでしょう?」
「……何でそんなに自信があるわけ?」
「あなたは、私のことが本当に好きなんだなってやっとわかったから」
「好きだよ。スミが好き。だから……。いいじゃないか最後くらい」
「じゃあ、来世があったら恋人になりましょう」
私がカラッとした笑顔を浮かべながらいうと、マハは表情を硬くした。
「来世って……そんなんあるわけない」
「そうでもないわよ私は二度目の人生を得て、ここにいるんだから」
マハは腑に落ちないような、丸め込まれたような、変な顔をしている。この世界の人々には、死んでも生まれ変わる、と言う考えがないから、私の言っていることの方が異端なのだ。
*
それから数日。私は自分で起き上がれないほどに衰弱していた。食事ももう、取ることはできない。
死が、刻一刻と近づいているのだ。
マハは私を見るたびに泣く。
彼の心が、水が受け止めきれないバケツのように、キャパオーバーに陥っていることは私の目にも明らかだった。
彼は私の死で初めて近親者の死を知るのだ。
「スミ、何か俺にしてほしいことはある?」
して欲しいこと……。
何かあったかしら。大聖堂の管理はロイに頼んであるから問題ないし、シハンクージャの集落にも物資は配給済みだ。
そうだ。
私の一番最初の欲望を、マハなら叶えてくれるかもしれない。
気がついたら、私は無理なお願いを口にしていた。
「お願い、私が死んだら亡骸は森に還して」
「え?」
思わぬ提案にマハは言葉を聞き返した。
「この世界の常識では亡骸は凍土に返す……。それが当たり前ってことは知っているわ。でも、私森が好きなの。どんな景色の場所を回っても一番森が好き。好きな場所で死にたいわ。死ぬときは森に還りたいって願っていたの。それこそ、色盗みを始める前から」
「それって……」
マハは難題を突きつけられたような表情をしていた。それもそのはず。この国では、弔いの一族と言う専門の術師に依頼して、亡骸を凍土に持っていくのが一般的とされているんだから。
「スミ……」
「無理なら、いいのよ。ただ、言ってみただけだから」
ゆっくりと、ゆっくりと。
意識が遠のいていく。
終わりが、目の前まで私を迎えにきていた。
「さよなら……。あなたのことが世界で一番大好きよ……。マハ」
白くもやがかって朧になりつつある視界には私の腕をがっしりと掴んで、涙ぐむマハの姿が見える。
「嫌だ! いくな! スミっ!」
泣かないで、マハ。
そう、慰めたいのに、声がでない。
私はあなたに思われて、あなたと旅をして、自分の欲望を貫いて、幸せだった。
あなたのことが本当に好きだった。
伝えたいことは、言葉にならない。けれど、きっと伝わっているはずだ。
体の力が抜けていく。
視界が、どんどんぼやけていく。
さようなら、世界。
さようなら、最愛の人。
そうして、私は消えていった。
——はずだった。
「何ここ……?」
確実に死んだはずなのに、なぜか私の目は開いた。
驚いた私は指先を動かし、人差し指の爪先を親指の腹へと突き刺す。
ちゃんと痛い。どうやら、これは夢ではないようだ。
「どういうこと……? 私は死んだはずじゃなかったの……?」
体全体に鈍い痛みが走っていた先程までとは打って変わって、今の私の体はまるで色盗みを始める前のような軽さを取り戻していた。
……どうして?
一体、何が起こったの?
私は辺りを見渡す。
最初はまた、前歴の私が死んだ時と同じように女神がおわす、白い部屋に招かれたのかと思った。
しかし、そこには今までに見たことのない景色が広がっていた。
私がいたのは、古い学校のような、病院のような、洋風な施設の一室。
床と壁には艶のあるサペリ材のような、暗さと重厚感のある木材が使われており、全体的に作りが古い。
二十畳ほどの広さの部屋の真ん中に、紫色のビロード布の張られた二人掛けのソファとローテーブルが置かれていた。
その前には大量の本が詰め込まれた大学の図書館に置かれているような可動式の本棚が詰め込まれている。
部屋には扉もあった。
扉あけ、外をのぞいて見ると、そこには廊下が続いている。しかし、この廊下、ただの廊下ではない。
とてつもなく長いのだ。
まるで、なんらかの魔術が空間にそのまま、かけられているように。どこまでも、どこまでもその果てがまるで隠されているように見えない。
あちらに行くのは危険だ。
私の勘が、そう告げていた。
私は移動することを諦めて、最初にいた部屋にとどまることを決めた。ふと、扉の入り口を見上げると、端正な明朝体で『待合室』と書かれていることに気が付く。
「待合室……?」
——何がなんだか、訳がわからない。
ただ一つわかることは。
この湖の女神の盤上で、私の物語は、まだ終わっていなかったと言うことだけだ。
設定を間違えて金曜日に投稿できていませんでした。すみません。




