その2
傷ついたような顔をしていた――
それから目をそらすようにして屋敷を出たのは、コリンには本日大事な予定があったからだ。
いや、傷つけたは自分だからという自覚があった為かもしれない。
昨夜、食事を終えて自分の小さな家へともどろうとしていた時にリアンとアイリッサ達に遭遇した。そのこと自体に何も問題は無い。リアンがアンリとしてアイリッサをエスコートしていたことも問題はない。
アイリッサの手をとり、顔を赤くして動揺していたその姿に――
コリンは「リアン」では無い誰かを見た。
自分の中でももやもやとしてどう収拾をつけたら良いものかわからないが、そこに立つのは自らがよく知る「リアン」では無かった。
口やかましい女教師のようで、優しく有能で、時々とても厭味ったらしくて――それでもどんな時も静謐な空気をまとったリアンではない。おそらくアンリとしての素の青年。決してコリンを相手にあんな風に動揺を見せることなど無かったのに。
――もう、手放す頃合いなのだ。
引きこもっている自分の世話係として留め置くことはもう我儘でしかない。リアンはアンリとしてアイリッサにかえすべきなのだろう。
それはとても息苦しさを覚える感情だ。
そこにいるのが当然と思っていた。この先もずっと。たとえば自分が他家に嫁いだとしても、ずっと変わらずそこにいるのだと。それはなんと傲慢なことか。この先も変わらず共にいるなどと、どうして思っていられたのか。
「どちらに行かれるのですか」
と、外出の用意をすませて帽子をかぶるコリンに問いかけてきたリアンに、コリンは自分でも驚く程淡々と返した「人と会う約束があります」と。
「いったいどなたに?」
眉間に皺を寄せたリアンに「おまえの知らぬ相手です」とすげなく答えてしまった。とたんにリアンは顔をしかめたが、それ以上追及はせずに続けた。
「では、お供致します」
「必要ありません」
きっぱりと言い切り、これでは冷た過ぎたかと慌てて言葉を足した。
「アイリッサ叔母様がお忙しくしていらっしゃるようです。あなたは叔母様の手伝いをしては?」
優しい提案のつもりであった。
アンリとして、アイリッサと一緒に居られる時間を堪能してほしい。女装などもうしなくともよい、男として――そう言ったつもりであったというのに、なぜ胸はわだかまるような奇妙な感覚にとらわれるのか。
意地の悪い言葉を向けたつもりは無い。何よりリアンであればきっと自分の本意を受け止めてくれているだろう。今までも言葉足らずなコリンの言葉の真意をきちんと把握してくれていたのだから。
だのに――リアンは傷ついたような顔をしていたのだ。
「コリンさんっ」
突然名を呼ばれ、コリンはハッと息をつめて前方に焦点を合わせた。
目は開いていたが、どうやらぼんやりと思考の水に沈み込んでいたようだ。面前には身をかがめて小首をかしげるようにして覗き込んでいる青年が一人。
フレリック・サフィア――本日も彼はよれよれとした白衣に身を包んでそこにいる。
場所は以前にも待ち合わせをした公園だ。
噴水の淵に腰を預けて座っていたコリンは、面前でひらひらと指を振っている青年を見つめ返し、二度程瞼を瞬かせた。
その姿を見るだけで、なぜだろう。どこか心がほっと息をつく。
ぐるぐるとせんない思考に落ちていた自分が浮上して、たっぷりの酸素を受けたよう。
「ごめんなさい。待たせてしまいました」
言われて時計台を見れば、確かに予定の時刻より多少遅い。それでも考え事をしていたコリンにとって別段気になるものではなかった。
「ちょっと距離があるので、乗合馬車を使いたいんですけどいいですか?」
当然のように、ひらひらと揺らしていた手を差し出してくるフレリック。立ち上がる為に手を貸してくれようというのだろう。普段であればそんな手は無視するところだが、コリンは一旦躊躇しつつも自らの手を伸ばした。おずおずと。
「コリンさん?」
「流している賃馬車を拾いましょう。乗合馬車だと停留所からまた歩くことになりますし」
コリンはフレリックに立たせてもらい、記憶の中にあるセイフェリングのタウンハウスの馬車を脳裏に描いた。
セイフェリング邸があるのは中央よりさらに北部にある高級住宅街だ。コリンの暮らしているのは商業街のはずれであるから、ずいぶんと距離がある。
当然のようにフレリックは馬車で来ると思っていたが、彼の口ぶりから乗合馬車で来たことがうかがえた。
それともまさか歩いて来たのだろうか。ちらりと伺えば、軽く息を切らすようにして肩を動かし、頬を赤くしている様子は徒歩を思わせた。先ほど触れた手も、汗に濡れていた。
「運賃はお気になさらないで下さい」
コリンは当然のように言いながら――内心で驚いていた。
守銭奴と言われる自分がフレリックの分も気にかけずにこんなことを言うとは、正直思っていなかった。
自分で自分の言葉に驚くコリンは、ふと口元を緩めた。
「コリンさん?」
「いえ」
――これから錬金術師に会いに行く。いってしまえばそれは商用ともいえる。
フレリックには資金援助など必要無いと言われているが、相手との話如何によっては商談に持ち込みたい。そう、当然これは必要経費だ。
だが、そんなことはまったく関係なく損だの利潤だのを考えることもなく言葉を口にしていた。
世の中にそんな相手が――自分にそんな相手ができるとは思ってもいなかった。
「サフィア、さま」
そっと口にすると、フレリックはぎょっとしたように目を見開き、ついで赤い顔を更に赤らめた。
「様なんてそんな。フレリックで構いませんよ。親しい友人は皆そう呼びますから」
「では、フレリック」
コリンは商用時に浮かべる作り物の笑みとは別の、少しだけ戸惑うようなぎこちない微笑を浮かべてみせた。
「友人に、なっていただけますか?」
――損も得もなく、ただ共にいたいと思える相手。
そんな相手は、この先きっとそう居ない。
損も得もなく、一緒にいて欲しい相手。
人はそれを恋というのかもしれない。そういう相手を夫にすれば、幸せなのかもしれない。それともまったく別だろうか。その違いは、コリンには生憎と判らない。判らないままでいいのだ。
コリン・クローバイエはそういう相手を夫にすることはないのだから。
だから友人になろうと思った。それはきっと――久しぶりに抱いた、金銭に関わらない純粋なる欲だろう。
このひょろりとした青年の、どこを探したところで有益さなどにじみ出てはこないというのに。
だからこそ、自分で言ってしまった言葉に驚いていた。
まるきりそんなことを考えてなどいなかったのに、言葉は自然と飛び出して――コリンの胸をざわつかせた。
フレリック・サフィアは突然の提案に驚きの声をあげたが、照れたように先ほどと同じように手を差し出した。
白手につつまれていない、汗でしっとりと濡れた繊細さの欠片もない指がコリンの手をぎゅっと力強く握る。
「喜んで」
何も考えずに、ただ心のままにフレリック・サフィアを友人として求めたように。アルファレス・セイフェリングは――心のままに告げたのだろうか。
私はこんなにも君が好きなのに。
……ほんの少しだけ、アルファレスに対して優しくしてあげてもいいような気がした。
次に会うことがあれば。
***
心が、荒れていた。
コリンに避けられている。誰よりも大事な主が、自分を思いきり避けている。もしくは、まったくもって考えたくもないが、疎んじている。
確かにコリンといえば、笑顔の一つも浮かべてはくれない主だが、今までにこれほど明らかに自分を避けるなどという行動は今までに一度もない。
いや、一度不興を買って一人でツボの買い付けに行かされたが、ソレとコレは何かが違う。
「やっぱり男装がまずかったかっ」
気持ち悪かったのだろうか。
――普段見慣れないものを目にしたのだ。きっとコリンの目には奇怪に見えたことだろう。
半ば本気で言えば、女中二人組は顔を見合わせて「そういうことではないと思いますけど」と呆れた口調をハモらせた。
「それに、先月も従僕のお仕着せ着てらしたじゃないですか」
「とっても似合っていましたよ」
「いやいやいやっ。似合ってない。あんな恥ずかしい恰好をコリン様に何度も見せてしまうなんて、生き恥をさらしているようなものでっ」
もう二度と男装はすまいと改めて心に誓ったというのに、そんなリアンの心中をよそに女中二人は顔を見合わせて嘆息など落とす。
――何か、言い訳をしたいような気持がもやもやとわだかまる。
何をどう伝えれば、コリンと以前同様の付き合いができるのか判らない。そもそも、言い訳とは何か。男装していたことの言い訳?
うだうだと言葉が巡り、昨夜の感覚がよみがえる。
まるで浮気している場所を本妻に踏み込まれたかのようなあの動悸。心臓が自己主張を訴えて脈動し、血の気がざっと下がる感覚。
鏡さえなかったが、あのとき自分の顔はさぞひどい有様だったろう。そう、しかも男装までしていたのだからっ。
「でも、今日はダメですよ」
「そうですよ。今日はリアンさんを連れては行けませんね」
ねぇっとお互いだけで理解する二人の女中に、剣呑なまなざしを向けた。
「何がですか」
「だって、今日はコリンさまデートですから」
「そうですよ。先日コリンさまとココでお茶をなさっていた方とデートですもの。保護者は連れていきませんよ、さすがに」
それまで昨夜の出来事を反芻しては呻いていたリアンは、ぴたりと止まった。
「デート……」
その不慣れな音が口から零れる。確かめるように幾度も口にし、その言葉がまったくコリンから連想ができずにリアンは眉間に皺を寄せた。
コリンがデートなどするハズが無い。
「――何か大きな商談が?」
あながち間違っていないような、間違っているような。
彼女の部下は彼女をあまりにも良く知っていた。
だが、その言葉に二人の女中は生温かな眼差しを返し、二人同時に肩をすくめた。まるで処置無しとでもいうようにゆるく首までふる始末。
***
貴族社会。
この世界ははっきりとした階級をもって治められる。
コリンの立ち位置を示すのであれば、何ものでもない平民だ。それでもあえて何かを付随させるのであれば、商人の娘。他国の貴族の姪――だからやはり、ただの平民の娘だ。
そして、彼女は貴族の令嬢。
セイフェリング侯爵家の次女。リファリア・セイフェリング。
自称錬金術師。
「あなたが、コリン・クローバイエ?」
ゆるく口元に笑みを浮かべて、興味深そうにこちらを見つめるリファリアはコリンの知る貴族とはどこもかしこも規格外だった。
彼女は簡素なドレスにフレリックと同じように白衣を着用し、髪はすべてまとめてボンネットの中に適当に収められ――そして何より身長が高い。
ひょろりとしたフレリックと並ぶと、おそらくフレリックより小指の関節一つぶん程は低いかもしれない程度。平らな室内靴を履いてそれなのだから、ハイヒールでドレスでも着ようものならフレリックの身長など抜いてしまうであろうし、彼女の身長に釣り合う男はなかなかいないだろう。
見上げるように心持顎をあげてみてしまい、コリンはすぐに顎を下げて一礼した。
「はじめまして、リファリア様。わたくしはコリン・クローバイエと申します。本日は突然の面談に応じていただけまして――」
「ああ、そういうのいいから」
半ば強引にとりつけた約束に対しての非礼を表そうとすれば、ばっさりと途中で切られた。そして彼女はつかつかとコリンに近づくと、身をかがめるようにしてコリンをしげしげと見つめて楽しそうに目を細めた。
「へぇ、本当に綺麗な娘さんだ」
「……」
なぜだろうか。
軽い気持ちで来たことをコリンはちょっと後悔した。
すっと手が伸びてコリンの顎先に不躾に触れようとする。だが、汚れた白手に気づいていったん動きを止めると、やや乱暴にかぷりと自らの白手の指先にかじりつき、軽く隙間を作るともう片方の手でそれを抜き去り、直手でコリンに触れる。
そんな乱暴なことをされたのはアルファレス以来だという思いと同時、コレはアレの姉だとやけに納得した。
何より顔だちが本当に、腹立たしい程似ている。
どこか面白がるような好奇心に満ちたまなざし。引き結ぶようにして笑う口元。
「すごい。話には聞いていたけれど、こんなに綺麗だとは思わなかった。人形みたいだ」
「師匠っ、失礼ですよっ」
「うるさい、フレリック。見てみなさいな、この瞳――本当に私と同じ景色が見えるのかな?」
「師匠っ」
「わかった、わかった。うるさいな、フレリックは。
ああ、ごめんなさいね。あなたに興味があったものだから」
フレリックにぐいっと腕を引かれ、リファリアは盛大な溜息を吐き出し、ニヤリと口元をゆがめると――ふいに、コリンの唇の端に「ちゅっ」と音をさせて口づけた。
「ふふ、かわいいな」
「師匠っっっっっ」
――どうしよう、帰りたい。
コリン・クローバイエ。
心の深い場所で「ビジネス・ビジネス・ビジネス」と万物を超越する呪文を唱え始めた。




