その4
ふわふわするようなドキドキするような心持ちでフレリックの師匠との約束を取り付けて帰宅したコリンは、本邸に来客があると聞いて無になった。
すっかりと忘れてしまっていたが、グリフォリーノ・バロッサの来訪予定があったのだ。かんぜんに失念していた。
というか、約束の時間からすでに二時間程もたっている。二時間律儀にまっていたのか、なんという暇人。時は金なりという言葉を知らないのだろうか。商人であればその二時間を無駄にはすまい。
外出着から着替えさせられ、追い立てられるように本邸へと移動したコリンは、本邸の居間でアンリと遭遇した。
――黒いお仕着せの青年姿はリアンとは違う。
コリンの中でアンリとリアンは別の人間だ。なんというか、見慣れないし、微妙な違和を感じてしまう。それでも、もうそろそろリアンはアンリとして生きるべきなのだろう。
コリンがそれを後押ししてやらなければいけない。
主であるのだから。
ただ、それは別離を意味しているような不安がある。
今までのようにはいかない。呼べばそこにいてくれる存在では、きっとなくなってしまうのだろう。それはとても――とても不安であった。
「待たせてしまいました」
「待つ間も楽しかったですよ。コリン嬢――」
にっこりと席を立って一礼するグリフォリーノ・バロッサは、ゆったりと歩を進めてコリンの前に立つとその指先をさらった。
すいっとコリンの白手に包まれていない指先を救い上げ、その付け根に口づける。
指のつま先にそっと口づける行為は礼儀だが、指の付け根に口づけるのはずいぶんと親密であけすけだ。
コリンは半眼を伏せたが、控えるアンリは不愉快そうに眉間に皺を刻んだ。それをコリンが片手で制する。
「改めて、グリフォリーノ・バロッサと申します。正式名は長ったらしいので普段から省略しておりますが、御望みであれば……」
「不要です」
「ありがたいが、もう少し関心を抱いて頂けたら嬉しいな」
口元に笑みを浮かべて肩をすくめる相手を胡散臭いものを眺めるまなざしで見つめ返したコリンは、まるで自分の家だとでも言わんばかりにグリフォリーノの手によって導かれ、ソファについた。
アンリが一礼して茶器を用意する。
グリフォリーノが自らの席に戻るのを合図に、コリンは口火を切った。
「それで、本日はいったいどのようなご用向きでいらっしゃったのでしょうか?」
「用がなければ来てはいけませんか?」
相手の切り替えしに、コリンは軽く首をかしげる。
「用もなく、いらっしゃったのですか?」
「あなたに会いたかっただけです。あなたと会って、こうしてゆったりと時を過ごして、少しばかり話をして。それで、たまには散歩など――つまり、そういうことなのですが」
にっこりとほほ笑むグリフォリーノに、コリンは無言になってしまった。
「私と、恋愛をしてみませんか?」
直球な言葉は、感情の見えにくいコリンの表情を更に無にした。
「イヤです」
そして相手同様に直球に返すと、うってかわって営業用の笑顔を浮かべてみせる。
「アンリ、バロッサ様はお帰りです」
「はい」
「ちょっと待って下さい。なにもそんな無碍にしなくとも――私は一世一代の告白をしているつもりなのですが?」
「なぜ、そうなるのですか?」
「え?」
「なぜ、わたくしとあなたさまが恋愛をすることになるのでしょう?」
コリンの言葉は淡々としすぎていて、グリフォリーノは面食らってしまった。今、グリフォリーノ・バロッサが告白したのだ。喜ばれることはあっても嫌がられることなど無かろうと思っていたというのに。あんまりな反応だ。
そう、断られるとは思っていなかった。
面前の相手があまりにもばっさりと切り捨てにかかったことに、グリフォリーノは激しく動揺してしまった。
これ程予定外なことは無い。
「ああ、私は言葉が足りない」
グリフォリーノは引きつり、席を立つとコリンの前に身を伏せた。
動揺を蹴散らして熱っぽいまなざしで、コリンを見つめ返す――コリンはといえば、死んだ魚のような眼差しであったが。
「あなたのことを考えると夜も眠れず、朝も明けず――これが恋かと身を震わせている。
そんな哀れな一人の男を、どうか受け入れてはくれませんか?」
「――」
「つまり、あなたのことが好きなのです」
「アンリ、バロッサ様はお帰りです」
「だからっ。どうしてそうなるのですかっ」
慌てて声を荒げる男を前に、コリンは吐息を落とした。
「嘘に付き合う程暇ではありません」
「――嘘だなんて」
「嘘です。あなたは私を好きではない。時折、ずいぶんと冷ややかな眼差しで私を観察なさっていますね。そして、その眼差しは雄弁です。見下した気持ちをもう少し隠していれば、甘い言葉は有効であったかもしれません」
半眼に伏せていた眼差しがついと上がり、グリフォリーノを見返す。
真摯な眼差しにグリフォリーノは息をのんだ。
おそらく、真正面から視線を合わせあったのはこれがはじめてのことであったろう。幾度か対峙はしたものの、思い返せばコリンの眼差しは心持ち下げられ、決してグリフォリーノを見つめることは無かった。
だから、そのときにはじめて気づいた。
――コリンの強い眼差しは、彼の主によく、似ていた。
人に命令を下すことに慣れた人間の強い眼差しは、命令されることに慣れた男の胸に深く突き刺さる。
たじろがされてしまったことに、グリフォリーノは奥歯を噛みしめた。
「お帰り下さい」
「……私は、あなたの父君に許されてここにいる。それがどういう意味かおわかりか」
「わたくしは何も父より聞かされておりません。あなたこそ、この意味をご理解いただきたい」
コリンはきっぱりと言い切ると、すっと席を立った。
相手が退出しないのであれば、自分が出ていくのみだ。
そう態度で示したとたん、グリフォリーノの手が慌ててコリンを捉えようと動く。しかし、それはアンリの白手によってさえぎられた。
するりと二人の間に入り、満面の笑みでアンリは主の退出の手助けをすると、そのまま面前の青年へと言葉を向けた。
「玄関までお送りいたします」
***
「あ」
ぴくりとその一音にアルファレスは片眉を跳ね上げた。
あ、と音を漏らしてしまってから、慌てて視線まで反らされれば、決して鈍くはないアルファレスとしてはこういう他あるまい。
「何だい、フレリック? 僕になにか用?」
「いや、あの……」
途端におどおどと視線をそよがせる。
明らかに動揺しているし、なにかを隠している。ますます笑顔を向けてやると、観念したように愛想笑いが返った。
「あの、アルファレス様は明日、なにか御予定が?」
「明日かい? 明日はいつも通り教会だよ。日曜日は礼拝と決まっている」
まさに趣味と言ってもいい。
敬虔なる信徒ではないが、敬虔なる信徒であると装っているのだ。
「あ、ああ。そうですよね」
ぱっとフレリックの表情が明るくなり、アルファレスは意地の悪い気持ちになった。なにがそんなに嬉しいのか。
「君も行くかい?」
「いえっ。ぼくは師匠とっ、あのっ」
――なんだ、いちゃつくつもりか。
というか、普段から一緒にいる癖に。邪魔してやろうか?
黒い気持ちを抱いていると、フレリックはそんなアルファレスの心情など気づかぬ様子で「明日もお天気だといいですねー」などと呑気なことを言うのだった。




