その1
右の目にぺたりと左手を押し当てて左の目で部屋を見回せば多少の違和感はあるものの問題は無い。
だが、逆に左の目に手のひらを押し当てて右の目を開くとそれははっきりと異変を示した。
「――いかがですか?」
薄暗い部屋から一気にカーテンを引き、回答を求めるように重苦しく尋ねた声に、問われた方はただ素直な言葉を口にのせた。
「……世界が黄色い。
いや、視界に色がつく箇所がある……」
言葉にしながら、キドニカはカロウス領セアン伯の称号を持つウイセラは肩をすくめて唇をゆがませた。
「これはアレかな。
失明とか……――前兆?」
吐き出される言葉はどこか投げやりにさえ思える。
「確かなことはいえませんが。
先日の怪我の件で目に傷ができたのやもしれませんし、脳のほうが異常を訴えているのやもしれません。暫くはどうぞ安静になさってください」
「おいおい、穏やかじゃないね」
医師は渋面をし、茶化そうとする患者をねめつけた。
手にしていた医療器具を助手へと手渡し、息をつく。
昨今医療技術は格段の進歩を遂げてはいるものの、未だ人の手は眼球にも脳にも深く触れたりはしていない。そこは未だ神の領域でしかないのだ。
「数週間で完治する者もおりますし、このまま片目を失う者もおります。まずは様子を見ましょう」
毎日きちんと目を洗うようにと目薬を処方する医者に、ウイセラは困ったというように顔をしかめた。
「視力もおかしいのか、歩きづらいんだけどな」
「寝ていなさい」
「――おいおい。時は金なりだよ?」
「健康は金では買えません」
「もっともだ」
安静にしているようにと言葉を重ねてぱたりと閉ざされた扉を見ると、世界は二重に映し出される。
本来の色とは違い、おかしな黄色味の強い世界。
ふるりと首をふったところで、世界は変わらない。
見えていたものが見えない――いいや、見えていない訳ではない。見えない訳ではないが、それまでの世界とはまるきり違う。
立ち上がろうとするのも三半規管が狂っているのが、困難な気がしてウイセラは体内の酸素という酸素を吐き出すかのように息をついた。
「ニッケル」
「はい」
硬い口調で返答する腹心の部下に、ウイセラは口元に笑みを浮かべたまま告げた。
「他言無用だ」
「はい」
「――それと、急いで買い物を頼んでいいかな。
他の誰にも頼めない、お前が行ってくれ」
半眼に伏せた瞼は振るえ、低く抑えられた声音は真摯にニッケルに響いた。
***
このところ薄曇の日が続いていたが、その日は嘘のように晴れ渡り、空がより一層高さを増したかのように白い雲との違いをくっきりと示した。
室内での昼食をわざわざテラスへとうつし、穏やかな風に晒されながら白磁のカップを傾けるコリン・クローバイエは――現在その無表情に拍車をかけていた。
特殊な能力などなくとも、なんとなく彼女の足元からどろどろとした黒っぽいものが見えてきそうな程の陰鬱なる空気は、普段であれば女主をからかって遊ぶ二人の女中すらもおののかせ、盆を抱いて微妙に距離をとってしまう程の威力だ。
もちろん、たとえコリンが他者をよせつけまいとする程の雰囲気をかもしていようとも、彼女の片腕であるリアンにとってはそんなものはものともしないのだが。
主と共に紅茶のカップを傾けているリアンは相変わらずの――質素な女家庭教師のような姿をしている。彼を実質上雇い入れているヴィスヴァイヤの総領であるセヴァランからは、すでに「そろそろ無理があるだろう」と男装に戻ったらどうかと勧められてはしたものの、生来の慣れのほうが勝るのか、リアンは朝目覚めると当然のように女性用の衣装へと手を伸ばす。
「このところ外出もしておりませんね。
午後は散歩にでも出かけましょうか?」
カモミールの香りに口元に笑みを浮かべて提案すれば、
「――帳簿の点検が残っておりますから」
案の定、冷ややかな言葉が返された。
帳簿の点検はコリンにとって楽しい仕事の一つだ。売り上げ台帳に仕入れ台帳。数字の一つ一つが理路整然と並ぶ楽しい帳面を眺めているだけで幸せになれる――のだが、現在のところ赤字が続き、どうにかして黒字にもっていきたいと躍起になっているコリンの様子は、まさに鬼気迫るものがある。
その赤字にしても大部分を叔父であるウイセラに押し付けたのだが、それでも納得できないのか彼女の不快指数は跳ね上がったままだ。
さらにそんな彼女の機嫌を損ねるものが――
軽いノックの音に女中が移動し、テラスと続く個人用の扉を開く。そこに立つのは、クローバイエの屋敷に勤めて三十年とも言われる老執事がうやうやしく銀のプレートを手に会釈した。
プレートは執事の手からリアンへと渡り、リアンはそのプレートの上に重ねられた封書に苦笑する。
「燃やしなさい」
「再利用できないのが惜しいですね。まあ、どちらにしろ一度点検をしてからですよ」
諫めるようにリアンは言い、視線だけで老執事に穏やかに礼を向けて今度は自らの仕事に取り掛かる。
コリンの許へと届けられた手紙の選別はリアンの仕事の一つ。今まではさほど多いものでは無かった挙句に、たいていは仕事に関するもので埋め尽くされていたものだ。だが、このところその手紙の内容に異変があった。
――多いとは言わないが、何故かお茶会だのだれぞの音楽界だの展覧会だのの誘いが舞い込むようになってしまった。
少し前からそのような誘いがあったようだが、明らかに数が増えている。首をひねったリアンであったが、コリンによってあっさりとその原因は知れた。
先月、コリンの乗った馬車が暴漢に襲われ、それを救った近衛隊の英断という記事が新聞に掲載されてしまった為だ。
ご丁寧にイラストではなく写真まで掲載という念の入れようで。
「近衛隊の方々の素晴らしい活躍を聞かせて欲しい」という珍客まで現れるようになったが、現在低迷期に入っているコリンは一切相手にしていない。唯一コリンが反応するものと言えば――
「セイフェリング様からの手紙はありませんか?」
ふと思い出すように告げられた言葉に、リアンは封書の中身を丁寧に見ながら「どうやらありませんね」と軽く返した。
アルファレス・セイフェリング――リアンとしては主に積極的に関わって欲しくは無い相手だというのに、何故かコリンはその名前にのみ反応を示す。
確かに相手は侯爵家嫡男という立場でリアン自身も認める立派な鴨様だ。まるまると太って尾羽まで艶ややか、更に葱まで持参した滅多にお目にかかることのできない一級品の鴨だが、コリンにとって利があるとは思われぬ。
徹底的にその微妙な縁は切れて欲しいものだ。
というか、もう切れたことだろう。
何といっても、あの男は友人の婚約をつぶしたかっただけなのだから――幾分未だ勘違いをしているリアンである。
一枚一枚丁寧に封書を点検し、ふとリアンはその特徴的な封筒に微笑した。
本来であれば中身に目を通してから主へと手渡すリアンだが、その封書ばかりは扱いが違う。
薄い緑色の封筒にエンボスはA――すずらんの香をほのかにくゆらせるそれは、リアンにとって義理の姉となり、そしてコリンにとっては叔母という立場のアイリッサからのものだ。
「コリンさま」
これで機嫌を良くしてくれるのでは無いかという期待を抱きながら、リアンはすっとその封筒を振ってみせた。
「アイリッサ様からお手紙が届いております」
それまで陰鬱な雰囲気をかもしていたコリンが、さすがにその封筒に反応を示す。
良い兆候だと思いつつ、銀のプレートの上に用意されていたペーパーナイフで封印を解くと、中の便箋をそのまま手渡した。
コリンの繊細な指先がそろりと手紙を開き、その眼差しがするすると書かれている文字を拾い上げていく。
ついで部屋の壁に掛けられている暦へと意識を向けると、コリンは口の中でぶつぶつと数字を数えた。
「アイリッサ様はどのように?」
「――入港の日付です。この手紙の内容だと、明後日には沖に停泊できるので、入港手続きをして欲しいと」
とうとう戻る日付がはっきりとしたと喜ぶリアンに、コリンはほんの少しだけ眉間に皺を刻みつけた。
「コリン様?」
「……確か、叔父様の船が港にいるのではありませんか?」
叔父であるウイセラの船は、明日出港するということで船渠にいれてあったものを現在は桟橋にまで移動させてある筈だ。ウイセラの気まぐれで決まった出港に今頃は差配が青筋をたてて船子達をせかしていることだろう。
「ちょうど明日出港であれば実に間がいい」
「いいえ。叔父様は出港を延期なさいました。
先ほど連絡があったのです。もうしばらく療養することにしたと」
「――間が悪い」
リアンは忌々しいというように舌打ちし、はっと顔を持ち上げた。
「まさか、ウイセラ様の船を見てアイリッサ様が入港を拒むことはありませんよね?」
「……無いとは言い切れません」
ぼそりと言うコリンに、リアンは額に手を当てた。
「船を船渠に戻すように伝えてまいります」
――まさかアイリッサ様が入港を拒むようなことはありませんよね?
リアン自身、言葉にしながら理解していた。
無いとは言い切れない。
彼等は確かに夫婦であるというのに、その実態は義弟のリアンにもまったく理解ができない。仲が悪いなどとは言わないが、特別仲が良い訳でもないだろう。
嘆息しつつ身を翻そうとしたリアンは、テラスから続く居間の扉をノックすら無く進入してきた相手の姿にギョッとした。
「やぁ、麗しの女王よ。
本日の天気は実に素晴らしい――素敵な叔父サマと一緒に海賊ごっこをしよう」
両手を広げてばさりとわざとらしいマントを跳ね上げたカロウス領セアン伯ウイセラは――大仰な程煌びやかな海賊の衣装に羽付きの帽子、そして髑髏の刺繍入りの眼帯という有様でニヤニヤと口元を緩めていた。
「――」
「格好いいだろう。ニッケルに買いに行かせたんだ。
なかなか似合っていると思わないかい?」
――少なくとも、この有様の夫を目撃した妻は喜んだりしないであろう。
リアンは心の底から義姉の結婚は失敗であったに違いないと感じていた。




