その1
突然の出来事に、リアンは咄嗟に一旦は倒れないようにと支えたコリンの体をぐっと押しこむように、そのまま座椅子の間のくぼみに押し付けた。
バランスを崩した箱馬車の車体ががくんがくんと大仰に揺れ、止まる。
御者台から聞こえるうめき声に、怪我人が出ていることを感じながらリアンは冷静に外の音を聞き取ろうと息を潜めた。
はっきりと何かを伝える声は無く、聞こえるのは怒鳴るような声とうめき声。幾人もの人の足音と馬の嘶き。
完全に馬車の周りを囲まれたと知ると、リアンは小さく舌打ちをもらした。
「リア……」
「じっとして」
すばやく言い切り、いつもの癖で利き手を頭へとあげたが――髪留めとして刺している針は手に当たらない。
髪を解いていることを思い出して更に舌打ちしたリアンは、外の激しい怒号と短い悲鳴に身を強張らせながら自らの体に隠してある武器を頭の中で確認し、ついで馬車の中に常時潜ませてある銃の存在を思い出した。
「コリン様」
まさに座席の下に隠されていた銃を引き出したコリンがリアンへと銃を手渡してくれることに息をつき、安心させるようにその手を一度力強くぎゅっと握り締めた。
それにしても、ここはそう街外れでも無い筈だ。人々でにぎわう場所からは離れたが、人の目が無いということは決してありえない。強盗を働くにしても良い時間帯とは到底思えない――強盗……
ふっと、先日似たようなところにかち合ったことが脳裏をよぎり、ちらりとコリンへと視線を向ければ小さなうなずきが返る。
「相当切羽詰っているようですね」
「コリン様は落ち着いておいでですね」
多少呆れたように問えば、コリンは口元を緩めた。
「私を誘拐して銃を取り戻すつもりでしょうが……ちょうど良い。直接交渉と行きましょう」
いっそ嬉しそうなその言葉に、リアンは一旦瞳を閉ざした。
「怪我をさせるくらいは構いませんね?」
「もちろん。殺してはいけません――親玉が出てくるとは思いませんが、交渉しやすいように口を滑らかにさせる程度にしてくれないと困ります」
それはある種の信頼で、リアンが負けるなどとは思っていない主の言葉には魂の深い場所が疼かされる。だが、根本のところでリアンはそっと疲れたような気持ちになった。どこがどうと表現がしづらいのだが、とても――とても何かが疲弊する。
それでもかろうじて苦笑をつくり、リアンは意識を切り替えた。
「コリン様が困るのは私も困りますので、全力をもって対処させて頂きます」
手の中の銃の安全装置を外し、カチャリと激鉄が音をさせるのを振動で感じとる。昨今一般的に出回っている銃は二点式――コリンの手持ちの銃でも六点式は未だマレなもので、そう数も無い。
強盗ごとき、否一般的な貴族が持つものであれば二点式だろう。六点式を使用することができるのは王宮警護の近衛隊か、もしくは相応の金持ちに雇われている用心棒。今回のような状態で使われているのであれば二点式とみてほぼ間違いは無い。ヘタをすれば一発しか弾丸を出すことの出来ない様式のものかもしれない。
先ほど聞こえていた銃声は二発。だが、二発音がしたからといって銃がいくつもあれば安心などできない。
何より、この馬車を囲い込める程に相手は存在している。
馬車の降車扉のノブに手を掛け、外の様子を伺うように窓からそっと様子を伺おうとしたのだが、それより先に声が掛けられた。
「レディ、どうぞ。
もう安心ですよ」
低く、どこか笑いを含むような慇懃な口調――相手も反対側の扉のノブに手をかけているのを感じながら、リアンはこくりと喉を一旦上下させて伏せている主へと視線を送った。
一度、瞼が瞬く。
それを合図にリアンは力任せに扉を押し広げ、そこにいる筈の相手に銃身を向け、躊躇なく一発撃ちつける。
相手の急所を外した位置を弾丸が抜けるが、相手はぎょっとした様子でそれをまさに紙一重でかわした。
それはむしろ強運という部類で。
開いた途端に銃を向けられた男が息を吸い込み、瞳を見開いて慌てて体をひねらせる。それを予想して相手を押しのける為に蹴りを入れたリアンは、外に飛び出る勢いのまま身をひねって相手からの攻撃を避けた。
幾人も敵がいるのは判っている。リアンにできることといえば、外に飛び出した瞬間から面前の相手だけではなくほかの人間がどこにいるのかを探り、また一瞬も動作を止めないということ。
だが、リアンはピタリと足を止める羽目に陥った。
周りへと意識を向けた途端にぎょっと息を詰め、気勢がそがれたのだ。
腹にまともに蹴りを入れられた男は低く呻いて――地面に尻餅をつくようにしてうずくまり、そうしてリアンの足を止めさせ、迎え入れたのは幾つもの細剣の切っ先であった。
「――失礼、名乗ってからにするべきだったな。
まさか銃を向けられたり蹴倒されたりするとは思わなかった」
顔をしかめてゆるりと体を起こした男の姿に、リアンは絶句した。
白を基調としたその制服は――国の祭典のおりにはよく目にするもので、決して強盗ごときが着られるようなものではない。むしろこんな道端でお目にかかることじたいがすでに異常事態だ。
男は尻を汚した砂を払いつつ「剣を下ろせ」と命じ、落ちた帽子を拾い上げてぶるりと身震いし、呆れる程の嘆息を落とし、苦笑した。
「おかしなところに風穴を開けられてしまうかと思いました。
まぁ、それは、いい。ところで強盗に関しては私達が始末を付けました。ご安心頂いたところで」
一旦言葉を切り、リアンの横をすいとすり抜けた男は停車した馬車の扉へと声を張り上げた。
「レディ――
コリン・クローバイエ。ヴィスヴァイヤの姫君。どうぞ、そちらの馬車の車輪では難儀致しましょう。御者も怪我をしておりますし、当方の馬車でお送りさせて頂きますので、おいでください」
まるで衆人に聞かせるかのように素晴らしく響き渡る声にリアンが瞳を見開き、慌てて相手の肩に手を掛けようとしたものの、その手をあっさりと払われる。
先ほど無様な姿を晒したことなど無かったかのように相手は優雅な微笑を称えた。
「穴倉の姫君。引きずり出されるのをお好みか?
いつまでも暗い場で息を潜めて世界から背を向けられますな。このグリフォリーノ・バロッサが僭越ではございますが貴女様の道筋を照らす灯火となりましょう」
まるで下らない演劇のように仰々しく――王宮深くで姫君を護っている筈の近衛隊の突然の出現に、街道の人々の眼差しが興味津々で向けられるその馬車の内、コリン・クローバイエは手にしていたレティキュールの紐をぎゅっと握り締めた。
深く深く呼吸を一つ。
冷ややかな眼差しで、コリンはゆっくりと馬車から一歩を引き出した。
鉛のように、これほど重さを感じる一歩はついぞない。
暗がりから光の世界へ。
それはある意味象徴的な行動に思えた。
差し出されるグリフォリーノの手に自らの手のひらを預け、馬車を囲む近衛達の眼差しを一心に感じながらコリンはその唇を開いた。
「はめましたね」
「礼より先にそのようなお言葉を賜るとは思いませんでしたね。
はめたとはどのような意味でしょう? 我々は貴女の馬車が強盗に襲われたのを偶然見かけ、人道にのっとってお助けに参じたのですが」
「王宮深い場所にいる筈の近衛隊がわざわざ街道に? それが更にわざわざ一般人の救助ですか?」
「ええ。我々は慈悲深いので」
恭しく言葉にし、グリフォリーノ・バロッサは自らの手に嫌々のせられているコリンの指先にそっと唇を落とした。
「それにしても、ご健勝そうで何より。
お体が弱いとお聞きしておりましたが、もう完治なさったようですね。
よろしければご自宅ではなく――王宮にお送り致しましょうか?
貴女様のおいでを、首を長くして待っている方もいることですし」
コリンはふいっと預けていた手を外し、どうして良いものかと自分を見返しているリアンへと視線を向けた。
「リアン、帰ります」
「は、はいっ」
いつもと変わらない主の言葉に、リアンが弾かれたように返答する。
グリフォリーノは肩をすくめ「お送りいたしますよ」と言葉を重ねるが、相手は付け入る隙を与えないかのようにきっぱりと返した。
「歩いて帰ります」
もともと一人で歩いてカフェに出向いたのだ。歩いて戻れぬ距離ではない。
石畳には幾人かの人間が近衛達によって取り押さえられているのが見える。その装いはどこにでもいるような町人だ。
うめき声をあげ、血すら流しているその様を冷たい眼差しで眺め、コリンは小さな声で罵った。
「よけいなことを」
「はい?」
グリフォリーノが眉を潜めて聞き返す。
コリンは涼しい表情のグリフォリーノを一瞥した。
「私の身辺を探っていた訳ですか?」
「いいえ。私が探っていたのはある子爵です。
出頭命令を再三無視してくれましてね――昨夜とうとう最後通牒を突きつけたのですが、これがどういう訳だが貴女様の馬車を襲うという暴挙に。
いったいどうしたのでしょうね?」
大仰に笑って「はて?」と首をかしげて見せる相手に、コリンは暫くの間じっと相手を見つめ返したが、ふいっと顔を背けた。
「バロッサ様」
「何でしょう」
「私の所有する黄金の装丁の銃、それにいかほどの値をお付けになりますか?」
***
ごとりと置かれた黄金の装丁の銃を前に、クライス・リフ・フレイマはごくりと喉を上下させた。
銃のコレクションを見せて欲しいと粘り、とぼけるようなのらりくらりとした態度のカロウス・セアンに頭をさげて頼み込めば、カロウスは「やれやれ」と肩をすくめてその銃をおもむろにテーブルの上に置いたのだ。
「コレクション、というか――今手元にあるのはコレくらいのものなんだ」
手元にあるのがコレ――まさにそれが目当ての品だと判ると、クライスは自らの身が奇妙に震えるのを感じた。
話が出来すぎていた。
胃が締め付けられるような心地さえして、銃へと向けていた視線が上へと――カロウスへと戻らない。
ばくばくと心臓が激しく脈動を繰り返し、口腔に無駄に唾液がたまる。
「おや、銃が好きなんだろう? 手にとって見てみたらどうだい?」
ぎゅっと膝の上の手が強張り、それでも楽しげな相手の言葉におそるおそる銃へと手を伸ばす。
――【忠誠の証】
クライスの自宅にも厳重に保管されている美しい装丁の銃。
一発だけ弾丸が装填され、弾丸の出し入れさえできない――自決の為の銃。反旗を翻すのであれば死ねという印。
――早く、早く、早くしろ!
王宮から出頭しろと矢の催促だ。だが、その時には銃を【忠誠の証】を持参しろと! それこそ身の破滅だっ。
しかもあの男はただ銃を手放したのでは無い。
何かしらの致し方の無い理由ではない――賭けの対価として【忠誠の証】を手放したのだ。愚かとしか言いようが無い。なぜそのような暴挙に出たのか、呆れてものも言えないとはこのことだ。
――勝手に破滅でも何でもすればいい。
そんなことに巻き込むな。
そうだ、こんな銃……そ知らぬ顔で……
「おや、もういいのかい?」
しっかりと握った筈だというのに、手が震えて銃がテーブルにごとりと落ちる。焦るクライスに、カロウス・セアンは揶揄するような笑いを含ませた言葉を向けた。
「キミがオレの可愛い姪を騙して近づき欲したものなのに?」
楽しげな言葉に、咄嗟に頭の中が真っ白に塗り上げられた。
面前にいる飄々とした男は、全てを知っている。自分が結婚という餌をちらつかせてこの家に入り込んだ理由を――
目がこれでもかというように見開かれ、緊張と恐怖のようなものが体を硬く束縛していく。
見開いた眼差しに、すいっと向けられていたのは一丁の銃。
それは実に小さく、手のひら程の大きさの殺傷能力すら低そうな玩具とすら思えるものであったが、笑いながらそんなものを向けられたクライスは卒倒した。
途端に頭に入り込んだのは、ギフォード男爵から注ぎ込まれた幾つものカロウス・セアンの悪評と忠告。
――すでに幾人もの人間を地獄に叩き落とし、自ら殺しすらもいとわない悪行の限りを尽くす希代の悪魔。
人を人とも思わず、笑いながら人を殺す。
決闘などという高尚なことすら意味が無い。その男は自らの気持ち一つで全てを成す。
――そんな男が、もし自らの愛する姪に対して侮辱的な行動を示されたらどうするのか。
背筋に冷たい汗がうまれ、つっと流れて落ちた。
「あのね――」
更に楽しげな口調でカロウスに言葉を向けられ、クライスは恐怖に駆られ、咄嗟にソレに手を伸ばしていた。
そう、黄金の装丁の――その銃に。




