その5
――早くしろ。
切迫した物言いすら余裕で受け流していたものの、相手の目が血走り始めた頃には自分が抜き差しならぬ場にいるのではないかという焦りが足元からじわりじわりと這いよった。
「貴様を破滅に導いてやる」
低い恫喝に銃まで持ち出され、いよいよ導火線に火がついたような心地になった。いや、正確に言うのであれば相手こそ導火線に火がついた状態なのだろう。だからこそ、自らが脅されているという切迫した状態のその一方、そのすべてを傍観者のように楽しんでいる自分もいた。
所詮――下らぬ遊戯だ。
人生など思い通りにいかぬものと放り投げてやりたい衝動の、ぎりぎりに生じた遊戯。どうとでもなれと自嘲的に笑うしかない。
相手は莫大な金を持っているといったところで、所詮商人。貴族である自分が商人ごときに蹴落とされる筈が無い。
隣の国のように金で貴族になれるような下賎な国ではない。貴族には貴族としての線引きも地位も備わり、商人などに振り回されることなどありはしない――筈であった。
「申し訳ございません。
お待たせしてしまうこととなりますが」
慇懃な口調で言う執事には笑顔で応じたものの、通された居間で苛々とした気持ちをとどめることは適わない。みっともないと理解していても、他人の目が無いことにつま先が小刻みに上下に揺れる。
コリン・クローバイエはもともと体が弱いという触れ込み通り、寝込んでいるといわれることも多い。見目ばかりは一流の人形だが、どこか掴めぬ雰囲気がどうしたって馴染めそうにない。体温の感じられぬ奇妙な人形など欲しがるのは酔狂な人間だけだろう。
それでも、最近ではおとなしくこのまま結婚してしまっても悪くないのではないかとすら思うのは、その持参金があまりにも魅力的だからだ。
――抱きたいという衝動を与えるような肉感的な女であれば更に良かったかもしれないが、何、子供さえできてしまえばあとはあの女の金で好き放題にしてしまえばいい。そう、体が弱いのだから、抱きつぶしてしまえばいっそあっさりと死んでくれるのでは無いだろうか。
父親にしたところで、どうせ厄介払い程度にしか思っていないのだろうから。
そうでなければ――たかがあんな台詞一つでとんとん拍子に婚約まで事を運ぼうなどとする筈がない。
「お嬢さんは――お元気でいらっしゃいますか?」
偶然を装って話しかけ、会話が弾んだ勢いというようにそう切り出せば、あの娘の父親は一旦奇妙な表情を浮かべた。
「……おかげさまで、どうやら生きているようですよ」
言葉を選ぶように告げられる台詞に厄介ものであるという確信が深まる。相手の出方を伺いながら「そういえば、先日の音楽会でお見かけした方が――以前お見かけしたお嬢さんに良く似ていて」と言葉を続けた。
年頃の娘であれば音楽会の一つや二つ出席しているものだし、出ていなとしても勘違いで流すつもりであったが、相手は「そうですか」とたいして娘に興味のないような返事ばかりを返してくる。
やはり厄介者という噂は本当なのだろうと結論づけて、そうして最後に「実は――」と嘘まみれの想いを熱っぽく告白すれば、相手は願ってもないとばかりに話を進め始めてしまった。もともと婚約だの結婚だのという深いところまでは考えていなかったが、足がかりにするには良いだろうと思ったのだ。
――カロウス・セアンへの。
多少話しの速さに焦ったものの、要らぬ娘であれば早々に処理してしまいたいという気持ちも判る。
だが――正直に言えば、はじめて引き合わされた娘の美貌に関して言えば、想像よりはるかに息を呑む程のものであったが。
心の見えぬ娘でも、自らの横におくのには悪くない。
何より相手はそのへんにいる灰色の鳩ではない。金の卵を生み出す鶏だ。
自分に都合の良い夢想にふけっていると、ふいに扉がノックされて開かれる。こちらの応えすら待たぬ性急さにむっとしたものの、コリン・クローバイエが現れたのかと思い一応敬意を示すように席を立てば、そこから現れたのは――カロウス・セアンであった。
愛想の良い微笑を浮かべ「やぁ、こんにちは」と軽く挨拶をされ、慌ててこちらも丁寧に挨拶を返す。
「いらしていたのですか」
「それはどちらかといえばこちらの台詞だけれど――そういえば、君に会いたいというひとがいてね、時間があれば招いてもいいかな」
自分に会いたい人物?
そんなものには到底心当たりなどなく、なんとなく胡散臭い。
そもそもこの男じたいが胡散臭いのだ。
――カロウス・セアンを知っているか?
持ちかけられた言葉に、正直「名前程度は」と応えた。
隣国の爵位を持ち、どのような経緯でかは知らぬがこの国の王都に会員制の高級サロンを一つ出すことを許されている謎の人物。
まさかそれがヴィスヴァイヤと繋がっているなどとは知りもしなかった。
ヴィスヴァイヤならば合点がいく。
何故なら、その昔王宮側はヴィスヴァイヤに相当額の謝礼――慰謝料だとか賠償だとかも言われているが――を払っている。その時の条件にサロンなどの優遇措置があったとしてもおかしくはないだろう。
ヴィスヴァイヤを名乗らず隣国の怪しげな爵位を名乗り、裏でこそこそとあまり耳心地のよろしくない仕事をしているカロウス・セアン。果たしてそんな男が「呼びたい」などという人物など更に胡散臭い。
「申し訳ありません、あまり時間がありませんので」
丁寧に他人を呼ぶことを断れば、相手は肩をすくめてさも残念というように苦笑した。
「そうか、時間が無いか――以前、私のコレクションに興味があるという様子だったから、見せてあげようかと思ったのだけれどね」
「それはっ……」
慌てて前言を撤回しようとすれば、邪気の無いにこにことした微笑が返る。
「いやいや、今度にしよう。時間が無いのであれば仕方ない」
さらりと流されそうになるが、そういう訳には行かない。
――欲しいのは彼のコレクション。
そう、こんな茶番の理由といえば、たかが一丁の銃がすべてであるのだから。
「どんな手を使ってもいい。
あの男が持っている銃を――奪われた【忠誠の証】を奪い返せっ」
それはそんな遊戯だった。
***
馬車をおりて下男が店の入り口に立つドアマンに来訪を告げると、慇懃に「このカフェは会員制のカフェでございますので」と断りを告げられそうになり、下男は主から渡されていた会員としての証を示すカードをもったいつけるように提示した。
「ご予約は――」と続く言葉に、リアンはうんざりとしながら決して安くない金額の紙幣を相手のポケットに忍び込ませ、微笑した。
必要経費として落ちないと頭で理解できる散財だが、中に入らないことには意味が無い。
来るなといわれれば行きたくなるのが人情と言うものだろう。
――コリンのことであれば尚更。
決して……置いていかれて拗ねている訳では無い。
「二階席でしたらご用意できますが」
中庭に続く一階は人気が高く、吹き抜けで階下を眺めることのできる二階席であればあきがある。そのように言われてうなずき、そして――リアンは一階席の一番目立たない席に目当ての人物を認め、予想していたものとは違うものが視界に入り込み、一瞬思考回路が停止するのを感じた。
ついできたのが激しい脱力だった。
――まさか、直に接触しているとは思っていなかったが……あれは確かにリアン、ではなくアンリの上客であるまるまる肥えた鴨様に違いない。
安い金額で幾度も勝たせ、ここぞというところで大きな勝ちを幾度も引っさらってきた相手だ。
アンリの懐には、コリンに削られてしまった給金をしっかりと補填できる程の金額が転がり込んでいる。拝めといわれれば拝んでやっても良いくらいだ。
「愛人と会うのじゃなかったのか?」
ぼそりと唇から漏れた言葉は珍しく男言葉で、更に溜息が落ちる。
二階席は確かに人気が無いのか、人もまばらで空席が目立つ。おそらく今回のように急遽の客を受け入れるようになっているのだろう。
コリンとアルファレスがいる席は一階の一番端、それを見るには一番良い席にはすでに少女が一人すわり、せっせとグラスに入れられたフルーツのようなものを食べている。さすがにどけともいえずにその隣の席を店員に案内させ、リアンは紅茶を頼むとそれとなく下の様子を眺めやった。
客観的に見てもコリンは麗しい。
さすがは自らの主よと口元が緩んだが、彼女の前にすわっている男が気に食わない。コリンの横に立たせれば美男美女としてその場の視線をさらうのもうなずける一幅の絵のようでさえあるが。
一階のほかの客たちも、おそらくは飾られている観葉植物などで見えづらいであろうにちらちらと気にかけているのが推察できる。
まぁ、相手の男は外見だけのただの馬鹿だが。
思わず鼻で笑ったリアンだが、ふと……今の自分がコリンの前に立てば、人々はどう見るのだろうという愚かな考えが浮かんでしまい、苦笑は自嘲へと変わった。
鏡の中にうつりこんだ男の自分は、反吐が出そうな程に嫌悪しか抱けなかった。
理解はしている。
――自分の唾棄すべきもの、汚いものすべてがアンリなのだ。
認められないもの。穢れたもの。卑しいもの、そのすべてをリアンはアンリに押し付けている。
何故ならアンリは死んだものだから。
捨て去ったものだから。
捨てたといいながら、汚い仕事はすべてアンリと名乗って押し付ける。リアンに汚れ役はさせられない。何故なら、リアンはコリン・クローバイエの後ろに控え続けるものだから。コリンと共に生きるには、アンリは不要。不要と言いながら自らアンリをいいように利用する。
矛盾だらけで反吐がでる。
――それが、自分だ。
普段は結い上げる髪を、今は首の後ろでリボンでまとめて流している。
化粧はさすがに控えたが、しっかりと化粧水と香料をはたいた肌はしっとりと落ち着き、素顔で外にいるというリアンの謎の気恥ずかしさも抑えてくれている。
その頬に片手を添えるようにしてぼんやりと階下を見つめ――自分が隣にいないコリン・クローバイエを、奇妙な気持ちで眺めていた。
***
「……愛人、手当て」
かすれた音で吐き出された言葉は、自分でも判別がつかぬ程に感情が抜け落ちたものだった。
あまりにも会話が成立しない。
面前の女は明らかに自分に対して「愚か者」という眼差しを向けてくるが、この女こそが愚か者だろう。
「小出しに話しても仕方ありませんし、交渉のつもりかもしれませんがもったいぶった言い方も好みではありません。
あの方の愛人として確かに私はお人形さんを認めておりますが、必要経費にも限度があります。どの程度で考えておりますか?」
半眼に伏せられた眼差しでざくざくと言われ、そこでやっと相手がアリーナ・フェイバルを想定しているのではなく、エイシェルを想定しているのだということに気付いた。
それにしても、愛人手当てを必要経費と談じる豪胆さはいったいどうなっているのか。
「いや――違う。
エイシェ……あの子のことじゃない。そもそもあの子は愛人じゃないし」
あやうく妹の名前を暴露してしまいそうになったが、時すでに遅し。
コリン・クローバイエは先ほどまでちっとも話が通じていなかったというのに、ここにきて突然物分りのよろしい才女のように変貌していた。
「エイシェというのがお人形さんの名前なのですか?
いえ、それよりも――どういうことでしょうか。あの方は愛人ではないのですか?」
まるで由々しいとでも言うように、いつも半眼を伏せたような気力の無い眼差しをしている癖に、その瞳が明らかに少し大きく見開かれた。
まるで怒っているかのような眼差しを向けられ、狼狽したアルファレスは言葉につまり、まるで恋人を落ち着かせるかのように――掴んでいた相手の手首から自らの手を離し、ぽんぽんっと優しく叩いた。
「――ああ、正直に言えば……あの子は、あの男の愛人なんかじゃないよ」
愛人などととんでもない。
確かに多少規格外ではあるが、エイシェルは立派な侯爵家の末娘で、アルファレスの可愛い妹の一人だ。
たとえ何があろうとも愛人などと謗られるような娘ではない。
もうここまでくればどうとでもなれと肩をすくめて言うと、面前の娘は怒りでも覚えているのが頬に赤みさえさして、その愛らしい濡れたような唇から――低い怨嗟の声のようなものを吐き出した。
「では……エイシェさんとフレイマさんのご関係は」
「無関係」
あまりの恐ろしい声音に即答が出た。
考えることなどできない程の厳しい声音に、まるで寄宿舎の上級生に対するように身がすくむ。
「どうしてエイシェさんはあのようなことを」
座りの悪い名前はとりあえず保留。
「話せば長いことだけど」
――何故か物凄く面前の女が怖い。
アルファレスは狼狽しつつ、相手の問いかけに端的に回答していくことしかできなくなっていた。
「無駄な話は要りません。
あなたとエイシェさんとのご関係は」
詰問というより尋問に近い言葉に、アルファレスは思わず正直に言ってしまった。
「兄妹だ」
言ってしまってから、しまったと血の気が引いたが――途端に面前の恐ろしい雰囲気を垂れ流した美貌の女は、ころりとその雰囲気を切り替えた。
それまでの厳しさなどまったく無かったかのように、冷ややかな眼差しが緩み、口調さえ変えて。
「是非、仲良くしてくださいませ」
にっこりとした微笑は――天使のように愛らしかった。




