その1
安い紙にペン先が引っかかり、文字がにじんで舌打ちがもれた。
イーストエンドの外れにあるアパートメントの三階――日差しばかりは贅沢に差し込む探偵事務所の一室では、一段落した仕事の報告書を書き連ねる男の姿と、そして似合わないグレーのドレスに白い――というべきか、薄汚れた白の前掛けをかけた女がひとり。
「どうして私がこんなことをしなくてはいけないのっ」
不満を時折爆発させる声に、更に舌打ちを漏らした男は文字を書き連ねる手を休めずに口を開いた。
「あっしはいいんですけどねー、請求通りの金額をぽんっと気前よく払っていただけりゃあ、そんな汚れ仕事をしてもらわなくたってねぇ」
大仰に言ったところで、探偵としての仕事をした訳でもない。
クロレア・セイフェリングの依頼は右から左に物事を移動させただけに過ぎないから、ぼったくりだといわれればそれまでの話だ。
彼女の依頼内容は、ある男と女を別れさせたい――というもので、実際その通りに二人は別れていないのだから依頼は遂行されていないとも言える。やったことといえば、新聞社にネタを売っただけの代物で、実はそちらから微々たるものの代金すらでている。
詐欺だと訴えられたら「ですかねぇ?」とそらっとぼける類のものだ。
クロレアは手の中の雑巾こそが憎い相手だとでもいうように、ぎゅうっと雑巾をしぼりあげ、ふんっと掃除に戻る。
その様子をおかしそうに眺め――自称探偵ボートル・フェミングは手元の書類に文字を落としていく作業に没頭した。
探偵という職業は面白い。
たいていはシケタ事件ばかりだが、それでも時折こうしてかわった事件やら面白い話が舞い込む。
たとえば――そう、クロレア・セイフェリング。
彼女は二回も結婚と離婚とを繰り返し、今は一人息子を持っているが、どうやら保護してくれる筈の弟であるアルファレス・セイフェリングを怒らせて家を追い出され、今では安いアパートメントに暮らしていてお金に困っている。
お金に困っているというのに、他人の不幸を願うような行動をするのだから不思議なものだ。まぁ、どうせ――糞くだらない理由だろうが。
彼女が依頼してきた男、クライス・リフ・フレイマ。
極一般的な男爵家の次男。普通と違うのであれば、多少火遊びが過ぎるところだろう。未婚の女性に手を出すなどとあまり褒められた事柄ではない上に、その女性に対しての責任を逃れている。普通の紳士であるならば、そんなうわさが立つ前に女性の名誉を護る為に結婚という足かせを――涙を呑んではめることだろうに。
だがクライスはそうしなかった。挙句、商人の娘との縁談話をすすめている。
縁談相手であるコリン・クローバイエ――ヴィスヴァイヤ貿易の総領であるセヴァランの娘。過去に二度の誘拐騒ぎがあり、二度目のおりには怪我をして寝たきりとなってしまったと噂されている。その娘が――今はクライス・リフ・フレイマの婚約者として浮上し、あまつさえひょこひょこと街中をうろついている。
――なんていう情報は、実はとうの昔からボートルは知っている。
なんといっても、ボートルは優秀な探偵であるから。ということではなく、なんのことは無い、実上はコリン・クローバイエこそボートルの上客の一人であるのだから。
やっと書き上げられた報告書にサインし、ついで封筒に宛名を書き記す。
――コリン・クローバイエ。
絶対に金を払ってはくれるが、経費計算からなにやらちょっとばかり口やかましいボートルの上客だが、あいにくと未だにその姿を見たことは無い。
ボートルはいつもと同じように、封筒の側面に赤いインクを落とした。
是――依頼内容について調べた結果、一目見ただけで理解できるようにという印。
ボートルの頭の中にある資料をひっくり返せば、何やら浮かんでくる青写真がある。口元に自然とにやにやとしたいやな笑みが浮かぶのは、誰もが知らないであろうことを知っているという自分だけの優越感。
教えてやることは可能だが、それには勿論、御代をいただく。
「何をニヤニヤしているのよっ、気持ち悪い」
「無駄口ばかりたたいてないで、ちゃっちゃと掃除してくださいよ。それが終わったら書類の整理だってまってやすぜ」
「だからっ、どうして私がそんなことをしなくてはいけないのよっ」
またしてもキィッと耳が痛くなるような高音で怒鳴り散らす女をすがめた目で見返し、ボートルは封書のインクを乾かす為に、ぱらぱらと砂をまいた。
今回の詩のできは、我ながら良いのではないだろうか。
ボートルは悦にいるように口元をゆがめた。
***
必要経費。
そう、文字通り――利益を出すためには必要不可欠となる経費。これは低ければ低い程良い。物の売り買いには人件費やら運搬費やらが発生し、最終的にそういったものを計上した上で純粋に残ったものが利益となる。
百残るより千残すためには、色々と削らなければいけない訳だが……
帳簿の文字をじっくりと眺めていたコリンだが、どうにもこの人件費を削れないものかと思案しだした。
船の船員が一人か二人減ったところで船が止まることは無いだろう。料理人とやらは必要だろうか。順番に料理を作ればいいのではあるまいか。
そもそも、船の上で食べるものも必要最低限にすればいい。パンでも食べていてくれれば火も使わないのに。火をおこす為の燃料だとて馬鹿にならない。食事時にいちいち麦酒を飲む風潮も納得がいかない。
などという極悪企業家のような思考をさせていると、手元を覗き込んだリアンがうめいた。
「――麦酒は必要ですよ」
「水でも飲めばいいではありませんか」
「船旅では水のほうが貴重ですよ。勿論、のせる時の値段は麦酒のほうが高いですけどね。水は命の源ですから。それで、麦酒ですが――水も幾晩もたてば傷みます。その為、腹の消毒として酒を飲むんです。生水は中りますから」
贅沢として酒を飲むのではありませんよ。
だからその思考回路は切り捨てて下さい。船員達のやる気も落ちますし。と、さっさと提案書を没収したリアンに、コリンは机上の空論ばかりに嫌気がさした。
単純に考えることはできても、その意味をおしはかるのは苦手だ。とくに他人の心と言うものに関しては。
「船旅は……どうでした?」
「そうですね。あまり楽しくはありませんでしたよ。以前コリン様と一週間ばかり船にのったことがありましたけれど、あの時は楽しかったですね。アイリッサ様が船好きな理由がよくわかりしたけれど、私は――やはりコリン様と一緒にいられないと楽しくないですね」
ふっと眼差しを伏せて柔らかな声音で言うリアンに、コリンは「そうですか」とばっさりと切った。
挙句、切った刀をそのまま返す。
「私が結婚したら、あなたはどうしますか」
「――何か変わるとは思っておりません。私は、今も、これからもあなたと一緒にいるものと思っていましたが、そうではないのですか?」
冷静な声音が落ちたのが不思議だった。
胸は動揺で激しく鼓動している。
まるで、首輪から先に続く綱をふいに切られた犬のようだ。無様に途方にくれているというのに、主はいつもと変わらない。
静かな瞳は帳簿の文字を拾い上げ、間違いがないかを調べ上げている。
今まさに、鈍器で殴りつけながら――彼女は普段とまったく変わらない。
リアンは我知らず一歩、軽く一歩退いた。
そうしないと倒れてしまうのではないかというくらい動揺している自分に、更に動揺してしまう。
「フレイマ様に結婚の話を進めて下さいとご連絡差し上げるつもりです。
これ以上だらだらと続けていては、あがる利益も上がらない。丁度アイリッサ叔母様の船が戻ると連絡を受けました。色々とすすめたい案件があるのでそちらに専念したい」
「それと、私の雇用とに何か関係が?」
「あなたの雇用主はヴィスヴァイヤです。私は結婚すればフレイマになります」
淡々と言われる言葉の意味を、リアンはどこか違う場所で突きつけられているかのような不思議さを覚えた。
まるで、自分達を傍観している誰かがいるかのように。
「このままヴィスヴァイヤで働き続けることも可能ですが。その場合――父の預かりとなるでしょう。新しく雇用契約を結ぶのであれば事前に弁護士にその旨伝えて……」
「私はっ」
相手の声をさえぎるように出た声の大きさに、また驚いた。
リアンはコリン相手に怒鳴ったことなど無い。
何より、今の自分の無様さにどうしてよいか戸惑いがあふれてくる。
――怒鳴るなど、まるで癇癪をおこした子供のようではないか。
「私は……あなた様個人に忠誠を誓っている」
言葉など意味が無い。
忠誠の証など、どう示せばいい。
そんな目に見えないものを、いったいどう示せというのか。
何か命令してくれればいい。誰かを傷つけようと、誰かを蹴落とそうとしてみせる。それが自らの忠誠の証となるなら、そう、いますぐにでも。
「あなた以外に仕えるつもりは無いっ」
「ならば結婚と同時に新しい契約書を作成しましょう。ただし、これまでのようなお手当てを出せるとは思えません――二割程ひくくなることもあるかもしれませんが」
「勿論かまいません」
勢いで告げたが、コリンは視線を上げて満足げに一つうなずいた。
「それは良かったです」
その表情を見つめ、リアンはしばらく呆然とし……じりじりと這い登ってくる事柄に、ぼそりと呟いた。
「まさか、経費削減、ですか?」
「どこを削ろうかと考えていたのですが、一番高いところが削れてよかった。あなたのお手当ては船員十人分になりますから」
むしろもう少し削っても良いのではないかというコリンの前で、リアンはぐっと手を握り締め、その様子を眺めていた女中二人はこそこそとリアンの不幸を囁きあっていたが、丁度聞こえたノックの音に、慌てて応じた。
「コリン様、お手紙がいくつか届いておりますが」
銀のトレイに乗せられた封筒を家令から渡され、女中は空気をかえるように明るい口調で言った。
そのトレイを一旦リアンが受け取り、中身を検分する。
「……このところ、何故か音楽会だの茶会だのの招待状が入り込みますね」
勿論ことごとく断っているが。
そもそも、一般的にはコリン・クローバイエは未だに寝たきりなのだから。
「年齢的なものでしょうか」
だとしても、コリンは決して淑女ではない。社交界とは無縁だというのに。
すでに立ち直ったリアンが呟き、何ら問題は無いと判断して主に手紙を差し出すと、コリンは封筒のサイドにざっと視線をめぐらせてそのうちの一枚を抜き出すと、「いつも通り処分を」と命じた。
いつも通り、というのは招待状には丁寧に出席できない旨返信しろという意味だ。
抜き出された一枚。
封筒の上部分に赤いインキで汚れがついたものを引き抜き、中身をたしかめる。
時節の挨拶と、何の変哲もないご機嫌伺い。
詩のような文面に視線を落とし、コリンはくしゃりとそれを丸めた。
「損失が大きいようでは、取引は成立しない」
ぼそりと落ちた言葉に、リアンはどうにか立ち直り「何かありましたか?」と問いかけた。
「リアン」
「はい」
「――私は、いつ音楽会に出席したのでしょう」
平坦な問いかけに、リアンはその意図が汲み取れずに鼻に皺を寄せた。
「……そんな事実は私の知る限りありませんが」
寝たきりのコリン・クローバイエがほいほいと外出するのは、雑貨屋と市場。時には買い付けと称して他国にも出ることがあったが、それはあくまでも他国だ。
「では、クライス・リフ・フレイマ様が恋に落ちたという音楽会のコリン・クローバイエとは誰ですか?」
――蛇は音楽の園にて花を見初め、大樹に助力を求める。
純粋な問いかけに、リアンは真顔で応じた。
「嘘をついてまで、あなた様と見合いをするのには理由があると思いますよ」
――はじめて、この婚姻について意見を求められたリアンは胸の奥でほっと息をついた。
「そう、何かよろしくない下心が」
***
ぐしゃりと前髪をかきあげて、深く溜息を落としこむ。
いくつか手を回し、コリン・クローバイエにあてて茶会や音楽会の招待状を出しているのに、いっこうに色よい返事はきていないという。
わざわざ友人や知人に頼み込んでそういった席を設けてもらった為に、いちいち出席しなくてはいけない挙句に問題のコリン・クローバイエは出席を拒否しているという惨憺たる有様だ。
――貴族の茶会という餌に、あの娘は釣られない。
強欲な商人であれば、こういった席にしたり顔で出席すると思い込んでいたが、何一つ引っかからない挙句に逆に苦労させられている。
こうなったら、自らの屋敷で何か催し物をしようかとも思ったが、そこまで大仰に相手の前に出たいという気持ちは無い。あくまで、さりげなく――を装いたい。
もうすでに幾日あの娘を見ていないだろう。
屋敷の奥にひきこもり、少しも出てこない。毎日のように雑貨屋に足を運んでいる自分がものすごく阿呆なのではないかとすら見えてくる始末だ。
末の妹のエイシェルは小娘の癖に女の勘とやらを得意げに披露した。
曰く――コリン・クローバイエは婚約者を好いてはいない。
では、何故この婚約話は浮上したのか。いや、そこに思慕の気持ちが無いのであれば、やはり存在するのは打算しかない。
男爵との縁故を狙っての政略結婚。
「……たかが男爵だぞ」
ぼそりと言葉が落ちた。
しかも、襲爵するべき爵位もない。子爵すら名乗れないあの男に何の価値があってよりにもよってヴィスヴァイヤが婚姻を望むのか。
アンリに告げたように、いまどきは爵位ですら金でやりとりされてしまう程に貴族は衰退している。
ヴィスヴァイヤが望むのであれば――公爵すら落ちるのではないだろうか。
たとえば……グリフォリーノ・バロッサ。
ふっと浮かんだ男の顔に、アルファレス・セイフェリングは奥歯をかみ締めた。
ドミノを身にまとい、その腕の中にコリン・クローバイエを抱きとめた男。皇女シルフォニアの近衛はまるでそうするのが当然とでも言うようにコリンの肩を抱き、その身に触れていた。
それはまるで一枚の絵のように。
どこぞの男爵家の次男など太刀打ちできないほどに見事な一対。
悪魔のような全身黒をまとったあの男に囚われた、儚い花のような娘。あの場で、あの広い会場でほぅっと落ちた溜息にはグリフォリーノ・バロッサの出現に驚愕するのと同様、確かな賞賛がにじんでいた。
ヴィスヴァイヤの娘がグリフォリーノに見合いを申し込めば――いくら公爵家といえども無視はしないのではないか? さすがに婚姻という話に一足飛びに行くことはないとしても、一考の余地はある筈だ。
だとすれば、男爵家の次男を相手として選んでいる狙いは何だというのだろう。
あの男を、コリン・クローバイエが望んでいるのでは無いとすれば。
だが、あの男自身、コリン・クローバイエとの婚姻を望んでいるようには到底見えなかった。
――そこに、あの娘の想いが無いのであれば、残るのは純然たる政略結婚の筈で……政略結婚であるなら、あの娘は……望まぬ結婚を強いられているのだろうか。
はじめてその考えにたどり着き、アルファレスは混乱し、動揺した。
余計な情報を省いていけば、そこに残されているものは――
「アル兄さま」
甲高い妹の声に、アルファレスは息をついて身を起こした。
居間の一人掛け用の椅子に足を組むようにして座り、一人考え事に没頭していたが、その場に妹もいることをすっかりと失念していたのだ。
「エイシー……ああ、すまない。何の話だったっけかな」
言いながら視線をテーブルへと戻せば、先ほどまで考えていたことを思い出す。
そう、あの娘をどうにか呼び出そうとしていたのだ。
穴倉にこもってしまったうさぎを、どうにか追い立ててやろうと。
「極上の餌としての意地を見せてあげるわ」
何故かおかしな具合に得意気な妹は、一通の封書をひらひらとアルファレスの面前でひらめかせた。
「これであの女が出向いて来ないようなら、来月のお小遣いナシでもいいわよ」
ふふんっと鼻を鳴らすエイシェルに、だからいったいぜんたいどこからそんな自信があるのかとアルファレスは嘆息した。
幾人かの貴族の誘いをことごとく断って来たのだ。
婚約者の愛人からの呼び出しに応じる女がいったいどこにいるというのだろうか。
しかも、その得意げになっている封書の文章といえば品性の欠片もない。
――あの店で待っているから、正々堂々と出てきなさい。
決闘でもするのかという文面に、署名は人形――どこにそんな奇妙な手紙を受け取ってほいほいと顔を出す女がいるというのだろう。
これは随分と期待外れだと肩をすくめたところに、自信たっぷりのエイシェルはにんまりと唇を歪ませた。
「そのかわり、コレであの女が顔を出したら褒章の他にお小遣いは二倍にしてもらうから」
小悪魔の顔の妹に、アルファレスは鼻で笑った。
「三倍でもいいよ」




