その3
ビロードを打ち付けたラシャ台は手入れの行き届いた品だ。
おかしな癖が付く前に定期的に張替えが成されているのは主の性格故といえるだろう。カロウス・セアンはこのサロンを実に贅沢に運営している。
その理由はつまり――カロウスにとってここは商売とはまた別の意味があるからだ。
片手を台の上に張り付かせ、人差し指と薬指を下げ、あげた中指の間にキューを通してブリッジを作り出す。
吐息のような一呼吸、手首のスナップを利かせて白い手玉を付けば、それは滑らかに踊りだして目標のカラーボールの中心を打ち抜き、小気味良い音をさせて弾かれた。
「お見事」
ガコンという音をたててポケットに沈んだボールは4。予定していた3番が落ちなかったのが不服なのか、アルファレスは軽く片眉を跳ね上げるようにしておどけ、肩をすくめた。
「これでお見事なんていわれると嫌味かなと思うね。キミの見事なブレイクショットには及ばない。あそこまでカラーボールを散り散りにされると、こっちの自信が揺らぐよ」
「難でしたらお教えしますよ。力技はできかねますけれど、ちょっとしたコツがあるんです」
リアンは微笑を浮かべ、アルファレスに第二打を促す。
「ご教授願いたいね」
「ふふふ、やっぱり駄目です。こちらの手の内を見せすぎるのは面白みがない」
実の無い会話。
上っ面だけのものを極当たり前に繰り返し、リアンはふと思い出すようにビリヤード台の横にある円形のテーブルの上のグラスに手を伸ばした。
「セイフェリング様は、ギフォード子爵をご存知ですか?」
さりげなく尋ねれば、アルファレスは第二打の為にスタンダードブリッジを作り、身を沈めるようにしてキューを構えた。
「他の男の話題とは興ざめだね」
「うちのお客様だっただけですよ。最近こちらに見えなくなってしまって――どうなさったかと思いまして」
リアンは一度もギフォードと接触した事は無いが、さも以前から知っていたような口ぶりで問いかける。
するとアルファレスは手玉を見つめながら返した。
「ここの会員権を手放したっていう噂があったが――そうじゃないのかい?」
「あいにくと私は内情までは詳しくありませんので。そうですか、でしたらもうこちらにはおいでにはなられないのですね」
「今はサロン遊びに興じている場合ではないんじゃないかな」
アルファレスは先日見かけたギフォード子爵の姿を脳裏に思い浮かべつつ、応えた。
確か、あれは仮面舞踏会でのことだった筈だ。
――ギフォードは誰かと揉めて……そう、あのコリン・クローバイエの婚約者と揉めていた。
顔は隠されていたものの、あれは確かにギフォードだった筈だ。
「遊んでいる場合ではない?」
「色々と噂が飛び交っているが、どれもあまり良いものとはいえない。挙句――陛下への反逆罪などという噂すらちらほらとあるくらいだ」
気の入らぬ口調で応えながら、アルファレスは喉許に競りあがる奇妙な嫌悪感にごくりと唾を飲み込んだ。
「ずいぶんと恐ろしい噂ですね」
「陛下から下賜したものを手放したとか何とか――まぁ、その程度のことだが。うるさい連中がいるのさ」
いまどきは拝領領地を手放すものもいるのだから、本来であればとやかく言われたりはしないのだろうが。
「確か――」
キューの先端のタップが手玉を突き上げたが、打ち所が下方過ぎた。いったん走り出した手玉は、しかし途中でバックスピンを利かせて方向をかえてしまい、目標を目指すことなくそれて止まった。
「おや、はずしてしまった」
さすがに舌打ちもせずにアルファレスは肩をすくめた。
「私の番ですね」
リアンは言いながら、ふむっと小さく鼻を鳴らした。
ギフォードの話題から、アルファレスの中に広がったのは男爵家次男とコリン・クローバイエがむつまじく並ぶ姿だった。
着飾ったあの娘の手が、婚約者の腕に添えられていた。
恋する男の腕の中で、あの娘はほんのわずかに口元に笑みを浮かべていた。淡く刷いた控えめな口紅。仮面の下の眼差しで男を見つめ――あの柔らかな塗れた唇で、あの娘は男の唇を受け入れる。
そんなシーンを目撃した訳でもないというのに、カっとキューを握る腕に力が入った。
苛々としたものが体内を駆け巡り、そんな気持ちを持つことに憤慨する。
あの女は誰にでもそうなのだ。
あのぼさぼさ髪のフレリックにすら媚をうるような女なのだ。
――だというのに、何故あの女は自分にはその媚を向けないのだろうか。
まるきり物体でも見るかのように冷ややかに。いや、物体ですらない――まるきり何も無いかのように扱われるのは我慢ができない。
「セイフェリング様? いかがなさいました」
リアンがミスをして引き下がったものの、相手が身を固くして微動だにしない様子にリアンは小首をかしげて問いかけた。
「――世の中には、キミのように素晴らしい女性がいるというのに。まったく……あの男は可愛そうだね」
憎憎しげに言いながらアルファレスは何も考えずにビリヤード台に進み出て、置かれている手玉に身を沈めた。
「どなたの話――ああ、当てて差し上げましょうか?
あなた様のご友人の男爵家次男のことでいらっしゃいましょう?」
くすくすと笑うリアンの言葉に、アルファレスは苛々としたまま応えた。
「あんな計算高い女に目をつけられて――逃げることすらできないとは。本当に哀れだと思わないかい?」
憎しみすら混じっているのではないかという言葉に、リアンはその背を見ながら小さく笑った。
――計算高い?
勿論。
それが、コリン・クローバイエなのだから。
ある意味アルファレスの言う言葉に間違いは無い。
「セイフェリング様はご友人が可哀相というよりも、その相手の女性がお嫌いなのですね」
「……嫌い? 嫌いな訳ではないよ。
ぼくは誰も嫌いになったりしない」
「相手の女性はさぞ醜女なのでしょうね」
くすくすと笑うリアンに、アルファレスは白球をキューで打ちつけ――忌々しいというように応えた。
「いや……彼女は」
――あの女は、とても……美しい。
あの瞳を柔らかく向けられ、微笑を浮かべて、
「彼女は――」
何といえばいいだろう。
美しい。綺麗。
そんな言葉ではなくて、どう表現してよいものか判らない。
あの女は、自分の婚約者にどんな表情で対するのだろう。甘い声でささやくのだろうか。小首をかしげて、愛していると――
ぎしりと奥歯をかみ合わせると、リアンはどこか冷ややかな表情でポケットに落ちた玉を拾い上げた。
「セイフェリング様。手玉が落ちましたよ」
***
――何故、私と結婚したいとお思いになったのですか?
コリンは一度クライス・リフ・フレイマにそう問いかけようかと思ったことがある。
だが、そうしなかった。
何故なら、そんなことは自分の中で単純に回答が出たからだ。
持参金。
それ以外の何をもって自分を欲しがる者がいるというのか。
更に上乗せしてヴィスヴァイヤというつながりは男達にとって魅力的にうつるだろう。だから、自分の中で問題は完結している。
だが、一つだけどうしても理解できないことがあり、その日、思案の末にコリンは父親に問いただすことにした。
勿論、父に突きつけられた挑戦に対し、父にヒントを求めるような行動はできればしたくない。マイナス評価を頂くことになろうとも、それでも気になってしまった事柄に対し、コリンは食事の席で普段の会話の一部のように織り交ぜた。
「フレイマ様のシゼレ男爵とお父様はいつからお知り合いでしたのですか?」
父の仕事上の交友関係についてはあらかた網羅している。だが、フレイマとのつながりはどうも見えてこなかった。
フレイマの父であるシゼレ男爵との直接の商談は無い。いくら父が商売人として手を広げていると言っても、世の中には一つの職種に対していくつもの商売人がいるものだ。そして、商売人は顧客を抱え込む。
フレイマとのつながりを探そうとしても見つけ出すことができないのは、ヴィスヴァイヤの商いの仕方にも理由があった。
最高級品を扱う部署と、そして一般市民が必要最低限購入しなければいけない普段使いの商品とを手がけるヴィスヴァイヤは、中層をあまり相手にしていない。
フレイマからすれば、ヴィスヴァイヤの扱う商品は高すぎるか、もしくは安すぎて手をだすなど自尊心が許さないようなものなのだ。
たとえシゼレ男爵がヴィスヴァイヤの高級商品――宝石や絵画、銀器などを購入することがあったとしても、それは現金売り上げとして処理されたもので、書類にサインが残されはていない。
サインや商談用の書類が残るような掛売りが許されるお付き合いはしていないということだ。
何か書類が残されていればコリンだとしてこの名前を知っていた筈で――そうすると、やはり父の心内のことであれば父に問わなければ回答は得られない。
軽い敗北にも似た感情をなだめつつ、それでもそれとなく――できるかぎりそれとなく、父に向けられた挑戦とは違う話題のように口にしたのだ。
「シゼレ男爵と知り合ったのは、三ヶ月前だが?」
父は問われた言葉に何の嫌味も乗せずにさらりと応えた。
心内で――娘が自分に問いかけることをマイナス点だと考えてなければ良いのだが、油断はできない。
減点方式か、それとも加点なのか。
問いかけてしまった今となっては、結果だけをもって評価してくれるように願うしかない。
「クライス君が引き合わせてくれた」
ということは、シゼレ男爵の息子であるクライスとは、それ以前から顔見知りであったということだろう。
コリンは壁にかけられている銃の一つを丁寧に分解しながら、頭の中で父の態度、声音を振り返っていた。
そして後悔に手元の螺旋回しに力がこもる。
――結果から言えば、コリンは問いかけを間違えた。
父に問うのであれば、クライスとはどういういきさつで知り合ったのかと問うべきだったのだ。
悩んだ挙句に間違った問いかけをして、結果無駄であったというのは心底許しがたい。
一つだけ判ったことといえば、父はクライスを気に入っているのだろうという憶測のみ。父が何故あの青年と知り合い、そして気に入って自らの娘をくれてやろうと考えたのか。
商売人としての才能を見込んだ?
いいや。
クライスは古典的な貴族の子弟で自ら商売をしようなどとは間違っても思う男ではなさそうだ。
では、どうして父は「娘との縁談」などをクライスに持ちかけたのだろう。
その真意を推し量ろうと考えれば考えるだけ――この縁談の意味はまったくもっと理解不能としか思えない。
「繊細さの欠片もない扱いようですね」
嘆息交じりの声が耳に入り込み、コリンはハっとして息をつめた。
正直に驚いてはいたが、それでも鉄壁の無表情は相変わらず――ゆるりと顔をあげ、その場におとなしやかなお仕着せに身を包み込んだ幼馴染がいることに気づけば、コリンは自分の中にぶわりと感情の波が押し寄せることを知った。
首筋をきっちりと隠す控えめな使用人頭とでも言うべきドレスを着用し、うっすらと化粧を施したリアンは腹部に両手を組み合わせ、すっと一礼した。
「長らく留守に致しました。
お元気でいらっしゃいましたでしょうか」
「……リアン」
「はい」
すっと背筋を伸ばし、口元に笑みを浮かべるリアンの姿は実に凜として見事に麗しい女性だったが、コリンが一番気にかかるのはそんな事柄ではなかった。
「リアン」
もう一度名を呼べば、リアンの瞳がやんわりと優しさをにじませる。
愛情というものがあふれるものであるなら、確かにリアンからはそれを感じられる。だが、そんなことよりもコリンには大事なことがある。
このところずっと、ずっとリアンと顔を合わせたら言おうと決めていた事柄。
「はい、コリン様」
「頼んだ壷は二週間ほど前に届きました――この二週間、職務放棄として減俸四十パーセント」
コリン・クローバイエは二週間前から言いたくていいたくてたまらなかった事柄を口にし、満足気に自らの片腕を見つめ返し、そして言われたリアンは喉の奥で小さく呻いた。




