神民病院を出て、ツョッカー病院へ行け!
神民病院の中庭でヒロミに体を向けた俊彦は、胸の奥を押しつぶされるような沈痛な表情を浮かべながら言葉を絞り出す。
「……ああ。マーチの傷は確かにひどかった。だが、かろうじて息はあったんだ……」
その言葉にヒロミの肩がわずかに緩み、ほっとしたように安堵の色が顔に浮かぶ。
しかし、その直後――俊彦の手がぎゅっと握りしめられた。まるで、これから吐く言葉に自分自身が耐えるためのように。
「だけど……治療テントの中で、オニヒトデ隊長が……マーチを殺したんだ……」
ヒロミは、一瞬で笑顔のまま凍りついた。
俊彦の言っている意味が理解できない。脳が言葉の並びを拒否している。
「え……ちょ、ちょっと待ってwww なんでオニヒトデ隊長がマーチを殺さないといけないのよwwww」
口では笑っている。
だがその裏で、ヒロミの胸の奥に、冷たくざらりとした不安がじわりと広がっていくのが分かる。
冗談だと思いたい。だが、俊彦の顔は――冗談を言える状態ではなかった。
「俺は見たんだ……オニヒトデ隊長が、マーチの口に……赤い液体を注ぎ込むのを」
「赤い液体……?」
「その瞬間、マーチの体は……苦しそうに悶えて……痙攣して……最後には……死んだんだ……」
ぽつり、ぽつりと零れるように語っていた俊彦の声が、そこで断ち切れた。
両手で自分の顔を覆い、こらえ切れずに嗚咽が漏れ始める。
それを目の前で見ながら、ヒロミはようやく悟った。
――あ、これ……本当だ。冗談なんかじゃない。
俊彦の性格を、ヒロミは誰よりよく知っている。
彼は曖昧さや誇張や冗談――そういった“正確性の低い話”が何よりも嫌いな男だ。
だからこそ、仲間の言動に対しても、時に刺すように厳しくなり、事実だけを冷徹に突きつける。
そんな俊彦が、あの顔で、あの震え方で語ったということは――
少なくとも、彼の中では“事実”なのだ。
少なくとも……
ヒロミは神民病院の待合室で義雄と対面するまでは、そう確信していた。
だが今、義雄が突き出した手には、小瓶に入った赤い液体が静かに波打っている。
にこやかに笑う義雄の顔は、その赤い液体の不気味さと釣り合わず、むしろ温度差が恐ろしいほどだった。
――おそらく……これが俊彦の言っていた“赤い液体”……
ということは、これは堕胎薬ではなく毒……?
分からない。
分からないのに、義雄の笑みだけがやけに軽く、薄く、どこか粘つく。
――なぜ、オニヒトデ隊長は私たちを殺そうとしているの?
ヒロミの心には、まだかすかに義雄を信じる気持ちが残っていた。
「オニヒトデ隊長……私はもう……邪魔ですか?」
押し殺した声が震える。
義雄は満面の笑みを浮かべたまま、ひらひらと手を振った。
「そんなわけねぇだろ、ヒロミwww お前は仲間だよwww なんでそういうこと言うんだよwww」
いつものヒロミだったなら、この言葉を信じられた。
だが、俊彦の“事実を誤魔化さない男”としての態度を見た後では、義雄の笑顔は軽薄どころか、嘘くさくて仕方がない。
ヒロミは意を決し、声を絞り出した。
「……マーチは生きて駐屯地に帰ってきたと聞きました。しかも……隊長がお見舞いに行かれた後に亡くなったと……」
その瞬間、義雄の目がぎょろりとこわばった。
――この女、どこまで知っていやがる?
いや、あれは誰にも見られていない……はず。念入りにテントも確認した。
だが――外は?
物陰から覗かれていたら?
――俊彦か。
あの野郎、あのときの視線……ヒロミだと思ってたが……俊彦だったのか?
自分の行動を疑った俊彦が、その後も密かに監視していたのなら――辻褄が合う。
そして、それをヒロミに告げ口しやがった。
なら、まず確認すべきは――
「ヒロミ。マーチが死んだ状況……俊彦から聞いたのか?」
ヒロミの肩がビクリと震えた。
目の前の義雄は、いつもの“隊長”ではない。
大きく見開いた目の奥には、隠しきれない殺意がぎらついている。
魔装騎兵のヒロミでさえ、その迫力に息を呑むほどだった。
ヒロミは固く口を閉ざし、ゆっくりと首を横に振る。
ここで頷けば、即座に殺される――そう直感したのだ。
――いや……もう遅いのかもしれない……
沈黙するヒロミを見ながら、義雄は小さくうなずいた。
「……そうか。俊彦だったわけだな」
独り言じみたその呟きに、ヒロミの血の気が引く。
義雄の中では、すでに“答えが出ている”。
――このままでは、俊彦も……私も……
恐怖におびえるヒロミの眼に、義雄の手がぐっと伸び、自分の首へと迫ってくる光景がはっきりと映った。
――まさかここで、殺すつもりなの……?
その証拠に、義雄の眼には隠しようもない殺気が宿っている。
ヒロミは本能的に悟った。
――このままでは、殺される!
だが、両足を砕かれ車椅子に縛られたヒロミでは、義雄から逃げ切ることなど到底できない。
ヒロミは強く目をつぶり、唇を噛みしめた。
その時だった。
義雄の背後から、少年の声が割り込んだのだ。
「あのぉwwww お取込み中すんませんwwww」
そう――その声こそ、我らが主人公タカト君である。
ナースセンターの前で心配そうにヒロミの様子をうかがっていたのだが、どうにも空気がおかしい。
結果、ついつい口を挟んでしまったのだ。
気勢を削がれたのか、義雄は苛立ちを隠そうともせず振り返る。
「なんだ! 小僧! 何か用か!」
「用ってほどじゃないんですけど……さっきから匂うんですよ!」
義雄の表情が、一瞬だけ強張った。
――まさか、自分の殺意を嗅ぎ取られたのか……?
だが、その警戒は次の一言で粉砕される。
「なんか魚の腐った匂いっていうか、刺激臭っていうか……とにかく! オッサン! 臭いんだよ! 早くどっか行け!」
待合室の人たちが一斉に鼻をつまみ、チラチラとこちらを見る。
どうやら義雄の体臭は、初見の人にはかなり強烈らしい。
ヒロミは慣れていたので気にしていなかったが、レベルとしてはオタクがイベント会場で消臭剤を振りかけられて出禁になる程度である。
周囲の視線に気づき、義雄は舌打ちしそうな顔で目を細めた。
――今、ここで顔を覚えられるのはまずいな。
――夜、来た時にマークされる恐れがある……そうなればヒロミを殺しづらくなってしまう……か。
そう判断したのか、義雄はヒロミに背を向け、ひらりと手を上げた。
「ヒロミ……今のところは帰るわ……」
赤い液体の小瓶をポケットにしまう動きはどこか名残惜しげで、舌で歯を舐めるような不気味な音さえした気がした。
そして義雄は何事もなかったかのように病院の出口へ歩き出す。
――ヒロミ……お前みたいなバカは笑って騙せると思ったのによぉ……
――俊彦のガキ……余計なことしやがって……
義雄の背中が病院の扉の向こうへ消えていく。
その手前では、タカトが「さっさと消えてくれ」と言わんばかりに、わざとらしく大きく手を振っていた。
ヒロミは胸に手を当て、震える息を押し殺しながら、ゆっくりと安堵を吐き出した。
そうだ……ここは神民病院の中。人の往来があり、昼間の視線もある。
今は義雄も、そう簡単には手を出せないはず――
だが……このまま引き下がってくれるとは、どうしても思えなかった。
――夜はどうなる?
寝静まった病院内。見回りの看護師は確かにいる。
だが、そんな看護師たちが義雄を止められるとは到底思えない。
せいぜい、死体がもう一つ、二つ増えるだけだ。
そもそも、この神民病院は外部からの襲撃など想定していないのである。
覚悟を決めたヒロミは、目の前のタカトに視線を向け、無理やり笑顔を作ってみせた――。
「あなたが……ツョッカー病院の使いの人?」
その声は落ち着いているようでいて、かすかに震えていた。
タカトはきょとんと目を丸くし、問いの意図がつかめない様子で首をかしげる。
「はい、そうですけど……本当にツョッカー病院に転院するつもりですか? あそこは……マジでブラックですよ!」
ヒロミの胸がきゅっと締めつけられた。
俊彦の話を聞いた時――半信半疑だった。
だが否定しきれなかったからこそ、俊彦が焦り切った顔で告げた“あの指示”をすでに実行していた。
『神民病院を出て、ツョッカー病院へ行け!』
ツョッカー病院――
城壁の外にある一般国民向けの病院で、医療レベルは最低ライン。
神民が行くなんて、本来なら有り得ない。
――神民の私が、そんな場所へ……?
当時はそう思った。
だが今なら分かる。
――そんな場所に逃げるなんて、隊長は絶対に予想しない……!
しかし――あのオニヒトデ隊長だ。
貧民街にだって追ってくるに違いない。
不安がにじんだヒロミの表情を読み取り、タカトは安心させるようにニコリと笑い、冗談めかして言った。
「さっきのオッサンから逃げてるんだったら、ツョッカー病院は鉄壁の要塞だよww」
どうやら、先ほどの会話からタカトも何かを察していたらしい。
だからこそ、義雄とヒロミの会話に割って入ったのだ。
しかも、転院の件はあえて伏せて。
「なんせwwwツョッカー病院にはモンペ(モンスターペーシェント)だけじゃなく、まじめな業者すら追い返す鬼の門番がいるからwww」
「鬼の門番?」
「そうwww金属バット持った黒鬼……いや黒ナースwww しかもゾンビやキョンシーまで徘徊しとりますwww 普通の人間ならマジで入ってこれないってwww」
まあ、全部真実なのだが――神民であるヒロミには、冗談なのか判別がつかない。
おおかた、目の間の少年が自分の不安を散らそうとして冗談を言っている……そう思った程度だった。
だが、目の前の少年はヒロミをまっすぐ見つめ、やけに胸を張っている。
つい先ほど、あのオニヒトデ隊長に臆することもなく、堂々とからかってみせた少年だ。
魔装騎兵の自分ですら身がすくむほどの殺気をまとった隊長を相手に、である。
その姿が記憶に残っているせいか、今のヒロミにはタカトが“白馬に乗った王子様”のように見えてしかたがなかった。
……まあ、実際は小汚くて貧弱なボーイなのだがwww
で……そんな空気を察したのか、横のビン子がチッと舌打ちした。
……それはまるで「恋のライバルが増えやがった」と言わんばかりに。
だが安心しろビン子!
作者が断言してやろう!
こんなタカトに惚れるアホウなんて滅多にいないってwww
(アホウで悪かったわね! byビン子)
ヒロミはひとつ深呼吸し、タカトの目をまっすぐ見た。
声は震えているのに、言葉だけははっきりしていた。
「……じゃあ今からすぐ行こうかwww。ツョッカー病院までお願いねwwwナイトさん」
笑顔とは裏腹に、車いすのブレーキを外す手は小刻みに震えていた。
それでも――ヒロミはついに、生き残るための行動を始めたのだった。




