『タマ』とは猫じゃあるまいし……
太陽が傾きかけた夕暮れ時。
ようやくたどり着いた家の前で、権蔵は肩に担いだ大袋を地面に降ろし、腰を大儀そうに叩いた。
「ふぅ……疲れたわい……」
そんな権蔵の様子を気遣うそぶりも見せず、その背後ではタカトがビン子に鼻くそをつけようと追いまわしていた。
「ビン子ちゃん! パス!」
「きゃぁぁぁあぁ! 汚い! そんなもの、こっちに向けないでよ!」
そんな様子を見る権蔵は、深いため息をついた。
――アイツらは……いったい何をしよるんじゃ……
先ほどまで小門の中で、あれほど大変な目にあったというのに。もう、それを忘れてはしゃいでおる。
――アホなのか……?
いや、もしかしたら、この二人にとっては些末な出来事だったのかもしれん。
「よっこらしょ……おい、タカト!」
権蔵は道端の石に腰を下ろすと、タカトを呼んだ。
「なんだよ、じいちゃん!」
タカトは指先についた鼻くそをズボンのすそでぬぐいながら、のそのそと歩み寄ってきた。
権蔵はタカトのズボンの裾をめくり、足の傷を確かめた。
傷跡こそ残っていたが、毒はすっかり引いている。
――しかし、あのスライムの解毒能力は凄まじいの……
今になってよく見れば、噛み傷は蛇だけでなく、百足やほかの生き物のものも混ざっていた。
おそらく、数種類の毒が同時に注ぎ込まれていたのだろう。
本来なら、それぞれの毒を別々に解毒していくのがセオリーというもの。
だが、あのスライムはそれらをまとめて、一気に中和してしまった。
つまり――あのスライムの解毒能力は、そこらの薬師など到底及ばぬほど高いということだ。
「だがまぁ……傷薬ぐらいは塗っとかんとな……」
権蔵はタカトのズボンを戻すと、またも「よっこらしょ」と腰を上げ、家の入口へと歩いていった。
……で、その背後では、もうタカトがビン子と遊んでいる。
右腕に巻きついていたスライムに気づいたらしく、それを引っぺがしてビン子と一緒につついているのだ。
ツン! ツン! ツン!
ぷるる~ん!
つつくたびにスライムはぷるる~んと揺れた。
ツン! ツン! ツン!
ぷるる~ん!
そのたび、ビン子の目がキラキラと輝く。
「きゃぁ! かわいい!」
だが、タカトはスライムを抱きかかえると、自分の背中に隠すようにしてビン子から遠ざけた。
「こいつ、俺のだからな!」
「ちょっとぐらいいいでしょ!」
「やだよぉおおお!」
「いいわよ! じゃあ今日の晩ご飯、タカトの分は作らないから!」
「いや……ちょ、それは……」
「なら、もう少し触らせてよ」
「……仕方ないなぁ。三十秒だけだぞ!」
そんなやり取りを横目に、権蔵が足を止めた。
そしてタカトに声をかける。
「タカト、そのスライムの体を、少し分けてくれんか」
一瞬、タカトは「やだよぉおおお!」と言いかけた。
だが、権蔵の真剣な目を見た瞬間、なぜだか断る気が失せてしまう。
とはいえ――これは自分の体ではなく、スライムの体だ。
しかも、自分と同じように“命”を持った生き物。
そんな存在の体を、ちぎって渡していいものだろうか。
「と……俺に言われてもね……」
タカトは言葉を濁しながら、地面に転がるスライムを見下ろした。
一瞬、スライムがギクッと身を震わせた。
その様子に、タカトは思わずつぶやく。
――もしかして、こいつ……俺たちの言葉を理解してるのか? まさかな……。
だいたい、スライムに耳や口なんてあるのだろうか。
タカトの本棚にある文献には、そんなこと一つも書かれていなかった。
(まあ、その本の大半はアイナちゃんの写真集と“おっぱい”に関する研究書なので、載っていないのも無理はないが)
タカトはまじまじとスライムを観察した。
だが、どこを見ても耳や目らしきものはない。
ただ、青い液体の中に、小さな金色の核が一つ――静かに泡を立てながら、ふわりと浮かんでいるだけだった。
タカトは顔を上げると、権蔵に不思議そうに尋ねた。
「じいちゃん、大体、こいつの体で何をするつもりなんだ?」
「いや、こいつの解毒能力はすごいからな。ちょっと“毒消し”でも作ろうかと思ってのう……」
その言葉を聞いたタカトの目が、さっきのビン子と同じようにキラキラと輝く。
「じいちゃん、薬も作れるのかよ!」
権蔵は少し照れくさそうに頭をかいた。
「エメラルダ様から手ほどきは受けたからな。一通りのことはできる」
――まあ、“手ほどき”といえば聞こえはいいが、実際はエメラルダ様の助手としてブラックバイトみたいに永遠とこき使われただけじゃが……間違いではない、うん……
(by 権蔵の心のつぶやき)
――仕方ないでしょ! ほかの人はまったく役に立たなかったんだから! 少しでも調合比率を間違えたら薬は毒になるのよ!?
(by どこからともなく飛んできたエメラルダのツッコミ)
そんなやり取りを他所に、タカトは興味津々で尋ねた。
「すげぇな……。ところで、その毒消しは何に使うんだ?」
「まぁ、ちょっとな……」
権蔵は言葉を濁し、視線をそらす。
タカトは怪訝そうに眉をひそめながら、足元のスライムをつついた。
「なぁ、タマ! じいちゃんがああ言ってるんだし、少しぐらいいいだろ!」
……って、おい! さっきまで“命がどうたらこうたら”って言ってたのはどこのどいつだよ!
まあ仕方ない。タカトにとって知的好奇心は命の道徳より上位にあるのだ。
それにしても――『タマ』とは安直すぎる。
猫じゃあるまいし……。
スライム改めタマは、地面にぴたりと固まったまま動かない。
いくらタマと言えども、自分の体をちぎるなんて、相当な覚悟がいるのだろう。
その様子を見て、タカトは思った。
――まぁ、そうだわな……。
そして、権蔵に肩をすくめて言う。
「じいちゃん、ダメだってよwww」
まあ、権蔵も半ば試しに言ってみただけのようで、
「そうか、なら他を考えてみるかの……」
と呟くと、入口の方へ歩き出した。
その瞬間、タマがピクリと動いた。
まるで、何かを決意したかのように。
そして、ぴょんぴょんと跳ねて権蔵の前に立ちふさがった。
びよーん!
スライムの体がまっすぐに伸びたかと思うと――プシュー、と空気が抜けるようにしぼんでいく。
あっという間に、タマは権蔵の足元で体をくぼませ、分裂をはじめていた。
ほどなくして、青い塊が二つ。
金色の核を宿した方はタカトのもとへ戻り、スルスルと右腕に巻きつくと、また静かに動かなくなった。
もう一方は、地面に取り残されたまま、微動だにしない。
権蔵はしゃがみ込み、そっとその塊をすくい上げた。
「……タマや、これをワシにくれるというのか」
しかし、タカトの腕に巻きついたタマは動かない。
おそらく、すでに眠ってしまったのだろう。
タカトはそんなタマを見て、権蔵に言った。
「それ、じいちゃんがもらっていいんじゃね?」
そう言うと、手を口に当てて大きなあくびをする。
「はわわぁぁぁ……ビン子、俺もちょっと寝る。なんか急に眠くなってきたwww」
眠そうに目をこするタカトを、ビン子は心配そうに見つめた。
けれど、口から出るはずの「疲れてんじゃないの」という言葉が出てこない。
胸の奥で何かがつかえているようで――もしそれを言葉にしてしまえば、タカトとの関係が壊れてしまいそうな気がしたのだ。
ビン子の視線を背に受けながら、タカトは自室へと入っていった。
部屋に入るなり、タカトはベッドに倒れ込んだ。
久しぶりに使う自分のベッドである。
しかし、どこか甘い香りがした。
――なんのにおいだろう……
妙に気持ちが落ち着く。
心地よい眠気に身を任せながら、タカトの意識はゆっくりと薄れていった。
そして、その霞の向こうに、一人の女の子の姿が見えた。
――あぁ……ビン子か……




