帰るぞ!
権蔵はスライムがタカトの解毒を続けているのを確認すると、ようやく息をついた。
安心したのも束の間、彼は再び表情を引き締め、周囲を見回しはじめた。
無数に飛び散る魔物の肉片。
焦げた匂いとともに、岩壁にはまだ温かい血がへばりついている。
その奥に――ぽっかりと大きな穴が口を開けていた。
権蔵は慎重に足を進める。
一歩踏み出すたびに、ミシ……ミシ……と岩肌がきしみ、ひびが走った。
まるで大地の上に薄い氷でもはっていのかと錯覚してしまう。
大穴の縁に立つと、そこも軽石のように脆く、今にも崩れ落ちそうだった。
権蔵は足先で亀裂をゴツゴツと蹴り、強度を確かめる。
すると、亀裂の先がボロボロと崩れ、粉塵を巻き上げながら深い闇の底へと落ちていった。
穴の奥には、三本のロープが垂れていた。
オオボラが投げ入れたもの――そして、それを伝ってクロダイショウたちが這い上がってきたのだ。
だが今や、底からは魔物の気配すら立ちのぼらない。
残されているのは、無惨に食い荒らされた骨と、静まり返った闇だけだった。
権蔵はその中に、一つの人型の白骨死体を見つけた。
しばし無言で見つめたのち、深く息を吸い込み、決意を固める。
そして一本のロープを握り、慎重に体を預けながら――
音もなく、大穴の底へと降りていった。
白骨死体は、骨だけとなりながらも、なぜか服はきれいなままだった。
砕かれることなく残った頭蓋骨の中に、おそらく脳はもうないだろう。
クロダイショウやオオヒャクテのような魔物が、穴という穴から入り込み、
生気を最も宿す脳を食い尽くしたに違いない。
権蔵は足先で死体をひっくり返した。
背中とは対照的に、腹部の服は大きく裂け、四肢の袖も荒々しく引きちぎられている。
「……これは、本当に魔物の仕業なのか?」
権蔵は頭蓋骨と腹部を見比べながら、うなった。
腹を裂き、手足をもぎ取るほどの力があるなら、頭蓋骨など容易に砕けるはずだ。
しかし、頭蓋骨は無傷のまま。
というのも、 魔物は魔人へ進化するため、生気に満ちた人間の心臓と脳を好むのだ。
とりわけ脳には、人の記憶がわずかに宿っている。
それを喰らえば、魔物は人の文化や感情の欠片を味わうことができるという。
――ならば、脳を残したままというのはおかしい。
この整いすぎた白骨は、ただ肉を食らったという感じではないか。
権蔵の胸に、説明のつかぬ違和感が、静かに沈んでいった。
彼は白骨死体がまとっている服をつまみ上げた。
上質な生地――おそらく、どこかの騎士に仕えていた兵士のものだろう。
しかも、ここは小門。
出入りできるのは、一般国民かそれ以下の身分に限られている。
それ以上の者が入ろうとしても、門そのものが侵入を拒むようにはじき返すのだ。
――であれば、こいつは奴隷兵か、一般兵のどちらかか……。
だが、権蔵に分かったのはそこまでだった。
――まあ、主の手掛かりくらいにはなるかもしれん……。
権蔵は小剣などの遺品を手に取って袋へ詰め込み、静かに穴をよじ登り始めた。
またもや、その足元からボロボロと小石が転がり落ちていく。
穴から這い上がった権蔵は、真っ先にタカトの様子を確かめに行った。
足の紫は先ほどよりかなり引いている。
──このままなら、毒は完全に抜けるじゃろう……
権蔵は肩の力を抜いて、ほっと息をついた。
タカトはと言えば、そんな切迫した状況をまるで自覚していない様子で、ビン子に甘えていた。
「ビン子ちゃん……タカトっち、蛇に足に噛まれて死んじゃいそうでちゅぅ〜」
一方、ビン子も事情を知らないようで、看護に身が入らない。
それどころか、タカトの口から出た「ミズイ」という名に、やけにムッとしているご様子で──
「ええい! うっとうしい! だったら黙ってなさいよ! というか、私がいっぺん殺してあげようか!」
ハリセンの先を、無造作にタカトの顔にぐりぐりと押し付けていた。
というかコレ……マジで憂さ晴らししてないですか?……ビン子ちゃん。
権蔵はそんな二人をよそに、淡々と作業を始めていた。
飛び散ったクロダイショウやオオヒャクテの肉塊を、手際よく大きな袋に押し込んでいく。
おそらく、家に持ち帰って融合加工の素材にするつもりなのだろう。
いや、もしかしたら今日の晩飯になるのかもしれない。
……そう、権蔵の家は貧乏なのだ。
こんなものでも再利用しなければ、生きてはいけない。
日々の糧を得るため、黙々と手を動かすその背中には、貧しさに慣れた者の静かな根気があった。
そんな権蔵に、タカトが突然、声をかけた。
「なあ、じいちゃん! そんなもんより、ココには金になるものがいっぱいあるぞ!」
権蔵は顔を上げ、鬱陶しげに眉をひそめた。
「なんじゃと?」
見ると、タカトの顔色はすっかり良くなっている。
――もう一安心じゃろうて。
そう思った矢先、そのタカトがニヤッと笑う。
まるで「そんな貧乏くさいことすんなよ」と言わんばかりの顔。
――なんか腹立つわ!
権蔵じゃなくても、誰だってそう思うに違いない。
そんな空気をまるで読まず、タカトは胸を張って壁を指さした。
「この周りの壁、ぜんぶ命の石なんだぜ! これ全部売ったら、俺たち大金持ちじゃね!」
権蔵があきれた顔で腰に手を当て、ぎしりと背を伸ばした。
「アホか! すでに生気が抜けた、ただの石じゃ!」
へっ……!?
タカトは呆然と壁を見つめ、そっと拳を当てた。
コン、と軽い音がして、壁の一部がぼろぼろと崩れ落ちる。
あの、光を放っていた命の石が――まるで砂のように砕けていく。
手のひらに残った粉が、風に消えていくのを見つめながら、タカトは小さく息を呑んだ。
もう、すべての生気は抜けきっていたのだ。
その足元で、スライムがぴょんと跳ね、タカトの腕にするりと巻きつく。
解毒の疲れが出たのか、すぐにとろんと眠り始めた。
タカトはその柔らかな感触を確かめるように、そっと指でなでた。
まるで、命の残り香を確かめるかのように。
そんな光景を見ていた権蔵が、短く声をかける。
「帰るぞ!」
「はい」
「しかし、ミズイの奴! あいつ、どこ行きやがったんや!」
タカトは立ち上がりながら、ぶつくさと文句を言いはじめた。
それは、わざとビン子に聞こえるように言っているようにも見える。
というのも――先ほどから、どうにもビン子の様子が明らかにおかしいのだ。
何かに腹を立てているような……そんな感じである。
――たぶん、腹でも減っているのだろう。
だが、このまま不機嫌のままだと、自分の飯がなくなりかねない。
そう、今日はビン子が飯当番なのだ。
いかにビン子の創作アート料理がマズかろうと、食わねば餓死してしまう。
――というか、もう一度、ミズイに会いたかったな……
荒神になりかけてまで自分を救ってくれたミズイに、ちゃんと礼を言いたかった。
だが、目を覚ますとミズイの姿はもうなかった。
唇に残る、あの柔らかい感触。
もう一度、会ってみたい。もう一度、話してみたいと切に願えども、どこにいるのかも分からない。
しかし、そんな想いをビン子に知られるわけにはいかなかった。
自分がビン子とミズイを天秤にかけているようで、申し訳なかったのだ。
だからこそ、気持ちを悟られまいと、わざと怒鳴り声を上げる。
「ミズイの奴! あれほど俺を守ってやるって言いながら、蛇に噛まれとるやないかい! 今度会ったら、必ずどついちゃる!」
三人は洞窟の出口へと歩き出した。
狭い洞穴を、権蔵を先頭に並んで進む。
ビン子は、前を歩くタカトの背中にそっと手を伸ばす。
けれど、その手は触れる前に止まった。
タカトの背中が、どうしようもなく遠くに感じられたのだ。
ほんの数歩の距離なのに――まるで別の世界にいるかのように。




