嫌っ……
……タ……
――ぅぅ……
……タカト……
――ううん……
「タカト! タカト!」
ぶちゅぅぅぅっっ!!
目を閉じたままのタカトの口が、タコのようにむにゅっと伸びた。
ビシッ! ビシッ!
「きゃっ! へ、変態っ!」
ハリセンが、ビン子の胸に抱かれたタコ口をうちわ代わりにパシパシとたたく。
タカトの唇はみるみる真っ赤に腫れ、なぜかビン子の頬も赤くなった。
痛みに顔をしかめながら、タカトがようやく目を開ける。
「あれ……? ビン子?」
きょろきょろとあたりを見回し、声を震わせた。
「……ミズイはどこ行った?」
その名を口にした瞬間、胸の奥に微かな熱が灯る。
夢の底で触れたぬくもりのようで、ミズイの甘い吐息がふっと蘇る。
確かに、あのとき――ミズイと自分の唇が絡み合っていたのだ。
タカトはそっと自分の唇に手を当てた。
タカトはそっと自分の唇に手を当てた。
温かく、柔らかい感触。
だが、二人の舌が絡み合うたびに、意識が遠のいていく。
光が流れ出すように、何かが自分の中から抜けていくのを感じた。
ミズイを求めるほど、記憶は淡くほどけ、名前も声も、何もかもが霧の中に沈んでいった。
そして最後に残ったのは、ひどく静かな闇と、唇に残るかすかな温もりだけだった。
「……あんなおばさん知らないわよ!」
ビン子はムッとしたように顔を背けた。
タカトが口元にそっと手を当てている。その仕草を見た瞬間、何があったのか、察してしまったのだ。
考えたくもない。けれど、頭の中では勝手に想像が膨らんでいく。
――まさか、ミズイと……?
胸の奥が、ちくりと痛む。
ミズイの名前をタカトの口から聞いただけで、何か大切なモノを奪われたような気がした。
自分でも理由はわからない。ただ――イヤでイヤでたまらなかった。
タカトが、あの女の存在を気にしていることが。
二人がそんなことを想っているとはつゆ知らず、権蔵はタカトを心配そうにのぞき込んだ。
「大丈夫か……」
「あ……じいちゃん……」
「無理をするな」
権蔵が手を差し伸べ、タカトはその手を取ってやっとのことで体を起こした。
まだ血の気は戻らず、息をするたび胸の奥がかすかに震えている。
「しかし、なにがあったんじゃ……」
権蔵の声が、思わず低く漏れた。
この大空洞に足を踏み入れたとき、目の前の光景に息をのんだ。
ここはもはや戦場ではない。――大虐殺の跡だ。
岩肌という岩肌に、クロダイショウやオオヒャクテの肉片が張りついている。
爆発の衝撃で吹き飛ばされたのだろう。骨や臓腑が岩に突き刺さり、紫色の血が滴り落ちていた。
切断面は焼け焦げ、体液と混じった煙がぬるい湿気とともに漂う。
足元の岩を踏むたび、ぬちゃり、と音がする。
それが肉の残骸だと気づき、権蔵は反射的に足を引いた。
視線を上げると、洞窟の天井から臓腑の一部がぶら下がり、冷たい風に揺れて頬をかすめた。
――これは、いったい、何が起きたんじゃ……。
言葉を失った権蔵は、血と肉の川の中にぽつんと倒れているタカトを見つけた。
周囲は死で満たされているのに、その中心だけが妙に静かだった。
まるで、そこだけ、何かが生まれ変わった後の空洞のように――。
「これは……お前の仕業じゃないよな……」
権蔵は確かめるようにタカトに尋ねた。
タカトは壁にもたれかかる。
背に触れた岩にひびが走り、粉がこぼれ落ちた。
命の石の輝きは失われ、まるで中身を抜かれた軽石のようだ。
タカトは首を振る。
「いや、俺じゃないよ。ミズイだ……」
「ミズイって、あのおばさんの神様でしょ!」
その名が出た瞬間、ビン子の声が鋭く跳ねた。
タカトの口から自然に出た“ミズイ”という名が、どうしようもなく胸をざわつかせる。
理屈じゃない――ただ、嫌だった。
その女の存在が、自分の知らない場所でタカトの中に残っていることが、たまらなく嫌だった。
そんなビン子の瞳が、微かに揺れている。
「なんじゃと。神様じゃと……」
驚いた権蔵は今一度周囲を見渡した。
この仕業が神の力だと言われれば、妙に納得してしまう。
しかし、周囲にはタカト以外の気配はどこにもなかった。
だが――神民を持たぬ神がこれほどの力を振るえば、確実に生気が枯渇する。
そして……
「これだけの力を使えば、確実に荒神になってしまうはずじゃがの……」
タカトは壁にもたれたまま、指先で自分の唇をそっとなぞった。
その仕草は、何かを確かめるようで――どこか、慈しみと名残を帯びていた。
「命の石の生気を持って行ったから……きっと、大丈夫なんだろう」
その声は静かだが、遠くを見つめるような響きがあった。
目の奥には、もう手の届かない誰かの影が揺れている。
ビン子はその視線を見つめ、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
息を吸うたび痛みが広がる。
タカトの心が、自分の知らない場所へ静かに離れていく気がしたのだ。
――嫌っ……。
ビン子は声にならない声で小さく叫んだ。
権蔵はタカトのそばに膝をついた。
「人魔症にはかかっていないようじゃが、毒には当てられておる。……じゃから、そのまま動くな」
そう言うや否や、権蔵はタカトのズボンの膝あたりを破り、傷口をのぞき込んだ。
あれだけのクロダイショウとオオヒャクテの群れに飛び込んだのだ。
噛まれていて当然なのだが、なによりも、人魔症に感染していないのは不幸中の幸いだった。
しかし――自分は頭がいいと信じて疑わないタカトは、権蔵の言葉を素直に受け取れなかった。
「いや……おれ、結構噛まれたし……人魔症になってるはずだよ」
「これを見てみい。陰性じゃ」
権蔵はため息をつき、人魔検査キットを胸に投げた。
「陽性だったら、お前が目覚める前に葬ってやったわ。それが親心じゃよ」
権蔵は口の端を上げ冗談めかしたが、その笑みの奥ににじむ安堵をビン子は見逃さなかった。
もしあの時……人魔検査キットの結果が陽性だったならば、権蔵は――たぶん、一目散に第七の騎士の門へと駆け込み、一之祐に治療を懇願していたに違いない。
それほどまでに、タカトのことを思っているのだ。
検査キットの陰性の表示を見た瞬間、権蔵の目尻からこぼれ落ちた一滴の涙が、それを何より雄弁に物語っていた。
「やっぱ俺って、知能低いのかな……」
「今頃わかったのか、このドアホが!」
吐き捨てるように言いながらも、傷口を見た権蔵の手がぴたりと止まった。
タカトの両足首から太ももにかけて、すでに黒く紫がかり、傷口はひどく化膿している。
血のにおいと腐臭が入り混じり、鼻腔を刺した。
――両足を……切り落とすか……。
ズボンの裾をつかむ権蔵の手が、かすかに震えた。
このままでは、毒が全身に回る。そうなれば、人魔症ではなくとも、毒だけで命を落とすだろう。
だが、この場で足を切り落とせば――命だけは助かる。
命は助かるが、タカトはもう、二度と走れなくなる。
その未来を思うと、権蔵の胸の奥に、苦い鉛のようなものが沈んでいった。
かつて、同じように毒にやられた仲間を自らの手で切り落としたことがある。
あのときの悲鳴が、今も耳に焼きついて離れない。
少年の体に刃を振るう――その記憶が、重くのしかかってきた。
――いや……まだ早い……いや、早くせねば死ぬ……。
権蔵は迷った。
震える手が、じりじりと腰のナタへと伸びていく。
指先が柄に触れた瞬間、その重みが、決断の重みそのもののように感じられた。
その時である。タカトの背から青きスライムが、ひょろりと這い出してきた。
どうやら、先ほどまで壁にもたれていたタカトの背に押し潰されていたようである。
スライムはぴょこぴょことタカトのそばを這い回ると、両足首にぴちゃりとくっついた。
「イヤン、冷たい!」
タカトは思わず素っ頓狂な声をあげる。
しかし、突然の出来事に権蔵は言葉を失っていた。
目の前のスライムの体内では、傷口から滲み出た黒い液体がゆらゆらと立ち上っていくのが見えたのだ。
「ちょっ! じいちゃん、これ取ってよ! マジで冷たいって!」
タカトが足をばたつかせる。
咄嗟にその足を押さえつける権蔵。
いつになく張り上げた声で叫ぶ。
「動くな! タカト!」
その一声で、タカトはぴたりと動きを止めた。
権蔵は固唾をのんで、スライムの動きをじっと見つめる。
すると、タカトの太ももに残っていた紫色が、ゆっくりと、しかし確実に消え始めたではないか。
「絶対に動くな! このスライムはお前の毒を解毒しておる!」
「イヤン、キモチィィィィイィイ!」
だが、すでにタカトはスライムのプルンプルンとした感触を楽しんでいるようで、恍惚とした声を漏らしよがっていたwww




