……あ! ワシ、神様だったんだ!
ミズイはただ、暗い洞窟を走り続けた。
後ろは見たくなかった。振り返れば、すべてが崩れ去る気がしたからだ。
タカトの唇の記憶が胸を焼く。
あのとき――彼はためらいも計算もなく、自分を守るためだけに口づけをしてくれた。
その熱が、涙といっしょに頬を伝って落ちていくのだ。
――どうして、どうしてこんなことになったんだ……
小門を封じ、あの町で命の石を握らせてもらったとき、地べたを這っていた自分の目に飛び込んできたのは眩しい光だった。
その光は、タカトが放つ優しい生気の輝き。決して忘れようとしても忘れられない光。
孤独だったミズイの日常に、ぽっと小さな温もりを灯してくれた。
アリューシャやマリアナと別れて以来、誰にも寄り添われることなく生きてきたミズイにとって、それは間違いなく救いだった。
「もう一度、あの光を見たい」──森の中で、孤独に膝を抱えて何度も泣いた。
隣に立ちたい。ただそれだけでいい……いや、欲を言えば、隣で一緒に笑いたい。ささやかな日常を分かち合いたい。
その願いが、いつしかミズイの孤独ですさんだ灰色の心を、ふと色づかせはじめていた。
思い返せば、アリューシャやマリアナと別れて以来、ずっと一人だった。
これから先も、命が尽きるまでずっと一人だろう――そう思っていた。
だけど!
あのキスで、あの願いは叶った!
これで誰とも交わらない生活とサヨナラできる。
これで、誰とも話す機会のない日々は終わりを告げる。
そして、笑いのない毎日が、笑顔であふれる輝かしい日々へと変わっていく。
――はずだった……
だが、そこにあったのはタカトの赤黒い瞳、アダムの光が宿ったその目だった。
――怖い。
その目を思い出すだけで、背筋に恐怖が走る。
自分をゴミでも見るかのように見下す冷たい視線。
――おそらく、あいつは愛という感情とは無縁の存在だろう。
そう思えるほどに、あの瞳の根底には恨み、怒り、憎しみといった負の感情が渦巻いていた。
それはまさしく光とは対極の存在――純然たる闇だ。
そんなものに自分が情愛を抱いていたのかと思うと、身震いがする。
――それなら、まだ自分ひとりで生きていた方がましだ。
やり場のない虚しさが、ミズイの胸を締めつける。
――孤独に戻るくらい……
それぐらい大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
だが、思い出されるのは木々の間の静けさと、誰とも交わらない日常。
おそらく、それが永遠に繰り返されるのだろう。
――寂しい……
タカトという強い光に憧れてしまった心は、孤独の闇に堪えきれない。
――もう一人は嫌だ。
ミズイの胸を、恐怖とは別の苦しみが締めつける。
――やっぱり嫌だ。やっぱり、タカトと共に歩きたい。タカトと共に笑っていたい。
だが、そんな思いをあの赤黒い目のアダムが拒絶するのだ……
――どうすれば……どうすればいい……
考え込むうちに、ミズイの走る足取りは次第に鈍り、ついに止まっていた。
呼吸だけが荒く胸を行き来する。
――ならば、ワシがやる。
ミズイはグッと握った拳をにらみつける。
――ワシが、あのアダムをタカトの中から追い出してやる!
いや、追い出せなくとも、アダムの存在を封じることができれば、タカトはあの優しいタカトのままでいられるはずなのだ。
だが、その拳は小刻みに震えていた。
――でも、どうやって……どうやってあのアダムを封じればいいのだ?
その方法が、ミズイにはまったく思い浮かばなかった。
そんな時だった。
洞穴の前方、暗闇の奥から――ガサリ……ガサリと小さな音が響いた。
耳を澄ますミズイ。どうやら足音だ。しかも、こちらへ近づいてきている。
その瞬間、ミズイはあの赤黒い目の恐怖を思い出した。
――ひぃいぃぃいぃ! もしかしてアダムが追ってきた?
つい先ほどまで、あれほど「タカトから追い出してやる」と息巻いていたというのに。
いざ、その恐怖が目前に迫っていると分かった瞬間、全身を激しい身震いが襲った。
――どうしよう! どうしよう!
ミズイはぴょんぴょんと飛び跳ねながら、必死に身の隠し方を探す。
「……あ! ワシ、神様だったんだ!」
そう、神であれば、この空間からスッと姿を消すことができる。
実際、ミズイはそうして外からあの大空洞へとやって来たのだ。
どうやらアダムへの恐怖でパニックになり、そんなことすら忘れていたらしい。
「……ということで、えい♡」
幼子の姿をしたミズイの体は、みるみる光の粒となって消えていった。
ガサリ……ガサリ……。
ついにミズイの姿が消えた洞穴の奥から、足音の主が現れた。
「おい、ビン子。タカトがいるのはこっちで間違うとらんのじゃろうな」
それは権蔵であった。
少し遅れて、ビン子もまた姿を現す。
「……多分。だって、私、じいちゃんを呼びに行くのに必死だったから……どこを通ってきたかなんて、覚えてないよ……」
うなだれるビン子を見て、権蔵ははぁとため息をついた。
「だから、あれほど小門の中には入るなと言ったじゃろうが……」
「だって……タカトとオオボラが……」
「分かっとる! 大体、こういう問題を起こすのは、あのどアホのせいじゃからな!」
だが洞穴の中は複雑に入り組んでいる。
このままやみくもに進めば、自分たちも遭難しかねない。
――さてさて、どうしたものか……。
権蔵は頭を悩ませた。
ビン子の話によれば、オオボラも一緒に小門に入ったという。
オオボラは、あのガンエンがべた褒めする若者である。
タカトだけならいざ知らず、オオボラが一緒となれば、何か道順の手掛かりを残しているかもしれない。
権蔵は松明を掲げ、あたりを照らした。
ふと、岩肌に白い筋が見える。
よくよく目を凝らすと、それは矢印だった。岩を石で削った跡である。
道が分かれるたびに、進む方向を矢印で指し示しているようだ。
――なるほど、これをたどっていけばいいわけじゃな。
権蔵は改めてオオボラの機転の良さに感心する。
そして、暗闇に一筋の道が見えたような気がした。




