万気吸収……
ミズイは安堵の表情をタカトへと向けた。
「タカト……無事だったの……」
だが、その赤き瞳を見た瞬間、言葉は喉で凍りつき、背筋を氷柱が這うような感覚に襲われた。
寒気……? いや、そんな生易しいものではない。
それは恐怖――いや、死をも凌駕する、絶対的な畏怖だった。
自然と体は小刻みに震えだし、引きつる顔からは、もはや悲鳴すら洩れない。
カタカタと震える膝の上で、タカトがゆっくりと頭をもたげる。
「ふん……下種が! ワレの入れ物に手を出そうとは、いい度胸だ!」
おもむろに立ち上がったその姿が、なおもがき苦しむ百牙蛇蟲へと片手を突き出す。
その仕草はあまりに軽く、まるで塵を払うかのようだった。
次の瞬間、洞窟そのものを灼き尽くすかのごとき閃光が奔った。
空気が悲鳴をあげ、世界そのものが赤に塗り潰される。
「絶界覇衝・紅蓮劫雷葬」
無数の赤き光槍が、一斉に雷鳴をまとって百牙蛇蟲へと殺到した。
刹那――巨体は串刺しとなり、断末魔をあげる暇すらなく、肉も骨も一瞬で粉砕されていた。
轟音よりも早く、巨躯は「爆ぜる」。
音も光も追いつけぬほどの速さで、血肉と鱗と牙が霧散し、洞窟全域を真紅に染め上げて。
一撃。
それだけで、この大洞穴を支配していた怪物は、跡形すら残さず消し飛んでいたのだ。
近くでその光景を目の当たりにした幼女のミズイには、理解が追いつかない。
ただ一つ、心の底から分かることがある。
――こいつに近づいてはいけない。
本能がそう警鐘を鳴らしていた。
――今すぐ、この場から逃げろ……!
しかし幼き腰は抜け、動かない。
それでも必死に足を引きずり、尻を擦りながら後ずさる。
――でなければ……。
『死ぬ!』
――いや、死ぬ。そんな一言では到底足りない。
終わりなき苦痛、抜け出せぬ闇、永遠の地獄がぐるぐると渦を巻くようにミズイを覆い、ひりひりと肌を焼く悪夢の気配が押し寄せていた。
その時、赤黒く光るタカトの双眸が、ぬるりとミズイに向けられた。
氷のように冷たく、虫けらを見下すかのようなその視線に、幼い体は一層さらに震え出す。
「ひいっ……」
涙がこぼれる。
必死に後ずさりするが、足が言うことをきかない。
タカトの赤き目はゆっくり、じわり、じわりと迫ってくる。
一歩、また一歩――その足音は洞窟の奥から湧く悪鬼の響きのようだった。
生きた心地などしない。
「ゆるじで……」
手を振り払い、目をぎゅっと閉じ、これが夢であってくれと祈るしかなかった。
……無音。
足音が消えた。
――やっぱり夢だったの……?
かすかな希望にすがり、ミズイは恐る恐る目を開けた。
そこにあったのは、至近距離で妖しく光る赤い瞳。
膝まづくタカトの生暖かい吐息が頬に触れる。
「ひぃぃいいいいい!」
全身が跳ね、羞恥と恐怖が混じった感覚が下腹を襲う。
地面に滲み広がる温かい液体。
ジョボジョボジョボ……
体温で温められていたアンモニア臭が瞬く間に立ち上ると、現実を突きつけるように鼻を刺した。
「……お前、臭いな」
タカト――いや、もはや別の何かが、薄ら笑いを浮かべる。
恐怖と羞恥が混じり合い、頬は熱病のように真っ赤に染まる。
胸の奥で何かが軋み、喉の奥で叫びが溶ける。
――さっきまで、自分を救うために身を投げ出してくれたタカトだったのに。
――返して……私のタカトを……!
愛の炎がまだ胸の底で消えずにくすぶっている。
けれど、その炎に灰をかけるように、むなしさと憎悪が入り交じり、心をかき乱す。
あの強い光に惹かれたのは自分だというのに、いま目の前にいるのは、自分を押し潰すほどの恐怖をまとった“何か”だ。
怒りも、悔しさも、憎しみも――すべてが胸の中で渦を巻くのに、言葉はひとつも声にならない。
喉がきゅっと塞がれ、息だけがひゅうひゅうと漏れる。
手足は氷のように強ばり、動かそうとするほど震えがひどくなる。
――どうして……動けない……?
――どうして、声を上げられない……?
愛していた相手が怪物のように変わり果ててもなお、助けたい気持ちだけが心の奥で叫んでいる。
けれど、恐怖がその声を押しつぶし、羞恥がそれを塗り潰し、無力感が鎖のように体を締め上げる。
その結果、ミズイはただ、目の前の赤い瞳を見返すことしかできなかった。
頬を伝う涙が、悔しさか恐怖か、自分でも分からないまま。
日ごろの道具作りによって油が染みついた指が、幼女の顎をぐいと掴み上げる。
無理やり金の瞳を覗き込み、しばし値踏みするように沈黙した。
そして――。
「……ふん。やはり、お前はただの残りカスか」
冷え切った声音とともに、その小さな顎をまるで汚物でも投げ捨てるかのように振り払った。
ミズイの体は地面に崩れ落ち、口惜しさも羞恥も、喉を詰まらせたまま声にならない。
その時、タカトの背後から、うめくような声が届いた。
「う……う……アダム様……ひどいっシコ……」
それは百牙蛇蟲という鎧を打ち砕かれた猿蜘蛛の姿だった。
紅蓮劫雷葬の一撃により、八本の足のほとんどはもぎ取られ、破れた腹からは臓物がだらりと零れ落ちている。
「われら“6つ子忍者戦隊ガッチャマンボゥ”は、かつて大門が開いたその時よりお仕えしてきたシコ!」
猿蜘蛛は胸に溜め込んだ怨嗟を吐き散らすかのように叫ぶ。
「アダム様のために兄弟たちは皆、死んだシコォオオオオ! それなのに、この仕打ちはあまりにひどいシコォオオオオ!」
アダムと呼ばれた男は振り返りもせずに立ち上がり、そのまま猿蜘蛛の前へと歩み寄った。
「ふん、雑魚が……どの口でほざく? この口か!」
次の瞬間、転がる猿蜘蛛の口を容赦なく踏み潰す。
――グシャッ!
「ワレの入れ物に手を出したのはウヌのほうぞ」
悲鳴とも嗚咽ともつかぬ音が、潰れた口からかすかに漏れた。
「そ……それは……アダム様の気配があまりにも小さすぎてシコ……仕方なかったシコ……!」
必死の命乞い。しかし、アダムはさらに足に力を込め、口腔へとぐりぐりとねじ込んでいく。
「オゲ……」
「まあよい……だが言ったはずだ。力こそ正義! 力こそすべて! 弱者は存在すら許されぬ、ただのゴミだとな! すなわち、ワレに敗れたウヌはゴミ――それ以下よ!」
アダムは頭にめり込ませた足を蹴り上げた。猿蜘蛛の巨体が宙に舞う。
「消えろ! ゴミクズが!」
その瞬間、アダムが手をかざすと無数の赤槍が宙に浮かぶ巨体を貫いた。
――ボンッ!
肉片すら残さず、猿蜘蛛は血煙へと散り、消え去った。
その様子を眺め、アダムは高らかに嗤う。
「わははははは!」
そして、大空洞を取り囲むように輝くものへと目を向けた。
「それに比べ、これを見よ」
闇を淡く照らす無数の煌めき。
それはアリューシャの生気を宿した命の石――まるで星々が降り注いで宇宙を形作ったかのように、蒼白く光を放っていた。
「ああ……これぞ、我が娘の結晶……。こんなところに隠されていたか……」
アダムの赤い瞳に狂気じみた喜色が宿り、唇が歪んで嗤いが漏れる。
だが次の瞬間、その瞳が再びミズイへと向いた。
今度は、恨みを凝縮したかのような、より深い恐怖を孕んだ目で。
「……ここを隠していたのは、ウヌの力か」
確かめるように、アダムはじりじりと近づいてくる。
――殺される! 今度こそ確実に……!
ミズイは直感した。
アダムといえば原初の神。この世界が始まったのちに生まれた自分とは月とスッポン――いや、月とウィルスほどの差。
そんな相手に「神の盾」が通じるはずがない。格が違いすぎる。
しかも、アダムは魔人世界の創造主。その住人である魔物たちはアダムの子供のような存在だ。
それなのに、さきほど猿蜘蛛を何の躊躇もなく葬った。無慈悲に……。
ならば、自分を殺すことなど、ためらう理由があるはずもない。
その瞬間、ミズイは震える足に力を込め、一心不乱に逃げ出した。
「まぁよい……われもまだ生気が足りぬ身……」
それを見送るアダム。
「これを吸収すれば、ワレの復活はさらに早まる……イブ、必ずお前を迎えに行くぞ……」
そして、両腕を大きく広げると、命の石の輝きへ抱擁するかのように向けた。
「――万気吸収」
低く呟いたその声は、洞窟を満たす星々の輝きさえ呑み込み、永遠に反響する呪詛のようであった。




