ア……アイナちゃんだよね……
アイナは手を壁につき体を支えるかのように歩いていた。
その足取りはいまだにフラフラ。
いや、フラフラと言うより、まるで生気を全く感じられなかった。
力なくうなだれる頭が歩くたびに左右に揺れ動きいびつな方向に傾いている。
そんな頭から垂れる前髪で隠れた表情はハッキリと伺う事ができはしない。
それどころか、揺れる前髪の隙間からブツブツと言葉が漏れ落ちていた。
「殺せ……殺せ……殺せ……」
タカトは本能的に後ずさった。
――オイオイ……アイナちゃん大丈夫かよ……
どう控えめに見てもコンサートの疲れで変になったのではないのは一目瞭然だ。
床をこするアイナの足音が、ゆっくりと部屋に入ってくる。
アイナが一歩踏み出すたびに、震えるタカトの足が一歩後ずさる。
背後へと下がるタカトは気づいた。
自分の後ろには膝まづくモーブがいたことに。
先ほどから、自分はどれだけの距離を後ずさったのだろう。
そんな感覚すらも薄れてしまうほどの恐怖に包まれていた。
タカトはモーブとの距離を確認するかのように背後をちらりと伺った。
――オイオイ……このおっさん、本当にボケたのかよ!
またもや、タカトは恐怖に包まれた。
というのも、背後のモーブはいまだ動く気配が全くなかったのである。
先ほどから床をこするアイナの足音は、はっきりと聞こえているというのにである。
いや、今はボケたオッサンのことなど、どうでもいい!
アイナちゃんが正気に戻ってくれればそれでいいのだ!
タカトは、アイナに顔を戻すと咄嗟に声をかけた。
「ア……」
だが、タカトの言葉はそこで詰まってしまった。
というのも、タカトの目の前でアイナが顔を起こし薄気味悪く笑っていたのである。
――ひぃぃぃ!
そんな傾いたアイナの表情に異様なものがひかり輝いていた。
それはアイナの瞳。
さきほどまで黒くきれいだったはずの瞳が、緑色が渦巻く不気味な色を放っていたのだ。
緑の瞳は魔人の証。
どういう事なんだ……
確かにアイナは第三世代。
その体に魔物の組織を融合されている。
だが、安全性は確認されていたはず……
はずだよな……
しかし、この緑の目……
明らかに魔物……
もしかしたら体内に融合された魔物の組織がアイナの体を乗っ取ったとでもいうのか?
タカトは勇気をだして声を絞りだ出す。
「ア……アイナちゃんだよね……」
だが、アイナは止まらない。
ケケケケケ……
気味の悪い笑い声ととともに力ない体がまるで操り人形のように上下することなくゆっくりと前に進んでくる。
そうか!
俺の姿が見えてないんだ!
そう、タカトはいま、ディアボロマントをかぶって姿が見えないのであった。
自分の姿を見れば、アイナは正気に戻ってくれるかもしれない。
何の根拠もない自信。
だが、今のタカトにとってそれぐらいしか思いつかなかったのである。
タカトがまさに、身を包むディアボロマントを取ろうとした時の事であった。
「死ねぇぇぇぇぇぇエ!」
目の前のアイナの細い体がきれいな弧を描き反り返ったかと思うと、胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。
――何をする気なんだ? アイナちゃん?
突然のアイナの変化にタカトは全く反応できない。
仕方ない、仕方ないのだ。
ゾンビの様に力なく動いていたものが、突然、大声をあげて力強く反り返ったのだ。
タカトは動くことすらできずに立ち尽くして当然である。
そんなタカトはディアボロマントを外すことすら完全に忘れていた……
だが、呆然とするタカトは次の瞬間、真横の壁へと放り出されたのだ。
なにか背後からとてつもない大きな力によって襟首をつかまれたかと思うと、いきなり投げ飛ばされたのである。
「へっ?」
「下がれ! 坊主っ!」
モーブのごっつい手が、何もないと思われていた空間をギュッと握りしめた。
そして、タカトがいた場所と己が体を入れ替えるかのようにアイナの前に躍り出る。
その反動で大きく振りぬかれたモーブの腕。
その腕の先では、壁にしたたかに打ち付けられたタカトが床の上にしりもちをついていた。
「いてぇえ! 何しやがんだ!」
だがその刹那、タカトの耳をアイナの声、いや大音声が襲った。
耳の奥をドカンと殴るような重い衝撃波。
タカトはとっさに耳をふさぎうずくまる。
タカトの全身の皮膚という皮膚が大きく波打った。
それどころか、耳をふさいだ指の間すらからも無理やり押し入ってくるアイナの声。
アイナの衝撃波がタカトの脳を揺さぶり続けた。
――やめてくれ! アイナちゃん!
どがっ!
タカトがうずくまる壁とは違う壁から何かがぶつかる、いや、めり込むような音がした。
そこは、キーストーンが置かれていた台座の奥にある壁。
丁度、アイナの真正面の壁である。
耳を押さえうずくまっていたタカトはうっすらと目を開けると、音がした壁をちらりと伺った。
!?
大きく見開かれるタカトの目。
すでにアイナの声は消え去って、静かなる部屋に戻っていた。
それはまるで清浄なる教会のようにも思えた。
そんな正面の壁には打ち付けられたモーブの姿。
まるで、十字架に貼り付けられたキリストの様に、全身から血を噴き出しながら力なくうなだれていた。
モーブの背後の壁には打ち付けられた衝撃で無数にヒビが入っている。
そんなヒビを伝い落ちていく赤き血が無数の滝となり、床の上で大きく広がりつづけていた。
目を疑うタカト。
訳が分からない……
タカトの震える手がゆっくりと耳から離れていく。
もし、モーブが自分を放り投げてくれなかったら、あの壁にめり込んでいたのは自分だったかもしれないのだ。
いかにタカトが身に着けているディアボロマントが光波、音波を対角線上に吐き出すと言えども、あの衝撃波のエネルギーは吸収しきれない。
おそらく、マントは暴発。
そして、その衝撃で焼け焦げたタカトは壁に一直線。
騎士のモーブですら血まみれなのだ。
これがタカトであれば、即死は間違いなかっただろう。
だが、なぜ、騎士であるモーブが血まみれなのだ?
騎士は不老不死。
しかも、絶対防御である騎士の盾があるはずなのだ。
もしかして、モーブは騎士でないのか?
いや、そんなことはない。モーブはれっきとした騎士なのだ。
ならなぜ、騎士の盾が発動してないのだ?
今、モーブがいるのは第七駐屯地。すなわち第七のフィールドなのである。
そう、第八の騎士であるモーブにとってはフィールド外。
如何に騎士と言えども、自分のフィールド外では不死性が失われるのである。
当然、騎士の盾も発動しないのだ。
すなわち、今、タカトの目の前で血まみれになっているモーブはまさに死にかけの状態なのである。
「おっちゃん!」
ディアボロマントを脱ぐことすら忘れているタカトはモーブの元に駆け寄った。
「そこに誰かいるのか……? もしかしてハエか?」
血まみれの口でモーブは、まるで心配をかけまいと懸命にうすら笑いを浮かべていた。
「なんで俺を助けたんだ!」
モーブはこれでも騎士である。
いかに不死性が失われている状態であったとしても、アイナの直線的な攻撃などかわすことは容易だった。
だが、先ほどから背後には何やら少年の気配がハエの様にずっと付きまとっていたのだ。
モーブはとっさに悟った。
おそらく、あの女はその少年の気配に全く気づいていない。
なら、あの女から発せられた攻撃は、そのまま少年を襲うことになるだろう。
自分がもう少し早く気づいていれば……
少々……過去の思い出に浸りすぎたか……
そんな思いがモーブにタカトを投げ飛ばさせたのである。
だが、その結果がこれである。
タカトの身代わりになったモーブはアイナの衝撃波の直撃をうけ、今や虫の息なのだ。
力なく床の上に落ちるモーブ。
そんな血まみれの体を、タカトの貧弱な腕が支えた。
本来、ポトリと落ちる血が、何もない空間に一筋の軌跡を描いていく。
ディアボロマントの表面を流れるモーブの血の温かさが、タカトへと伝わった。
壁にもたれるモーブはカラ元気を出す。
「ワシも少々ヤキが回ったな……」
だが、その体は自ら立ち上がることすらできないほどにボロボロ。
それは一見したタカトにもすぐに分かった。




