透き通る世界
そして今、その災厄が再び降り注ごうとしている。
ビン子の手によってばらまかれた無数のゲジゲジが、真音子の顔めがけて――!
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
これで正気を保てというほうが無理なこと。
真音子の意識が弾け飛んだ!
いや、飛んだのではなく……目が座った。
――ああ……これが透き通る世界、というやつか……
飛来する虫の群れが、はっきりと、スローで見える。
かつて、竈門炭十郎が言っていた――
『頭の中が透明になると“透き通る世界”が見え始める。しかしこれは、力の限り踠いて苦しんだからこそ届いた領域』
真音子もまた、十分に踠き苦しんできた。
夜な夜な襲ってくる悪夢。
朝になれば、広がるおねしょの跡。
何度も何度も克服しようと、必死に頑張ってきた。
炭治郎と同等、いや、それ以上に努力してきたという自負がある。
そのかいあってか――
周囲を取り囲む多足生物の気配すら、細やかに感じ取れる。
木々に潜む蜘蛛。
石の下に潜むムカデまでも。
「くらえっ! 全方位対応型・自動ゲジ掃討戦術兵器! 発射ぁぁぁ!」
真音子がその場で勢いよく回転!
閃光のように髪が舞い、無数のクナイが弾丸のごとく四方へ炸裂する。
ひゅんッ、ひゅんッ、ひゅんッ!
飛来する多足どもが次々と撃ち抜かれ、木に、岩に、イサクの紙袋に――串刺しにされた。
一瞬で災厄を殲滅する兵器。
それが、今の真音子だった。
対象を認識するよりも先に、手が動いた。
世界は透け、音は消える。
残るのは己の動き――細胞の震えさえも感じ取れるほど鮮明に。
その研ぎ澄まされた感覚が導くのは、ただひとつ。撃ち滅ぼすべき災厄。
真音子は無心にクナイを振り続けていた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
悲痛な悲鳴が洞穴に響き渡る。
小門の壁には無数のクナイが突き刺さっていた。
その影からにゅるりと伸びたのは、大人の足ほどもある蜘蛛の足。
無数の毛が生え、先端にはいくつものクナイが深々と刺さっている。
足は激痛にのたうち、暗闇の中でうねるように振り回される。
やがて突き刺さるクナイは振りほどかれ、足は闇の奥へと引き込まれた。
奥からぎらりと光る緑の眼。
苦虫をつぶしたような猿の顔。
出口へ辿り着いた、ビン子を追う魔物だ。
だが、踏み出そうとしたその瞬間、外から襲いかかる無数のクナイの雨。
――危ない……シコ……
緑の眼は忌々しそうに、いまだクナイを投げ続ける真音子をにらむ。
――今は……まだ、その時ではない……シコ……
ふと気づく。まだあの大空洞には、人間が一人残っていたことを。
――ならば、あの危なっかしい女がいなくなるまでの間、先にその男を……シコ……
魔物の眼が、暗闇にすっと消える。
ガサガサと音を立て、元居た奥の大空洞へと戻っていったのだった。
魔物がそこにいたことなど、真音子はつゆ知らず。
というか、無心にクナイを投げ続けていた。
だが……真音子はひとつの事実を忘れていた。
「ひぃぃいいいいいいいいい!」
投げても投げても、頭の上を這いずるゲジゲジにはクナイが全く届かない。
理屈は単純だ。投げられたクナイは運動量と角度をもとに初速を保ち、飛翔軌道を描く。だが対象が頭上、すなわちゼロ距離に存在する場合、弾道は成立しない。つまり――投擲は完全に無力。体勢、反応速度、摩擦、重力、角度……あらゆる条件を無視しても結果は同じ。クナイはただ空を切り、虚しく消えるだけだった。
真音子は必死だった。
頭上を這い回る無数のゲジゲジから逃れようと、無我夢中でクナイを振り回す。
恐怖に支配された視界は歪み、心臓は乱打の太鼓のように鳴り、呼吸は荒く、喉は焼けるように痛む。
全身の筋肉は痙攣し、もう自分の手足すら自分のものではないように震えていた。
――届かない。
――逃げられない。
――ならば……。
ひとつの歪んだ答えが、脳裏をかすめた。
逃げられぬのなら、刺せばいい。
突き刺して、突き刺して、頭をクナイの針山に変えてしまえばいい。
――そうだ、それなら逃げられる!
ああ、ゲジゲジを突き刺せばいいんだ!
こうして、こうして……ブスッ、ブスッ、ブスッ!と
「あはははははははははは!」
限界を超えた真音子の理性は、音を立てて砕け散った。
透き通る世界は一気に色を失い、絶望と狂気の赤に染まった。
「危ない! やめてください、お嬢!」
頭にクナイを突き刺そうとする真音子の腕を、イサクが寸前で押さえ込む。
マジでこのままでは自分を刺しかねない。
見かねたイサクは、真音子の頭を這っていたゲジゲジをひょいと摘み上げた。
「お嬢、取れましたよ! もう安心してください」
そう言いながら、摘んだゲジゲジをわざと真音子の顔の目の前に突きつける。
目が点になる真音子。
再び、時が止まる。
恐怖と緊張で積み上げていた気力の壁が、音もなく崩れ去った。
視界はにじみ、全ての色がぐしゃりと混じり合って消えていく。
――もう、無理。
――もう、こらえられない。
次の瞬間、真音子の顔は子供のように歪んだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫を上げると、彼女は脱兎のごとく森の奥へ駆け出した。
涙と鼻水をぐちゃぐちゃに垂らしながら、ただひたすら母の名を叫ぶ。
「おかあさまぁぁぁぁぁぁ! たすけてぇぇぇぇ!」
イサクはやれやれといった顔で肩をすくめ、すぐさま真音子の背を追いかける。
「お嬢! 座久夜の姐さんは今、医療の国ですぜ!」
って……そんな情報は今、必要ないだろ!
一方そのころ。
森の中でタカトたちを探していた権蔵の耳にも、真音子の悲鳴とイサクの声は届いていた。
「まったく……何を騒いどるんじゃ」
やれやれと頭をかきながら、権蔵は声がした方向、すなわち小門のほうへと足を向けた。




