それは……災厄……
真音子とイサクは木から降りたものの、小門の前でピタリと足が止まった。
もう目の前なのに、一歩も動けない。
「だったら……お嬢……なんで」
「ダメなもんは、ダメなんだよ!」
鬼の形相でイサクをにらみつける真音子。
だが、その口角はわずかに震えていた。
というのも――洞穴の入り口から、さきほど無数のコウモリが飛び立っていったのだ。
あの中は、コウモリの巣。
――もしかして……
紙袋の中で、イサクが肩をプルプル震わせる。笑いをこらえているのだ。
なにしろ、普段の真音子ときたら――。
借金取りの現場では「金返さんかいコラァァ!!」と机を蹴り飛ばし、相手をビビらせる迫力満点のレディース総長。
だが、その最強オーラも“あの弱点”を前にした瞬間に、粉々に砕け散る。
「アイツがいるから絶対に……むりむりむりむりぃっ!!」
さっきまでのドスの効いた声はどこへやら、
猫耳カチューシャつけたぶりっ子女子高生みたいな悲鳴を上げ、両手をバタバタ。
威圧感MAXの総長モードから、秒で「文化祭の出し物レベル」に転落するその様は、イサクにとってはもはやお笑いショーであった。
――お嬢wwwそうですかwwwそうですかwww
洞穴の中には、腐臭を放つほどに積み上がったコウモリの糞が山を成していた。
その黒々とした塊の上に群がるのは――無数の虫。
白く細長い幼虫が蠢き、甲虫の外殻がカサカサと擦れ合う。翅音と共に飛び立った虫が頬に触れ、ざらりとした脚が這い回るたびに、背筋に冷たい悪寒が走る。
暗闇に響くのは、羽音と、何かを食い破る湿った咀嚼音。
ひとたび目にすれば、ウジャウジャとしたその生き物の洪水に、生きた心地など抱けるはずもない。
だが、ビン子は眉一つ動かさず、洞穴を突き進んでいた。
その視線の先を導くのは――『美女の香りにむせカエル』の鳴き声。
「げろ! げろ! げろ!」
洞穴の入り口から流れ込む、権蔵の鼻にこびりついたような濃密なおやじ臭。
それを嗅ぎ分けたカエルは、群がる虫の気配など意にも介さず、次々と分かれ道を鳴き示していくのだった。
それに従って、ビン子は懸命に走った。
分かれ道の前で立ち止まることもなく、ただ声の導くままに。
だが、洞穴の岩肌は濡れて滑りやすい。
幾度となく足を取られ、そのたびに転んでは、地面に積み重なったコウモリの糞に体を打ちつける。
黒く汚れた衣が重たく肌にまとわりつく。そこに、糞の間から湧いた虫たちが這い上がってくる。
――これは蝶! 蝶なのよ! 蝶に決まってる!
暗闇に紛れて姿は見えない。だからこそ、そう思い込むしかない。
だがその闇は同時に、見ずにすむものまで覆い隠していた。
岩陰に潜む、凶悪な災厄の存在を。
それは、オオボラの後を執拗に追いすがる魔物だった。
下半身は無数の脚で這いずり、地面を這う。だがその上に、猿のような胴体と顔が乗っていた。
顔は理性を失ったかのように歪み、涎を垂らし、歯をカチカチと鳴らす。
湿った嗤いが喉の奥から漏れ、冷たい眼が暗闇を切り裂いた。
小門を越えて聖人世界へ這い出そうと幾度も試みたが、珍毛によって阻まれてきた憎悪の塊。
――許さぬ……必ず、いつか……シコ!
緑に濁った眼が、はぁはぁと息を切らせ駆けるビン子を捉えた瞬間、猿顔がにたりと歪み、無数の脚がぞわりと音を立てて動き出す。
暗闇の奥から忍び寄るその姿は、もはやただの捕食者ではない。
それは執念そのもの、呪いそのもの――災厄の具現だった。
――雌……そうだ、雌だ……シコ! シコ!
喉の奥から漏れる声は低く湿り、涎は糸を引いて滴り落ちる。
その執着は、単なる捕食本能を超えていた。
暗闇そのものが「欲望」と「怨念」を孕み、ビン子へと迫る。
珍毛の触手は雌を襲わない。しかし、体臭をなぞるかのように伸びる忌まわしい触手。
だが今、その気配は皆無。
バタン、と転ぶ音にも反応せず、魔物は岩陰からにじり出す。
――まずは、あの雌から食らうか……シコ!
視線が、ビン子に絡みついた。
だが、そんなことを露ほども知らないビン子は、必死に走る。
歯を食いしばり、何度転んでも立ち上がり、ただ出口だけを目指して。
そして、暗闇の先に、かすかな光が差し込んだ。
――出口だ!
胸の奥に残っていた力を振り絞り、ビン子は暗闇から一気に駆け抜ける。
眩い光が、闇に慣れた目を容赦なく焼いた。
世界が真っ白に弾け、何も見えないまま足が空を切る。
そのまま体は、がけ下へゴロゴロと転がり落ちた。
やがて地面に叩きつけられ、うつぶせに倒れ込む。
ハァ、ハァ、と荒い息がもれる。
肺は焼けつくように苦しく、喉は砂をかまされたように乾いていた。
――やっと……外に……。
光の下で、ビン子は必死に大きく息を吸い込んだ。
そんなビン子の頭のてっぺんから、ひとつの影がつつつ……と下りてきた。
前髪をかすめ、そのまま視界の端にすべり込む。
――な、なに?
虫は地面に落ちると、カサリと音を立てて歩き出した。
ビン子の目は、その小さな背中に釘付けになる。
黒茶色のつやめいた外骨格……
異様に速い、あの切れ味あるステップ……
あれ? なんか、台所で見たことあるような……。
虫もまた、こちらの視線に気づいたのか、動きをピタリと止めた。
触角をピクピクと揺らし――おもむろに振り返る。
視線が絡み合う。
……目と目が通じ合ったような気がした。
その瞬間、ビン子の目が点になった。
――まさか……こいつは……!
脳裏に台所の惨劇がフラッシュバックする。
――こいつは……ゴ、ゴゴゴ……ゴキブリィィィッ!!
ということは――さっきから全身をモゾモゾしていたやつは……!
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
分かっていた。心のどこかで、とっくに分かっていた。
アレが蝶なんかじゃないってことぐらい……!
暗闇では「これは蝶!」と自分を騙せても、白日の下じゃ無理!
現実はゴキブリ! 体の細胞一つ残らずが「きょ絶」の悲鳴をあげる!
ビン子はバネ仕掛けのように飛び上がり、全力でバシバシッと虫をはたき飛ばした!
パシーン! パシーン! まるで盆踊りの乱舞!
飛んでいくゴキ、はじかれるゴキ、服のすき間からニュルッと出てくるゴキ!
「ひぃぃぃぃっ!! やめてぇぇぇぇぇっ!!」
だがまだ、服の中にも潜んでいる気配……!
背中を這うぞわぞわ感! 袖口からカサカサ音! 胸元でモゾモゾッ!?
「ぎゃああああああああっっ!! じいちゃぁぁぁん!! 助けてぇぇぇぇぇ!!!」
パニック全開のビン子は、体中をバシバシ叩きながら、虫と一緒に絶叫をばらまき――そのまま森の奥へ全速力で駆け込んでいった。
そんなビン子のすぐ横で、イサクと真音子はぴたりと身動きが止まった。
小門の前で、入るか入らぬか押し問答をしていた二人の前に、ビン子が弾丸のように飛び出してきたのだ。
油断していた。
真音子も、確かに油断していた……。
……だが、それどころではなかった。
目の前で、ビン子が全身についた虫たちをバシバシとはたき落とす。
ピュンピュンッ、バタバタッ! 飛び散る虫の嵐。
大小さまざまなゴキブリも混ざって――まさに虫カーニバル!
一瞬、真音子も固まったように見えた。
だが、ゴキブリ程度ではびくともしない。
仕事柄、腐った死体の下から這い出るゴキブリなど、真音子にとっては日常茶飯事。
慣れっこのはずだった。
……その瞬間までは。
一匹の虫が、真音子の顔に――ピトッ!
全身が凍りつく。
――これは……アイツ……!
毛穴という毛穴に電流が走る。心臓は逆流しかけ、思考は真っ白。
――これ……だけは……絶対に……ダメ……!
ひきつる顔の上を、細長くうねる生体が這い回る。
無数の長い足が、まるで宇宙生物かのように異様なシルエットを描く。
そう、正体は――ゲジゲジ!
ムカデと違い毒はない。むしろゴキを食べる益虫様。
――そんなことは、分かっている!
分かっているのだが……
――嗚呼、もうダメだ!
ついに、真音子の喉から悲鳴が絞り出された。
「ゲジゲジだけは、絶対にイヤァァァァ!!!!!」
嫌い、というレベルではない。
もう、これは……天敵である。
全身の毛穴が逆立ち、理性は吹き飛び、心臓は警報を鳴らす。
真音子にとってゲジゲジ――それは、存在そのものが災厄なのだ。




