これが今回の通行料だ……
少し話を戻そう。
時はミズイがタカトの前に現れる、ほんの少し前――。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
暗い洞穴に荒い息がこだまする。
それはオオボラの声だった。
大穴で拾った手紙を握り締め、膝に手を突いて呼吸を整える。
ここは、かつてタカトと珍毛と戦った場所。
どうやらホールからここまで全速力で逃げてきたようだ。
理由はひとつ。
ホールを出た瞬間、天井から迫ってきた“得体の知れない恐怖”。
壁や天井をガサガサと駆け回り、音だけが追いすがる。
姿は見えない。だが分かる。
――捕まったら、確実に死ぬ!
その直感に突き動かされ、ただ必死に走った。
濡れた地面に足を取られ、額を岩に打ちつけ、肩を裂かれて血が滲む。
だが構っていられない。
オオボラの視線は、壁に刻んだ矢印だけを追っていた。
――矢印さえ見失わなければ……奴の足は必ず鈍る!
そう確信できる理由があった。
大穴で目にした無数の骸――。
食い荒らされたクロダイショウ、オオヒャクテ。
あれは、今追ってくる“奴”に喰われた痕跡だ。
だが、疑問が残る。
――なぜ奴は小門を越え、融合国に出なかった?
融合国、すなわち聖人世界に出れば、人間の生気が喰い放題のはずだ。
それなのに、奴はホールの天井に留まり続けた。
――いや、居座ったのではない。出られなかったのだ!
考えられるのは珍毛の存在。
雄である奴は、触手の攻撃を恐れて近づけなかったに違いない。
だが、その珍毛はすでに倒した。
問題は――そのことを奴が知っているかどうか。
知らない。知るはずがない。
――奴は、ずっとあそこにいたのだから!
ならば、珍毛のいた場所に近づけば……触手の恐怖に怯え、本能的に足を緩める。
魔物は強者に逆らわぬ。強者を恐れ、従う存在。
オオボラは背後を振り返る。
……静寂。
先ほどまで迫っていた気配が、ピタリと影を潜めている。
――やはり……
だが、わずかに気配は消えてはいない。。
――まだ、近くにはいやがるな……
奴はまだ珍毛の存在を疑っている。だが時間の問題だ。
いずれ気づく。道が開けていることを。
――ならば、今しかない!
血に濡れた手で手紙を握り締め、オオボラは大きく息を吸うと――
小門の出口へ向かって、一気に駆けだした。
そして――ついに光が見えた!
オオボラは渾身の力を振り絞り、小門を突き抜けて飛び出す。
ガラガラ……!
岩肌を転がり落ち、ドシン!と地面に叩きつけられる。
肺がつぶれそうな衝撃に顔を歪めるが、立ち止まる暇などない。
「くそっ……!」
すぐさま体を起こし、よろけながら森の奥へ駆け込んだ。
――ここで休めば、奴が追ってくる。
――それまでに……人の気配の多い場所へ!
そうすれば、奴は目の前の人間に意識を奪われ、自分への関心を失うはずだ。
緑の茂みに、オオボラの姿はあっという間に消えていった。
……その様子を、木の上からじっと見つめる影が二つ。
一つは、紙袋をかぶった大男。
もう一つは、華奢な少女のシルエットだった。
紙袋の大男は、オオボラの背を目で追いながら少女に声をかける。
「三人で入っていったのに、出てきたのは一人……お嬢、あの兄ちゃんに何かあったんじゃねぇですかい?」
「イサク! そんなこと言われんでも分かっとるわ!」
どうやらこの二人は、イサクと真音子のようである。
真音子は、タカトたちがミズイに導かれて小門へ入るところからずっと観察していた。
――タカト様が、あの小門に……。
真音子は以前から小門の存在に気づいていた。
だが、簡単に中に入ることはできない。
小門の入り口は、ミズイによって管理されていた。
いや、管理というより独占である。
老婆の姿と言えどもミズイは神である。
ひとたび神の恩恵を発動されれば、真音子とイサクに抗う術はなかった。
だからこそ、二人は近づけずにいたのだ。
だが数年前から、そこに出入りする影を何度か目にした。
第六のエメラルダの使者たちである。
彼らは老婆のミズイに命の石を差し出す。
「これが今回の通行料だ……」
「毎度ご苦労なこったね。エメラルダさんは魔人世界に知り合いでもいるのかい?」
ミズイがニヤリと笑えば、使者の顔が強張り、声を荒らげる。
「お前には関係ない! 詮索はするな!」
「ハイハイ。お互い、何も聞かぬのが約束だしな」
「そうだ。だから我らも、大空洞の命の石には関知しない!」
その一言に、ミズイの表情が鬼のように険しくなる。
「当たり前だよ! もし触れてみな! 私の残った力で、あんたもご主人様も全部消しちまうからね!」
短い沈黙ののち、使者はうなずいた。
「分かっている。だからこそ、お前も自分の役目だけを果たせ」
「ちっ!」と舌打ちし、ミズイが手を振ると、崖の岩肌に微かな震えが走る。
ゴゴゴ……と重い音を響かせて岩戸が割れ、大人ひとりが通れるほどの穴となった。
その奥からは湿った冷気が押し出されてくる。
――そんな小門に、タカト様が入っていった……。
真音子は気が気でなかった。今すぐ飛び込みたい。
だが……
木の下に腰を下ろすのは、美魔女の姿となったミズイ。
まるで門番のように、こちらの侵入を阻んでいた。
その姿を忌々しくにらみつける真音子。
――あの糞アマが!
だいたい、あの巨乳が気に入らん!
――タカト様は胸の大きな女の子が好きなのに!
これまでタカトの周りに、自分を超える胸を持つ女はいなかった。
ビン子などはまな板同然で、逆に可哀そうに思えるほどだ。
だから、タカトの周りをちょろちょろしていても気にならなかった。
それなのに……
――あの巨乳はやべえ!
真音子の直感が告げる。
あの胸は、自分と同等……いや、もしかすればわずかに大きいかもしれない!
――そうなれば、タカト様の眼は……あの下品な胸に……。
許せない!
それだけは断じて許せない!
――糞アマ! ぶち殺したる!
奥歯をギリギリと噛み鳴らし、今にも飛びかかろうとする真音子。
その肩をイサクが慌てて押さえ込む。
「どうどう! お嬢、落ち着いて!」
「放さんかい! イサク! お前からぶち殺すぞ!」
だがその最中、ミズイがふと首をかしげ、何かの気配を察したように目を細めた。
次の瞬間、輪郭がゆらりと揺れ、淡い光の粒となって空気に溶けるように消え失せる。
残されたのは冷たい風と、岩肌に残る座り跡だけ。
そして――代わりに姿を現したのが、オオボラだった。
「……お嬢、やっぱり、あの兄ちゃんに何か起こってるんじゃ……」
「やかましい! イサク! そんなこと分かっとると言っとるやろが!」




