青いスライム
大穴を訪れた最初の来客は、魔ムカデのオオヒャクテだった。
緑の月の隙間から、ポトリと落ちてきたその体は、ひどく衰弱していて、しばらくの間は動くことすらできなかった。
――きっと、よほど空腹だったのだろう。
スライムは初めての訪問者を心から歓迎した。
自分の体を差し出せば、この生き物も元気になるに違いないと信じて。
オオヒャクテは、よろよろとスライムにかじりついた。
すると、みるみる活力を取り戻し、やがて体をうねらせるほどにまで回復した。
これで孤独な毎日が終わる――スライムはそう思った。
しかし、元気になったオオヒャクテは恩を返すどころか、スライムを追い回し、捕まえてはまたその体を食らうのだった。
オオヒャクテが空腹になるたびに、スライムは必死で逃げ惑う。
やがてその魔ムカデが眠りにつくと、スライムはひとときの安らぎを得て、緑の月と語らい、水のしずくを飲むしかなかった。
そんな日々が、長く続いた。
やがて、二人目の来訪者があった。
次に落ちてきたのは、大蛇――クロダイショウである。
穴に入るなり、腹をすかせたクロダイショウはオオヒャクテに襲いかかった。
クロダイショウがオオヒャクテを追いかけ、オオヒャクテがスライムを追いかける。
暗い穴の中で、歪んだ追いかけっこが繰り広げられた。
やがて力尽きたクロダイショウがぐったりと横たわると、スライムはまたも自らの体を差し出した。
今度こそ友達になれると、信じて。
だが、回復したクロダイショウもまた、恩を忘れた。
オオヒャクテと共に、力を合わせてスライムをいたぶり、食らい始めたのだ。
――こんなはずではなかった。
スライムは必死に跳ね回り、逃げ続けるしかなかった。
気づけば、穴の中はクロダイショウとオオヒャクテで溢れ返っていた。
増えた群れは互いに争うどころか、結託したようにスライムを食い散らかす。
その柔らかな体を、飢えのたびにむさぼり、何度も何度も繰り返した。
それでも、スライムは与え続けた。
大穴を埋め尽くすほどの魔物たち。
だが、その命を支えていたのは、ただ一匹の小さなスライムにすぎない。
この小さな体の中には、一体どれほどの生気とやさしさが蓄えられていたのだろうか――。
次の訪問者は、これまでとは違っていた。
クロダイショウやオオヒャクテのような獣ではなく、二本の足で立つ生き物だった。
その姿は恐怖に引きつり、慌ただしく穴の中へと転がり落ちてきた。
通常ならば、この魔物の渦巻く大穴に自ら飛び込む愚か者などいない。
だが、その二足歩行の生き物は何かに追われているのか、壁にぴたりと張りつき、震えながら上を見上げていた。
まとわりつくクロダイショウやオオヒャクテさえも気にかけず、ただ息を潜めて。
黒い影が、穴の口を塞ぐように覆いかぶさった。
闇の中で、赤い二つの眼がぎらりと光る。
生き物のものとは思えぬ冷たさと飢えを孕んだ光。
口角から吐き出された白い息は、熱を帯び、岩肌をじりじりと焼くように照らした。
二足歩行の生き物は小さく悲鳴を上げ、じりじりと後ずさる。
――あの目は、危険……近づいちゃダメ。
スライムは直感し、岩の隙間へと身を滑り込ませた。
クロダイショウとオオヒャクテが、恐怖に駆られるように群がり、その身を覆い隠していく。
次の瞬間――。
「ドンッ!」
大穴を震わせる衝撃音とともに、赤い影が降り立った。
直後、耳を裂く絶叫。
生き物の断末魔が反響し、すぐに――肉が引き裂かれる、湿った音。
骨が砕け、臓腑が潰れる、鈍く重い音。
むさぼる舌が肉片を啜る、ねっとりとした音。
闇の中で何が行われているのか、目に映らぬ分だけ、その音がすべてを物語っていた。
やがて、穴全体を駆け回る荒々しい気配。
怯えたクロダイショウとオオヒャクテの群れが、のたうち回り、鳴き声をあげる。
それらさえも、次々と引き裂かれていく音に呑み込まれていった。
そして――。
「ゲェェ……ッ」
何かを大量に吐き散らす音が響き渡る。
それは血か、骨か、臓物か……。
しばし、ぐちゃりとした音が続き――やがて、静寂が落ちた。
スライムは、そっと塊へと戻った。
そこには、赤黒い血だまりが広がっていた。
減り果てた群れの合間に、ばらばらに引き裂かれた二足歩行の亡骸。
その頭部だけが転がり、空虚な瞳で、まるでスライムを責めるように見つめていた。
スライムは、そこで悟った。
誰かがこの孤独を癒しに来てくれる――などという夢は、もう終わったのだと。
いつか誰かが笑って声をかけてくれる。
そんな小さな願いさえ、もう忘れてしまった。
あきらめたスライムは、もはや動くことさえやめていた。
月の垂らす雫の下で、ただ小さく身を固めるだけ。
オオヒャクテが牙を立てても、クロダイショウが噛み千切ろうとしても――声をあげることはなかった。
幾度も月は欠け、満ち、また欠け――やがて一年が経った。
相変わらず、オオヒャクテやクロダイショウにかじられる日々は続いている。
だが最近、妙に数が減ったような気がしていた。
……時折、穴の上から大きな網が降りてきて、群れをすくい上げていく。
空へ引き上げられるクロダイショウやオオヒャクテの群れ。
やがて、ぐちゃりと肉を噛み砕く咀嚼音が遠くの空から聞こえてきた。
なんとなく顔を上げて、穴の外を見た。
そこには――あの赤い目とは異なる、緑の眼が、じっと穴の底を覗き込んでいた。
赤い目は荒神の証。
生気を失った神が爆ぜようとする、破滅の前触れ。
対して、緑の眼は魔物の証。
穴を覗き込む魔物は、群れを大きな網ですくい取り、そのまま貪り食らう。
やがて満腹すると、噛み砕かれた亡骸を残飯のように穴へ吐き捨てていった。
やがて数が減れば、しばらくは獲物が増えるのを待つ。
そして、群れが溢れるほどに育つと、またすくい取って喰らう。
ただ、それだけ。
ただ、その繰り返し。
けれども、そんな循環すら、もはやスライムにとっては意味を持たなかった。
何を見ても、何をされても。
ただ、心はとうに死んでいたのだから。
いつの間にか、涙を流すことすら忘れていた。
願いも、希望も、声も――すべて、暗闇に溶けてしまった。
――誰かと……お話したかったな……




