一寸の虫にも五分の愛
「オオボラ! 11時! 上角60度! コイツ、早いぞ!」
カエルがゲロリと鋭く鳴き、尖った鼻先を闇の一角へと向ける。
それを確認したタカトは、即座に状況を判断し、声を張り上げた。
その叫びに反応するように、オオボラが動く。
伸びてきた触手を、まるで舞うように『至恭至順』でいなしてみせた。
──音が止まった直後に来る。それが合図だ。
きっと触手は、後方に引いてから勢いをつけているのだろう。
「奴の位置さえわかれば大丈夫だ!」
タカトの指示は、あくまでタカトから見た角度と方位。
だが、それを瞬時に頭の中で変換できるのが、オオボラの強さだった。
──けれど、このままいなし続けていても、埒が明かない。
攻撃を防ぐだけでは、前には進めないのだ。
ならば──今しかない!
オオボラは、触手の軌道が逸れた一瞬の隙を見逃さなかった。
低く構え、全身に力を込める。
そして、大地を蹴った。
洞窟の湿った空気を裂きながら、矢のようにその身が前方へと飛び出す──!
「2時! 下角45度! すぐ目の前だ!」
タカトの声が響いた瞬間、オオボラは即座に鉈を振り払った。
暗闇の中、何かを切った手応え──ゴリッとした質感が、掌から肘までを震わせる。
だが──浅い!
理由は明白だった。
そう、オオボラの鉈はすでに半分に折れていたのだ。
もし刃が完全な状態なら──確実に斬り裂けていたはず。
だが、今さら悔やんでもどうしようもない。
オオボラはすぐに意識を切り替えた。
──ならば、もう一撃だ!
「タカト! 奴はどこだ!」
「壁を登ってる! お前の頭の上だ!」
その声を聞くや否や、オオボラは膝を沈め、天井めがけて鉈を突き上げた。
「くたばれ、クソ虫がッ!!」
だが──その瞬間だった。
べちゃっ。
「ぶはっ⁉」
突如、顔面に何かモフモフしたものが張りついた。
モフモフなのに、べちゃっ?
……べちゃなのだ。
その違和感に、オオボラは咄嗟に攻撃を中断し、後方へ跳び退いた。
「な、なんだこりゃ……!」
顔にまとわりついた何かを、必死に振り払う。
指先には、ふわふわとした毛の感触。だが、その奥には──ぬるっとした、ヒダ状のうごめきがあった。
しかも鼻をつく、強烈な悪臭。
腐ったヨーグルトを煮詰めたような異臭が、脳を直撃する。
「おえっ!」
オオボラは反射的に胃液を吐き出した。
足元に広がるゲロの中で、何かがもぞもぞとうごめいている。
──万毛かよ。
オオボラはその毛むくじゃらを、容赦なく踏み潰した。
「臭えんだよ……このゴミがッ!」
ブシュッ!
体液をまき散らして潰れる万毛。
どうやら、『珍毛』を守るために、身を挺して飛びかかってきたらしい。
──そう、一寸の虫にも五分の魂。
……いや、一寸の虫にも五分の愛だ。
一寸は約三センチ。
万毛の全長は三十センチ──つまり十寸。
ならば、十寸の虫には──五十分の愛がある!
……もう、そりゃデカい。愛も、態度も、臭いもな。
だが、オオボラが万毛を踏む潰した瞬間、風切り音が変わった。
おおかた、雌の万毛を踏みつぶされたことに珍毛が頭にきたのだろう。
先ほどよりも触手の動きが大振りになったのだ。
「オオボラ! 来るぞ! 11時、上角65度!」
タカトの声に、オオボラは即座に鉈を構えた。
だが──来ない。
攻撃の気配が、先ほどより明らかに遅れている。
──来たッ!
闇を裂く気配。
オオボラは反射的に鉈を薙ぎ払った。
キィンッ!
刃が何かをとらえた。だが──軽い。
鋭さも、重さも、先ほどまでの圧力がない。
──すっぽ抜けたような……?
一瞬の違和感に、オオボラの脳が働く。
「……やっぱり、さっきの一撃、効いてたな」
思い返せば、先ほどの一撃は確かに手応えがあった。
どうやら、触手の“根元”に深く食い込んでいたらしい。
完全には断ち切れなかったが、それでも半分は裂けていたのだろう。
そのせいで、動きが鈍り、力も伝わっていない。
攻撃のタイミングも、速度も、すべてが鈍っている。まるで別物だ。
例えるなら、以前の珍毛の触手の動きは、野原しんのすけの「ぞぉ〜さん! ぞぉ〜さん!」のようにキレがあった。
それが今や──
ジジイが口を乾かしながら呟く「ぞ……う……だ……ぞう……」のような、しなびきった動きに変わっている。
もう、みさえですら怒らない。むしろ、静かにため息をついて帰るレベルだ。
──よし、確実に削れてきている。
オオボラの口元が、わずかに吊り上がった。
松明の明かりを掲げ、オオボラは前方を照らした。
赤くゆれる光が、闇の中にぽっかりと穴を開ける。
その先にいるはずだ。珍毛。
今の奴には、もう攻撃手段は残っていない。
ならば──
あとは体になたを突き刺すだけで、すべてが終わる。
オオボラは、気配を感じながら、ゆっくりと足を進めた。
闇の奥に──かならず、何かがいる。
じっとりと空気が重くなったその先で、かすかに動く影があった。
ジワリと、光に浮かび上がる黒い塊。
毛。いや、ただの毛ではない。
それは、巨大な毛の山のようだった。
「オイ! タカト! コレが珍毛か?」
魔物に詳しくないオオボラは、背後のタカトに声を飛ばした。
すると、即座に返ってきたのは鋭い否定だった。
「違う。それは万毛だ! しかも……山のように積み重なってる!」
驚いたような声だった。
言われてみれば、確かに異様だ。
モフモフとした毛が、幾重にも折り重なっている。
ただの一匹ではない。群れている。
そして──
……動いている。
よく見ると、毛の先がわずかに揺れていた。風ではない。生きているのだ。
これは、死骸の山ではない。
なぜ、こんなに密集している?
なぜ、身を寄せ合うように積み重なっている?
嫌な予感が脳裏をよぎる。
オオボラは松明の火を近づけた。
すると、その下に何か、別の気配を感じた。
まさか──
「……タカト、珍毛は、もしかして……」
「おそらく、その下にいる。万毛たちが、傷ついた珍毛を守ってるんだ」
タカトの声が、低く響いた。
毛の山の下で、珍毛が息を潜めている。
雌たちがその身をもって、庇っているのだ。
オオボラは無言で毛の山を見下ろした。
目の前のモフモフは、ただのモンスターではない。
その一塊に、どれだけの思いが込められているのか──
たとえ敵であっても、少しだけ、躊躇が生まれる瞬間だった。




